日々2
目の前には、部屋の奥から引っ張り出して来た鏡があった。
祖母から譲り受けた手鏡で、漆塗りのかなり使いこまれたものではあるが、どこか気品を感じさせるものである。当然それは伏せたままで、自分を映してはいない。
私の部屋は八畳で、床はフローリングだ。南向きにベランダがあり、北はクローゼット、西にパソコンデスクがあり、東にベッドと、必要最低限のものしか置かれていない。そんな部屋の真中に座り、私は鏡と対峙していた。
最後に自分の姿を確認したのは何時だっただろうか、いまいち記憶がはっきりしない程昔である。少なくともここ一年は見ていない。そもそも鏡なるものを意識するのも不愉快で、自身の姿を確認するものがこの世に有る事すら頭の片隅に追いやっていた。パソコンのディスプレイに反射防止フィルムが張ってあったのは幸いである。
それだけ否定していながら、今更になって鏡などを持ちだしたのも、当然彼女の影響だ。
もし本当に、彼女に自身の顔を晒さなければいけなくなった時、幾らなんでも数年ほったらかしの自身の顔をそのまま晒す訳にもいかない。焼け石に水ではあるが、一応は整えた状態にした方が良いだろう。
幸い、これでも『こうなってしまう前は』普通に女子高生をしていたのだ、化粧だってしたし、そもそもは顔にコンプレックスを持っている訳ではなく、身体に持っているものである。
ただやはり、暫く整えていない顔がどんなものなのか……それを確認するのは、勇気がいる。
これも部屋の奥からほじくり返したものだが、高校入学当時の写真を持ち出した。額におさまった私は、これからの高校生活にそれなりの期待を持った表情で、母と父に挟まれ笑っている。
この当時と同じ顔、だろうか。手で触っても解るように、恐らく少しヤツレているだろう。しかし流石に、まだ二十歳だ。心労こそあれど厳しい仕事に付いている訳でもないから、過労で酷い顔をしている訳もない。
私は意を決して手鏡を握り締める。
眼を瞑り、手鏡をひっくり返し、薄目でチラリと窺う。
如何に。私はどんな顔をしていただろうか。
「――くっ……うっ……」
右目をうっすらと開けて確認。まだ大丈夫だ。
左目をうっすらと開けて確認。そこそこいけるだろうか。
ゆっくりと両目を見開き、手鏡を確認する。
「……うん。少し、やつれてる」
ヤツれている、が、そこまで酷くは無い。
高校入学当時の写真を見比べればやはり肉は薄くなっているものの、道端を普通に歩いている同世代と比べた所で、きっとそん色はないだろう。恐らくそうだ。
目の下に多少のクマも見受けられるが、これは隠し様がある。
問題は化粧品だが……。
生憎、高校当時のものがそのまま箱に詰められてクローゼットの中だ。数年前のものを使うのは憚られる。
『タツコさん』
様々と想いを巡らせていると、ドアの向こうから母の声が聞こえた。私は手鏡を床に置き、そのままドアへと向かう。
「はい、お母様」
『お食事を持ってきました。今日は赤尾の煮付けなんですけれど』
「はい。好物です」
『――タツコさん?』
母が不思議そうな声を漏らす。いつも通りにしているつもりだが、どこか違って聞こえるのかもしれない。
母は常に甲斐甲斐しく、私の事を面倒見てくれている。その接し方はほぼ一定で、幼いころから変化は無い。私は母の優しさに触れる度に、自身の不甲斐なさを省みては虚しくなる。
話し方もずっとこうだ。良いところの娘で、小学生からずっと女子校に通っていた。短大を出た後祖父の勧めで見合いをして、今の父と結婚した。
家族関係は良好だった。
母は甲斐甲斐しく、父は良く働く。しかしその家族に罅を入れてしまったのが、私なのだ、申し訳無い気持ちは当然あるものの、どうしようもない。
「どうしましたか、お母様」
『いえ。少し、声が明るく聞こえたもので。良い事がありましたか?』
「……ほんの少しだけ前向きになろうと思いました」
『それは、良かった。どうです、部屋から、出てみては』
「まだ、ちょっと」
『そうですか……何か、協力出来る事があったら言ってください。お母さんはタツコさんの味方です』
「有難うございます。あの、お母様」
『はい、なんですか』
「申し訳無いのですが、お化粧品を、買ってきて貰えませんか。薄めで細かいパウダーファンデと、アイブロウと、ブラウンのアイライナー。薄桃のグロスと……そのほか化粧水や日焼け止め、一式なのですが。あと、髪を切る用の、安いものでいいです、鋏と、すき鋏、それに、ええと、髪止めと、ワックスでいいかな、緩いものを……。自分で割っておいてなんですが、置き鏡があると、嬉しいです」
そのように伝えると、暫く母からの返答は無かった。ドアの向こうから啜り泣く声が聞こえる。
この二年半、外に出るような態度を一切見せなかった私が、あまりにも意外な発言をした為に驚いているのか、自身の努力が実りつつあると、そう感じているのか、解らないが、悲しい気持ちではないだろう。
『……パウダーや日焼け止め、化粧水なら私のものがあります。他の物は、今からですと近くのお店では、安ものになってしまいますが……それでもいいなら、直ぐにでも、用意しますね』
「お母様」
『ほんの少しでも進展しているのなら。貴女の気持ちが少しでも和らいでいるのなら。お母さんは無理強いなんてしません。また、貴女の可愛い顔を見せてくださいね』
「はい、お母様。ごめんなさい。愛しています」
『ええ。お食事して、待っていてくださいな』
思わず涙がこぼれてしまい、私は袖で目元を拭う。私はこんなにも優しく、娘の事を考えている母を困らせ続けて来たのだ。
母はどんな時だって私の味方だった。私が悲しい想いをすれば慰めてくれたし、良く出来れば褒めてくれた。
――どうしてこんな事になってしまったんだろう。
ドアを開け、トレイに乗せられた夕食を引き取る。
ご飯を食べながら、こぼれ落ちて来る涙が止められない。私の身体は栄養の一切を溜めこまないように出来ている。病気といえば違うし、貧血になるかといえば違う。
兎に角、肉にならないのだ。贅肉にも筋肉にもならない。口から入った栄養素は、脳味噌を動かす必要最低限だけを取り込み、殆どがそのままするりと大腸へと抜けて行く。
どんな不規則な生活をしようと、とんでもない時間にお菓子を食べて甘い飲み物を飲もうと、体重が増える気配はなかった。
その結果、過食と嘔吐による栄養失調、胃液で喉が焼け、歯が溶けるなどした。吐きたくなどないのに、身体と心は超過栄養を否定する。今鏡を見ると、栄養失調を起こしていた頃よりも断然健康に見える。生憎胸にも腹にも尻にも肉はないが、一番酷かった時期を考えると、私は健康そのものなのかもしれない。
あの時、私は精神的にも弱っていた。勇気を振り絞って学校に出て行って、陰口を叩いた男の頬でも引っぱたいていたのなら、こんな事にはならなかっただろうに。
でも駄目だ。それは過去であり、振り返れば苛立たしさと悲しさしか起こらない、不毛な記憶だ。これに立ち向かってよい事はない。精々頑張ったところで、トラウマで動悸が起こり、嘔吐するだけである。
私は悪意に弱すぎる。そして身体が細すぎる。
(はあ)
私は食器を片づけてからパソコンの前に向かう。高校当時から使っているものであるから、相当に型落ちしたものだ。とはいえ、有名メーカーの当時でいうフルスペックのノートを購入した為、スペックに頭を悩ませた事はない。恐らくお願いすれば、明日にも新しいパソコンを買って貰えるだろう。今考えると、こういう所が普通のお家とは違うのだろうな、とぼんやり考える。
私は恵まれていると思う。
インターネットでゲームやチャットを繰り返していると、自分と似たような境遇にありながら、もっと悲惨な状況下に身を置いている人物を見かける。それが嘘か本当か解らないが、いつ顔を出してもいる為、真っ当な職に付いていない事は確かだろう。
私が知る内で一番酷い境遇の人物は「hanana」というハンドルネームの人物だ。
hananaは私と同じぐらいで、引きこもり歴が五年を超えている。
酷い視線恐怖症の持ち主で、以前はサングラスとマスクを掛けていれば外には出られたそうだが、今は完全に無理だそうだ。
実家暮らしで父は酒乱、母は要介護、娘は引きこもり、身体が動く祖母が一人で面倒を見ていると言う。父はマトモな稼ぎがなく生活保護を受けており、母は意識こそしっかりしているものの、事故で下半身が動かなくなってしまった。昔気質で気骨溢れた大黒柱であった祖父が他界してからというもの、ますます家庭内は悪化の一途を辿り、一寸先が正しく闇であるという。
耳を塞ぎたくなるような状態にありながら、ネット上のhananaは実に元気が良い。
hanana:竜ちゃんハッケンwww
ryu:おはよ
チャットを立ち上げてログインすると、早速hananaが話しかけて来る。
彼女は一日中複数のコミュニティに入り浸っており、複数のチャンネル、ゲームにログイン状態で居る。リアルラックと忍耐力が売りで、ほぼ無課金状態で高レアアイテムを揃えるなどという真似をやってのける、一部での有名人物である。
彼女はそれを鼻にかける為、当然慕う人間よりも敵の方が多い状態だ。
私は比較的仲の良い部類に入る。そもそもゲームはサワリ程度でドップリはつからず、チャットの延長として用いている。なので、どことも争わない。
hanana:竜ちゃん、結局あのネトゲやらないの?
ryu:んー。皆で狩りとか、拘束されて疲れちゃうし。
hanana:装備あげるよ? レベリング手伝うし。
ryu:リアルと一緒で無職キャラのままチャットしてればいいよw
hanana:え、なにそれ怖い。ま、何? 私より復帰の望みありそうだから引き込もうとしてるんだけどww
嘘か誠か。彼女はこういう事を平気で言う。私は彼女にだいぶ気に入られているらしく、兎に角良く弄られる。ネットゲームで一人狩りを楽しんでいても、彼女はどこからともなく現れて、私のレベル上げを手伝おうとするのだからどうしようもない。
一度ハッキングを疑ったが、そんな形跡もない。
顔の見えない相手というのは、無味乾燥であれば恐ろしくも何ともないが、いざそれが色を持って現れると、底知れぬ恐怖を味わう事になる。
ryu:母上様に、メイクセット一式そろえて貰えるようお願いした。
hanana:えーwww外出るの? 無理しない方がいいって絶対www外怖wwww怖www
ryu:まだ出れないけれど。逢いたい人がいて。
hanana:ネット彼氏?
ryu:リアルだよ。女の子。
hanana:うはwwビアンだったのwwwwwww
ryu:十歳
hanana:おまわりさんコイツです
ryu:冗談wまあその、リハビリ的なもの。
hanana:そっか。外は怖い大人が沢山いるから気を付けるんだよ。
hanana:友達減っちゃうの悲しいけど。私嫌われてるし。このチャットだって前は沢山いたのにね。
ryu:自重知らないからね、貴女
hanana:ま、頑張りなさい頑張りなさい。
それからhananaの発言が途切れる。興味を失ったのだと思い、私はニュースサイトの閲覧を始めた。
私が社会に出なくとも、世界は常に回って行く。そんな事誰もが解っていても、人間はやはり自身こそが主役だ。その乖離は激しい。
私は世界から切り離されている。いや、切り離している。
私が生み出すものは蝶の羽ばたきにも満たない社会影響であり、私が抱くものは空虚で無意味な、どこにも発散される事のない薄暗い感情のみだ。
『タツコさん』
デスクに手を乗せたまま呆けていると、やがてドアの外から母の声が聞こえる。聞こえるなり私は立ち上がり、ドアの前に正座する。
「はい、お母様」
『用意しましたよ。化粧箱に全て入れておきました。私の使っていたものですけれど、ホットカーラーやドライヤーも用意しましたから、良かったらどうぞ』
「……有難うございます、お母様」
『いいえ。お洋服は……厚手のものを、明後日までには用意しておきますね』
「何から何まで、申し訳ありません」
『私は貴女の母ですから』
用意されたものを一式受け取り、私は一緒に食器を差し出す。ほんの少し開いたドアの隙間から、母の嬉しそうな顔が覗けて見えた。私の視線に気が付いた母がふと此方を見る。即座に顔をそむけてしまった。
母親相手に顔も見せないなど……解っていても、こればかりは仕方がない。
「何も、おかしくなんてありませんよ」
「――、ご、ごめ、ごめんなさい。すこし、少し、整えますから……その、近いうちに」
「まあ。本当ですか」
機嫌がよさそうに食器を下げ、母がリビングに戻って行く。跳ねあがった心臓を抑えるようにしながら、私はドアを閉めて背を預けた。
なんとも不甲斐ない。
母でこの調子では、愛すべき彼女に見せる顔など本当にあるのだろうかと疑問を抱かざるを得ない。
息を整えて、母から譲り受けた化粧箱と、他一式を確認する。
滑らかな黄土色のナイロン袋に入っているのは化粧水、乳液と日焼け止め、化粧下地などだ。母のもの、とはいうが、あの人は年齢の割に若い為に、使っているものも若者向けだ。着飾れば三十前半といっても皆が頷くような人であるから、私とはデキが違う。
一方のポーチを確かめる。
此方に入っているのはリキッドとパウダーファンデのコンパクト。グロスが各色揃っており、アイブロウもマスカラも、注文通り薄めのものが入っていた。
アイライナーとアイシャドウは使わないものの、筆やビューラーと一緒になってまとめてある。
恐らく母が予備で持っていたものだろう。統一感は無いが、私からすれば十分だ。
両手で小さく抱えるぐらいの化粧箱はどこから持ってきたのだろうか。髪留めやピン、小さいヘヤアイロンや付け睫毛などの小物が揃えてある。
私は久々の化粧道具を目の前にして、眩暈がした。あの頃はこれよりももっと大きな、自分専用のものを持っていたかと思うと、身が細い身が細いと言いながらも、結構自信を持って女の子をしていたのだなと、意識の違いを思い知らされる。
(あれから二年半か……)
私が家からでなくなったのは、栄養失調からの回復後、暫く様子見という意味を含めて自宅療養を始めた頃だ。そして家から出られなくなったと気が付いたのは、それから三週間後である。
普段通り制服を着て学校に行く。その当たり前が、私には出来なくなっていた。
(本当に出来る? 私に? 二年半も自分の部屋に居たのに?)
――化粧箱をパソコンデスクの上に置くと、そのままベッドに横になる。
客観的にみれば大した事のない、しかし当時の私からするとあまりにも酷な、あの情景が思い浮かぶ。こうなると私は、布団を被ったまま思い返さぬようにと堪え、何者かに怯えるかのように身動きもとらず、じっとしている事しか出来なかった。