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肯定2



 誰も彼もが孤独を抱えて生きている。


 使い古された言葉だが、付け加えるなら、貴賎はあるのだ。唯一、そればかりが私の優越感なのかもしれない。


 安っぽい寂しがり、やすっぽい自己顕示に、安っぽい自殺願望。私を見てと叫んで回るうちは、まだ健全である。まだ観て欲しい、気にしてほしい、大切にしてほしいという欲求を人様に告げる事が出来る、知らせる事が出来るからだ。


 だが私は、私という人達は、それすらも許されていない。内側に抱え込み抱え込み、生きる事も死ぬ事もままならず、鬱屈とした精神を澱として心に淀ませ続けるのである。


 人よりも不幸だ。そう思いこめる心こそが病であり、誇れもしない矜持である。


「タツコ。大武さんの事だが」


 ハナエが発って三日。私は実家に戻っていた。思考にふけるあまり食欲も無かったのだが、父が食卓を囲みたいというので、私は仕方がなく部屋を出て来た。ハナエが数日いないだけでこの有様であるから、母も見かねたのだろう。


 父はいつも通りだ。自分の疑問は素直に口にする。相手への配慮がとても少ない。世渡りが出来るタイプの人間ではないものの、嫌味なほど有能である故に、父は要職についている。


 そもそも父が企業会長の息子であるという事実は、勤め先には暫く隠されていた。

 自分の力で何処まで出来るのか、背景無しに、おべっか無しに実力を認めさせるのだと、とても強い志を持つ人である。


 苦手と言えば苦手だ。私とは正反対である。


「なんでしょう、お父様」

「気の迷いとか、勘違いなんてものじゃ、ないんだな」

「つまり、私が同性愛者である事は間違いないか、という事でしょうか」

「ああ。生憎と理解出来んのでな」


 父が食事中話す、という事はそれだけで重みがある。父は何事も事務的であるし、食事時は食事をする為の時間だと思っている節がある。わざわざ呼び付けて一緒に飯を食おうなどというのだから、この言葉にもそれなりの含みがあるのだろう。


 当然私の回答は変わらない。


「はい。非生産的で、常識人のお父様からすれば、酷い不都合かと思いますけれど、お父様の娘は男が嫌いです。いえ、男が嫌いだからハナエが好きというのも違います。好きになった人は彼女だったんです。本当に、心からそう思える人なんて――」


 ハナエと、そして亡くなってしまった彼女だけだった。


「あれから暫く考えた。本当に正しい事なんていうのは、長い人生で、一度たりとも観た事はない。出会った事もない。何もかも不確定で、手にとれず、正しいと思いこんだ事が間違いだったなんてのも、いつもだ。しかしその中でもな、やはりお前と大武さんの関係については、理解し難かった。将来は分からんが、現状、法律上何処にも保障されない、子供も出来ない、保険だって受け取るのが難しい。どこにメリットがあるのか」


「メリットで、人を好きになりますか、お父様」

「ミチと結婚したのは、メリットがあるからだ。そして異性だ。その過程で家族への想いが産まれた事を、俺は一切否定しない。それはミチも承知している」

「叩きましたがね、私は」

「腰を折るな」

「ふふ。はいはい」


「……お前達の関係に、親が介入するなんてのは、当然古い考えだ。だがどうあっても親としては不安なんだ。まあ、本家なんていうのは、俺の弟が継げばいい、お前が我が家の末代だったとしても、それは承諾しよう。だが将来、子供がない事を嘆くような真似はするなよ。どこからも援護がないと、喚きたてるんじゃないぞ。世界はマジョリティで出来ている。お前達は、マイノリティだ。キツイ言い方だが、社会法則がひっくり返りでもせん限り、どうする事も出来ん」


「承知しています」

「……ミチ」

「あのね、タツコさん。お父様は恥ずかしがって口に出来ないそうですけれど、つまるところ、世の中は何も保障してはくれないけれど、おれが支えてやるから、好きにしなさいと言いたいそうなんです」

「いや、それは少し語弊が」

「同じ事でしょう。タツコさん。何かと厳しい社会で、心が強くない貴女が、弱い立場になろうとしている事を、心配しているんです」

「――お父様」


 父は私が視線を向けると、ソッポを向いてしまった。余程恥ずかしかったのだろう。


 父はカタブツで、非常識を嫌い、何事も真っ直ぐを見つめる人だ。私という曲がった存在について、悩んでいたのかもしれない。


 こういう人が世の中を渡って行こうとした場合、一体どれほどの努力が必要なのか、社会経験のない私には想像もつかないが、容易でない事は確かだろう。


 責任ある立場として、企業会長の息子として、一人の娘の父として、様々な想いがあったに違いない。父は口が悪いというよりも、思った事を素直に口にしすぎる。私をこき下ろす為に言い放った暴言のように思える言葉も、今考えれば、ただ純粋にそう思ったから言っただけだろう。


 勿論、それが歪を産み、勘違いを量産するだろう事は確かだが、彼は実力でそれを解決してきた。


 私という不可解な存在に対する疑問と懊悩、そして一定の結論が、今なのかもしれない。


「家族だ。家族は支え合って生きる。こればかりは、今も昔もない。合理的だからな。式を挙げたくなったら言え。親父達も全部説き伏せて、雁首そろえさせてやる」

「し、式?」

「籍は入らんが、形式ぐらい要るだろう。何も心配するな」

「あ、はは――あの、お父様」

「なんだ」

「……有難うございます」


 誰も彼もが孤独を抱える中、それを癒す為に用意するのがパートナーであり、家族だ。衣食住だけでは足らず、より良く健全に生き延びる為に、ヒトは愛する人を用意する。


 この種が繁栄し、頂点として君臨し続けるのは、全てこの知能と社会性にある。


 父のこの行いに、メリットは存在しない。むしろ不都合ばかりだ。しかしそれでも不都合を抱え、解決に走ろうとする姿こそが、家族に対する愛情なのかもしれない。


 損得で割り切れない感情。そんなものが、果して私に存在しただろうか。


 父に礼を言い、食卓を後にした私は、そのまま自室に戻る。


(幸福と希望と、不幸と絶望が、両面からやってくる。私が望まなくても)


 何気なく彼女の気配を感じて、私はかつての王国の跡地へと足を踏み入れた。

 肌を刺すような冷たさに身を震わせながら、私はいつもの椅子に座る。


(私が望まなくても、部屋を出たあの日から、私の人生が紡がれていく)


 隣には隔て壁。既に隣の部屋は引き払われており、澪もいない。


「よかったわね、タツコ」


 暫くすると、そんな声が聞こえてくる。


「……」


「どうしたの、浮かない顔ね。お父様も認めてくれたじゃない。あのカタブツからしたら、相当の決断よ。世の中、なんだかんだ、家族には支えられ、関わり続けて行くの。それがうっとうしい事もあれば、助けられる事も多々ある。勿論、自分勝手な貴女がそれを承服するかどうかは、また別だけれど」


「いえ。嬉しくは、あります。家族が増えれば、ハナエも喜ぶ。あの子には家族が必要なんです。私だけがどれだけ愛した所で、彼女は絶対に満たされない」


「あら、嫉妬? 自分さえ居てあげれれば良いって」


「いいえ。むしろ、安心しているんです。家族の結びつきが強くなれば、彼女が私だけに、私が彼女だけに頼る事も無くなる。精神衛生上、互いに有益です」


「そう。では何が不満なのかしら。まあ、世の中の全てに不満と疑問を持つ貴女だから、その疑問も仕方ないでしょうけど」


「愛ってなんでしょう」


「難問ね」


 これは妄想。虚像。自問自答に他ならない。


 自分の知らない答えを自分が知る由も無い。果てしなく無意味だと自覚しながら、私は言葉を紡ぐ。


「私の、家族に対する想い。これは恐らく、単なる利害だと思います」


「ええ。親が居ないと生き辛いものね。私も良く知っているわ」


「私の、貴女に対する想い。これも恐らく、単なる利害だと思います」


「ええ。ただ利害は一致したわ。互いに与え受け取って出来あがった、美しい利害よ。それを愛と呼ぶのならば、間違いないわ。ただ、貴女が抱いていた感情は、私とは違ったかもしれないけれど」


「私の、ハナエに対する想い。これはもっともっと、利己的で、自分勝手で、美しくないものだと、思います」


「そうかしら。これもまた利害が一致しているわ。互いに幸せを目指そうという同志よ。これを愛と言わないのならば、もう何がなんだか解らないわ。それが疑問なの? いいえ、そんな事を考える貴女が嫌なのね」


「……父は、自分を曲げてでも娘の意見を親族に通してくれるそうです。それは、父にとって不利益しかない。あれだけ非合理な事が嫌いな父が、です」


「娘だもの。勿論碌でもない父親も沢山いるでしょうが、貴女のお父様は父としての責任を貫き通そうとしているのよ。筋が通っているわ。男らしいじゃない?」


「それは愛ですか。責任ですか」


「貴女は子供を親の責任の具現と言うでしょう。だからきっと責任よ」


「責任だけで、自身の立場を危うくするんでしょうか」


「そう。じゃあきっとそれが、言葉にも、数値にも出来ない、家族の愛というものじゃないかしら」


「……そう、なんでしょうか」


「愛にも種類があるわ。そして愛には責任が伴うの。離して考えられるものじゃない。貴女はそんな下らない事を悩み続けて悲劇のヒロインを演じ続ける自身に酔っぱらっている。そうでしょう」


「はい」


「――愛が全部美しいとは限らない。愛の無い関係から慈しむ心が産まれる事だってある。愛のある関係から絶望がにじみ出る事もある。お父様が認めるなら、それで良いじゃない。線引きは大事よ。あとは貴女とハナエが、どうやって上手く生きて行くか。本当の幸福を手に入れられるか」


「そんなもの――どこにあるのでしょうか。ハナエは、気が付いているんです。私の気持ちが未だ、貴女に傾いている事を。あの寂しそうな表情も、時折見せる嫉妬の顔も、全部全部、貴女に向けられるものです」


「まだ貴女は、ハナエを見くびっているのね。あの子の気持ちは、そんなに安くない――死んだ今なら、言えるかしら。私の貴女への想いも、決して安くは無いわ」


 遠くを観る。そこには、引きこもっていた頃の世界が広がっていた。


 安っぽい絶望を抱えた引きこもりの女と、絶望的な状況にありながら未来を見据えた少女の世界だ。


 私は、水木加奈女が羨ましかった。そして尊敬していた。


 私があの子程のバイタリティに溢れていたのならば。


 私が何事も悩まずハキハキと言葉を紡げたならば。


 私が理想を体現しようと努力するだけの精神を抱えていたのならば。


 全て手に入らないものを持ったカナメに、憧れていたのだ。


「羨ましかった。妬ましかった。それ以上に、私は、貴女が尊かった。貴女に導かれたかった。貴女に従いたかった。こんなダメな私でも、貴女の為になれるならと、そんな気持ちになる事が出来た。貴女は私の心の全部を持って行って、それで私は満足していた。けど、持って行ったまま、貴女は、カナメ、貴女は、私の気持ちを返してくれなかった。弄ぶだけ弄んで、勝手に死んで、ふざけた話が、あったもんです。こんな事を考えている自分もまた、頭に来る」


「そうね。謝罪のしようもないわ。でも、言ったでしょう。そして感じているでしょう。私は貴女のもの。貴女は私のもの。変化する筈だった信仰心は、晴れて不変のものへと進化したわ。貴女はただ、私という存在を記憶の片隅に置き続けるだけで良い。たまに思い出して、そんな子が居たな、そんな思い出があったな、あの頃に比べれば、今はなんて幸せなのだろうと、そのように、考えれば良いだけ。その為の装置でしょう、墓も、仏壇も、宗教も」


 遺骨が納められた墓の前で泣き崩れる澪の姿が、脳裏から離れない。


 澪と、私と、ハナエ、たった三人の葬儀は、終始澪の泣き声で埋め尽くされていた。


 私といえば、淡々としたものだった。綺麗に死に化粧された彼女を前にしても、火葬されてスカスカの骨になった彼女を前にしても、墓の中に収められた彼女を前にしても、解りやすい感情は表には出なかった。


 涙は枯れ果てていたのかもしれない。世の理不尽に無言の怒りを突き立てていたのかもしれない。


 もはや概念となり果てた水木加奈女という存在を胸の内に秘め、私だけがそのロジックに従って生きるのだ。


 私は彼女のもの。彼女は私のもの。


 所有ではなく、隔離。


 どこにも出す事のない、私が死ぬその時まで抱えて生きて行く、法理だ。


「タツコ、惨めで愚かで、不幸が無いと生きて行けず、幸福がないと死んでしまう頭の悪い貴女」


「……はい」


「さあ、手を伸ばして、タツコ」


「――……」


「そして虚しい想いをするといいわ。私は、そんな悲惨な顔をする、貴女が大好きだから」


 言われるまま――いいや、自主的に、手を伸ばす。

 隔て壁の隙間に、有る筈のないカナメの手を探る。


「え」


 その手が何かに触れた。当然彼女の手ではない。壁に張り付いているのだろうか。感触を頼りに掴むと、それが紙である事が解る。ほんの少しだけ躊躇い、私は壁に張り付いた紙をはがした。


 それは封筒である。安っぽい茶封筒で、中には飾り気の無い便せんが数枚入っていた。


「あっ――う」


 茶封筒には『竜子へ』と書かれている。



『竜子へ 直接手渡すのが憚られたので、母に託しました。渡し方も指定しています。きっと貴女は馬鹿だから、気が付いてしまうでしょう。気が付かなければ、それだけ私の存在が貴女にとって薄れていて、貴女の精神が健全に向いている証拠でしょうが、これを見ているという事は、現状で不健全極まりない、とても悲惨で私の大好きな竜子であると、疑いようの無い事と思います』



『まず、幾つかバラさなければいけない事があります。私が貴女に語った学校生活は、全て嘘です。虚弱体質でマトモに授業も受けられない私は、当然の如くクラスメイトから馬鹿にされ、罵られる毎日でした。貴女が想像する輝かしい私などというものは、存在していないのです。不要にも授かってしまったこの知性も、生かされる事はなく、ただ悩みだけを産み続ける、不毛の産物でした。馬鹿ならばどれほど良かったかと、思い悩んだものです』



『家に居る事が多く、気が付けば発作に襲われ、未来は無く、将来は想像出来ず、夢も希望も無く、ただ淡々と毎日を過ごしていました。母は常に私の味方をしてくれましたが、それは母としての責任から来る、何の味気もない優しさなのだと考え、不要な憂鬱感だけを抱えて生きる、酷い子供でした』



『そんなある日、私は一つのおもちゃを見つけました。ベランダに出た折、隣から物音が聞こえたのです。こんな昼間から何者かと思って声を掛けてみれば、それはなんと、二十歳にもなって社会に適合出来ない、正しく底辺存在の酷い酷い貴女でした。不幸で可哀想な私よりも社会的に惨め極まる存在が居たのです。私はとても興奮しました。馬鹿にしてやろうと思い立ち、弄ってみれば尚の事面白い。十歳の私にヘタクソな敬語を使って話す貴女には、ほとほと笑わせて貰いました』



『愉快な娯楽を見つけた私は、何時になく楽しそうにしていた様子で、母からも表情が明るくなったと安心されました。まさか娘が年上を弄って遊んでいるとは思いもしなかったでしょうが、私にとって貴女は最高のおもちゃであり、馬鹿に出来て、見下せて、優越感に浸るにはもってこいでした』



『しかし、何時の日からでしょうか。女王と平民、神と信者。そのような関係が続いていた所、私は貴女に特別な感情を抱くようになりました。それもそうです、何せ、私とマトモに会話をしてくれるのは、貴女だけ。私を敬ってくれるのは、貴女だけ。私を本当に大切に想ってくれるのは、貴女だけだったのですから。だから私は、貴女の理想で居ようと決意しました。貴女が私を必要としてくれるように努力しようと、嘘を吐き続けようと考えました。そして貴女は、私と会話している間、とても幸せそうにしてくれていた。私の存在意義を、貴女が認めてくれました』



『どうしようもない気持ちでいっぱいでした。たった十年しかない生でしたが、貴女と会話を交わしている時間が、もっとも幸福だったのです。何故貴女と会話するだけで幸福なのか、それについて強く考えました。そしてその答えが出た時、酷い不安に駆られたのです。私は、貴女が必要だった。貴女は、私が必要になってしまった。私はいつ死ぬか解らない身なのに、貴女を束縛し、雁字搦めにしてしまったのです。きっと貴女は馬鹿で優しいから、それでも良いと言うでしょう。でも貴女の本心は依存に塗れ、人として不出来で、社会性は無く、私無しで今後生きられる訳がないと、そのように確信していました』



『何もかも、私の不徳なのです。愚かさ故の事象なのです。そのように心配していても、私は貴女を手放したくなかった、もっと依存して貰いたかった。もっと必要として欲しかった。貴女が隣に居れば、私は貴女を守るという決意が産まれると思いました。この身はもう、医療ではどうする事も出来ない病に冒されていたので、縋る所といえば、生きがいぐらいしかなかったのです』



『私は、本当に、心の底から、貴女が欲しかった。貴女を守りたかった。貴女を迎えに行きたかった。貴女を愛していました。貴女だけが、この幼い身をヒトとして見てくれていました。大人として見てくれました。迎えに行けなかったのが、無念でなりません』



『私の想いは全て、華江に預けました。彼女は貴女が想っている以上に、貴女を愛しています。きっと幸せにしてくれるでしょう。彼女も幸せを欲しています。幸せにしてあげてください。母には悪い事をしました。今になって謝る事も出来ませんが、母にも優しくしてあげてください』



『母は泣いてくれました。無償の涙でした。母だから、家族だからなんて言葉ほど、信用ならないものはありませんが、私は母の涙も、貴女の涙も、その寂しく虚しい、孤独な人達が本当に流す涙であったと、信じて疑いません』



『死の際、今に至り、愛する心とは何なのか、幸福とは何なのか、解りました』



『相手を想う気持ちを悟り、相手の欲するものを見返り無く提供し、そして互いに満足出来る状態こそが、唯一無二、掛け替えのない、本当の愛であり、幸福なのだと思います』



『私は、この世で最も幸せな人間でした。貴女のお陰です。貴女とずっと幸福で居られず、ごめんなさい』



『どうか生きて、幸せになってください。 水木加奈女』



「はっ……ハハッ」


 悩むに悩み、自己陶酔し、自身の精神異常を疑いながら、その実、何もかもを手に入れていたのだ。


 幸福も絶望も、夢も希望も、一切合財、彼女との関係の中に育まれていたし、あの子は、真の意味で私を必要としてくれていた。


 人を想う気持ち何たるかを理解した上で、私との関係に全てを注ぎこんでくれていたのだ。


 存在意義そのものが、私を肯定し、私を慈しんでいたというのに、私は、一体何をしていた?


 私の何もかもを彼女に預け、返却してくれないと喚き散らし、欲しかった何もかもが私の内に全て仕舞い込まれていた事実を無視し、彼女の望みを叶えるでなく、抱えて死のうとしたのだ、私は。


 面倒くさいと切り捨てたのだ。


 見たくないと口にしたのだ。


 自身の価値を自身でつける事なく、他人に委ね、その責任も押し付けて、ハナエすら道連れにしかけた。


 こんな私を救った所で、彼女達に得るものなんかないのに。


 こんな私に縋った所で、他の人よりも幸せになれる訳がないのに。


 それでも、あの二人は、ハナエは、カナメは、私を光と仰いだのだ。


「全部全部、知ってましたよ。知ってたんです。でも、私は、自己評価出来ないんです。貴女の気持ちが本当だって、ホンモノだって、どれだけ実感しても――ッッ」


 立ち上がり、ガーデンチェアを持ち上げる。


 力の無い私の、しかし感情に任せた一撃は、薄い隔て壁を容易く打ち破った。静かな住宅街に破壊音が響き渡る。


「はあ……はあ……ああ、くそったれぇ――ッ」


 自己嫌悪で死にたくなる。


「くそぅ――……」


 そしてその自己嫌悪すら許容してくれる二人の深い慈悲に、嗚咽が漏れる。


 ガラガラと崩れた壁を押しのけ、隣のベランダに上がり込む。そこには彼女が立っていた。


 こんなにも薄かったのか。私が殴るだけで割れてしまうほど、私達の世界は近かったのか。


 まるで私とカナメだ。


 近すぎる。そして遠すぎる。


 この『御簾』は、そのような距離だったのだ。


「何か解ったかしら」


「頭に来ました」


「そう。怒った顔、素敵よ、タツコ」


「泣いているんですか」


「泣きもするわ。だって私、もう居ないのだもの。でも、不安じゃない」


「何故です」


「解っているでしょう。私は貴女、貴女は私なのだから。私という信仰概念は、私という思い出は、貴女と共にあるわ。こう言ってしまうと、何だか陳腐だけれど、でも、人間だもの。私を必要としなくなったその時、貴女に本当の幸せが訪れると、良いわね」 


 もう答えるものか。これは、独り言なのだ。だから答えず、顔を覆い隠すほかなかった。


「タツコ、おい、どうした!?」

「……転んでしまって。頭をぶつけたら、割れちゃいました」

「大丈夫なのか。いくら緊急時に割るといっても、弱すぎやしないだろうか」

「ええ、大丈夫です。柔らかかったので、大した傷もありません」


 ベランダに飛び出してきた父に適当な言い訳をつけ、私は笑った。それはどんな笑みだっただろうか、自分でも良くわからない。


「お前――」

「……はい、なんですか、お父様」

「い、いや。なんだか、月明かりの所為か。妙に、大人に観えたものでな」

「嫌ですよ、お父様。私、もう、二十歳ですよ」

「あ、ああ」

「さ、中に入りましょう。お隣も居ませんし、修理は明日呼びましょう。大きな音を立てて、ごめんなさい」

「無事なら良い。しかし、お前も間抜けな事をするものだな」

「私も人間ですから。人間なんです。人間に、なってしまいましたから」


 小首を傾げる父を宥め、部屋から追い出す。薄暗い部屋の真中に座り込み、ただ茫然と携帯を握りしめる。


 連絡は――いや、必要ないか。場所は解っている。カナメ亡きあと、私という厄介者を喜々として引き受けてしまった馬鹿ものが居る。


 私はまだ、彼女に言っていない事があった。私は『責任』を果していない。

 彼女の帰りを待っていられないし、電話口に話せるほど、軽い言葉ではない。


 手紙を胸に抱き、私は微笑んだ。


「愛していました」


 彼女はここに居た。そしてもう何処にもいない。彼女はそれを是とした。


 後悔と無念を抱きながらも、幸福のまま逝った彼女に、蛇足は必要なかろう。あとは彼女の望む通り、煩悶し、懊悩し、のた打ち回りながらも、私は幸せにならなければいけないのだ。


 それを実現し得るのは、後にも先にも、大武華江なる変人しかいない。


 鏡で顔を確認し、いつも持ち歩いているバッグと上着を引っつかむ。カナメの葬式で着た喪服をクリーニングのタグが付いたまま紙袋に突っ込む。そしてもう一つ。


 私宛に綴られた物とは別、付け加えられたもう一枚の手紙を確認する。はじまりは『どうせ別にしても、貴女は読むでしょうから』で始まる、実に頭に来るハナエ宛のものだ。それを鞄に仕舞い込み、私は部屋を後にする。


「お母様、お父様、私、少し出ます。やっぱり、ハナエが心配です」

「あら、そうなのですね。そうだと思いました」

「タツコ、俺達は必要か?」

「いえ。有難うございます。では、行ってきます」

「はい。あちら様に粗相のないようにしてくださいね」

「――なあミチ」

「はい?」

「うちの娘は、あんなにも元気が良かったか?」


「何言っているんですか。少し前のタツコさんは、あんなカンジだったでしょう?」


 玄関を出る。

 あの時は嘔吐した。


 近所の人に挨拶をする。

 あの時は戦々恐々としていた。


 タクシーを拾う。

 男の人と同じ空間にいるなんて考えられなかった。


 人と話す。

 つい数か月前まで、そんな事もう出来ないと、諦めていた。


「どちらまで」

「駅まで」


 これから人混みに紛れ、新幹線のチケットを取り、他人の隣に座って数時間ゆられるのである。当時は想像しただけで吐き気を催すようなものだったが、今に至り、最早そんなもの、悩むにも値しなかった。


 何も怖れる事はないのだ。


 私は何もかもを手に入れていたのだから。何もかも知っていたのだから。


 ただそれを無視していたのだ。


 私が不幸でなければ、ハナエもカナメも、愛してくれないと、信じていたから。




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