肯定1
『肯定』
大人になりたかったあの子、大人になれなかった私、そして大人になりたくなかったあの人。私達三人が思い描いた理想というのは、思いの外陳腐で、解りやすく、しかし、果てしなく遠いものだった。
当たり前の幸福という虚妄は、人間における精神病の一種である。
その価値基準は定まらず、何処にあるか解らず、何によって齎されるかも不明であり、現実感はなく、しかし漠然として意識に刷り込まれた、拭いきれない厄介な病だ。
この病から逃れる術も、治療法も、特効薬も存在しない。私達は命果てるその日まで、形の無い幻影を追い続けることになる。
私は命を大切にせよという名言や標語が大嫌いだ。
セットで語られるのはいつも幸福である。
幸福の定義も曖昧なままに持て囃される命は宝などという意味不明な主張は、聞くたびに殴りつけたくなるものだ。
そもそも、それは大体自分の為だからだ。近しい人の命を守りたいのは、自分が悲しみたくないからである。死んだ人間に悲しみも何も無い。相手に生きて欲しいという希望は自分勝手であり、救いようのないエゴの塊だ。
そしてその考えそのものが、私であった。
どうやら本来は、その一般的な価値観がで正しいらしいが――私はそれが嫌で、気持ち悪くて、その苦悩に耐えられず自らの命も天秤にかけたのである。
彼女の本当の想いは、実際のところ何一つ解らない。そもそも、私の想いだって解らない。愛とは何なのかなどという問いまで行きつき、それに答えを出そうと必死になるほど、解らない。
彼女の死が齎したものはただ一つ、私はごく一般的な人類と同じように、幸福探索病を患い続けろという現実のみである。
「んぐっ……くああ」
コーヒーを啜ってから、私は椅子の背もたれで伸びあがる。欠伸を一つし、改めて後ろを振り返る。実に寂しい。何も無いだだっ広いリビングだ。家具らしいものといえば何だか高そうな五人掛けのソファーにテーブルぐらいなものである。
私はリビングの端に設けられた事務デスクでパソコンに向かい合っている状態であるから、その空間における虚無度は果てしない。
それにしても、慣れない作業というのは思っていた以上に苦痛なものだ。思考が関係ない方向に飛びだしたので、一端頭を切り替える。
「んー……自動車の新車……システム問題あり……あー……ハナエ、株持ってたかな……」
複数用意されたパソコンを弄りながら、国内外のニュースを集めては、ブログやSNSにアップして行く。
時事ニュース、事件事故ニュース、面白ニュース、エンターティメント、アニメゲームの計五つのブログをひっきりなしに更新する仕事であるからして、作業はかなりの量になる。集めたニュースに関連するアフィリエイトを探して張りつけるだけで午前は終わってしまう。
時計を見れば既に十三時を回っていた。私は携帯を取り出し、ハナエに連絡する。
「もしもし」
『はいはい』
「お腹すいた」
『用意してあるから、おいで』
「うん」
携帯を切り、鏡を見て前髪を整えてから、私は事務所を後にする。
およそ30秒でハナエの家に到着した。
ハナエが倉庫にしようとしていた部屋で、私は仕事らしい何かをしている。単なるアフィリエイト稼ぎであるからして会社に所属している訳でも、社会に出ている訳でもないが、定時が決まっており、お手伝い料という名の給料も出るので、感覚としてはバイトだ。
部屋に上がり込むと、直ぐにトマトの匂いに気が付く。リビングではタンクトップにエプロンという姿のハナエが私を待っていた。
可愛らしい。抱きつきたくなる。
「まるで新妻」
「それはアンタもだ」
どうやらパスタらしい。ネットでレシピを引いて作った割には、見た目も良い。しかし良く考えれば、彼女は少し前まで家の事を全てやっていたのだから、出来て当然なのかもしれない。
「美味しそう。やっぱり上手だね」
「まあなあ。食べて見て」
「頂きます」
席に付き、食事にありつく。このような生活を始めてから、もう二か月ほどたっただろうか。私とハナエは半ば同棲のような形を取っている。いや、ほぼ結婚だろうか。生憎制度上無理なので、世知辛くはあるが、これはこれで満足の行く生活形態であった。
「この前裸で中華鍋振るってたじゃん」
「油跳ねる跳ねる……やっぱ裸エプロンで作るならインスタント食品がいい」
「雰囲気が無さ過ぎるだろそれ」
「えっち」
「解った解った。今度は私がやるからさ」
「揚げ物が良い」
「最悪じゃねーか」
そんな会話をしながらパスタを突く。味は可もなく不可もなく、なんともハナエらしい味である。基本外食で済ませていたのだが、やはり女二人でいるなら料理ぐらいしなきゃな、などと提言したハナエに乗り、現在は二日交代で料理をしている。
私達の関係性をどう説明すべきか、なかなかに困った問題だった。
母は許容しているが、父は予想通り難色を示した。自分の娘が同性愛者で孫の顔は拝めないと解った時の父の顔といったら、何だか忘れられないものがある。
『……な。ん? ええとだな、つまり、女が好きだと?』
『まあ、そうなるんでしょうか』
『お前が閉じこもった原因は、当然理解を示すが……父として、ううん、ミチ』
『良いじゃありませんか。ハナエさん、とても良い人ですよ。アナタからすれば、不思議な事かもしれませんけれど』
『それで良いのか、お前』
『引きこもりの娘が外に出るようになったのも、未来を見るようになったのも、ハナエさんが居たからです。両親としては、娘の幸せを第一に考えるべきだと思います』
『ははは。ああ、ええとですな。体面上の話をしたところで、なかなか納得して貰えるもんじゃないと思う訳ですよ、お母様。とにかく、私はタツコが好きです。愛してます。私がこの子を幸せにします』
『……は、ハナエ、それは恥ずかしい……』
『――親父達にどう説明する』
『そういうプライドが、娘を不幸にしたのだと、私は思います。この子は誰の子ですか。私達の子でしょう。お父様達にどれほどの関係がありますか』
『……ミチ、私がそれで納得すると思うか?』
『ええ。プライドが高くて、狭量ですけれど、私の旦那は決断出来る人です』
『う、ううむ……』
父の判断は保留だった。父はプライドの高い人物であるし、何より世の中の規範からはずれたり、当たり前の事が出来ない人間を極端に嫌う。確かに私の例もそれに当てはまるかもしれないが、流石に性の差の問題ともなると、父も一概に判断出来なかったのだろう。
父としてどのような気持ちだろうか。娘としては一抹の申し訳無さもあるが、父の望むような人生は恐らく、今後も訪れないだろう。
状況としては保留、状態としては同棲であるから、無難な位置である。
「そういや、澪さんには最近あったか」
「うん。何でも結婚するとかで」
「あー……まあ、思う所は私達以上にあっただろう」
つい三日前の事だ。実家に戻った所、澪が訪ねて来た。マンションの部屋を引き払い、結婚して家庭に入るという。彼女の話では以前から懇意にしてくれたお客さんで、会社社長らしい。会社といっても小さな町工場で、大してお金は持っていないけれど、などと笑いながら話していた。
娘を失った悲しみを埋める事、流石に夜のお仕事だけでは未来が観えなくなった事……娘の存在が結婚の障害として立ちはだかっていた事、それを、彼女は包み隠さず話してくれた。
酷い話だろう。
だが現実、何時死ぬか解らない娘を引き取りたいという男がどれほどいるだろうか。愛は確かに様々な障害を乗り越えるかもしれない。しかし絶対ではない。澪も悩んだ事だろう。
「感情っていうのは凄いパワーでさ、現実を踏み倒してでも理想を追求しようとしたりする。だが残念ながら、大体はその感情に自身の力が追い付いていない、そして周りはその理想を理解し、許容したりしてはくれない。どんな不幸を被ろうと戦い抜こうって決意があっても、運が向かねばそれまでだ。澪さんはまさに、体現してしまった人だろう。いやだね、まだ二十代でさ、こんな夢の無い話したくないね……まあ、幸せになれると、良いな。心から、そう思う」
「ハナエは、私にとっての現実なの。カナメは、私にとっての理想だった」
「そうだな。でも別に、その気持ちを捨てる必要はないさ。胸に抱き続けての、信仰心だ」
「ハナエは、優しいね。理屈臭いけど」
「酷い事言うなあ」
「褒めてるの。そんな貴女が良いから」
ハナエが目をパチクリとさせてから、照れ隠しに笑う。なんだかんだと女の子な彼女が、私は本当に可愛らしく思えた。
……今この場を、この食卓を私は恐らく幸福と思うだろう。そしてハナエも恐らく、そう思うに違いない。
たいそうな事である。贅沢な話だ。だが私には、それを申し訳なく思う気持ちがある。そして、そんな事を考える自分が、また嫌なのだ。
目の前の幸福を受け取れない。差し出された素敵なものを、素敵と言ってあげられない。
私の精神構造は決して変わる事はなかった。
二十歳にもなって心が入れ換わる訳がない。犯罪者が根本から更生するなど私は一切信じていない。同様に私は変わりようがない。
水木加奈女は私と居て満足であっただろうか。私は恐らく満足だった。
では彼女が死に、残された私はどうなる。
ハナエは現実なのだ。現実は理想に直接結びついこそいるが、現実は常に足掛かりか土台である。ハナエが私の女王と、神となる事はないだろう。
私の満ち足りた世界というのは、水木加奈女あってこそだった。そこをハナエに挿げ変えた所で、ものが違うのだから、座りが悪くて当然である。
苦悩の末に至った『水木加奈女』という理論だ。そうそう捨てられるものではなく、代替えを探してしまうのも、また仕方の無い事なのかもしれない。
ハナエはカナメの変わりでも良いというだろう。言うだろうが、私が納得しないのでは意味が無い。そもそも彼女を代替えにし……
「タツコ」
「あっ――あ、う。ごめんなさい」
「最近安定してきたと思ったが、まだ呆けるな」
「うん。良くなったとは思うの」
「頑なに病院には行かないのな」
「あそこはダメ。悪化する」
「ま、そうだろうなあ。食器、そのままでいいぞ。お茶入れるから、テレビでも見てな」
「うん」
言われるまま、私は席を立ち、ソファに腰かけてテレビをつける。大して面白くも無いコメンテーターの偉そうな物言いを鼻で笑いながら、私は手近な所にあった鏡を取る。
髪が延びた。一度決心して美容院に行ったのだが、もうその時も散々だ。常にハナエが隣に居ないと、他人に触られる不快感と恐怖に潰されてしまうのである。ハナエに手を握って貰いながら髪を整えて貰うという、美容師も苦笑いのものだった。
親しくなれば否定感も生まれないというのは解りきった事なので、その女性の美容師さんと懇意になるのが、目下私がビジュアルを維持する為の努力となる。
(……あの時は必死だったしなあ)
カナメと顔を合わせる為に髪を切った事を思い出す。つい最近の事であるのに、もう数年も経ってしまったかのような懐かしさがあった。
頭からビニールを被って顔に美顔パックをして……何とも恥ずかしい。
「はいお茶」
「ありがと」
ハナエが隣に腰掛け、私を肩から抱く。ハナエは寂しがり屋だ、同棲するようになり、ますますそれが身にしみる。
「お茶飲めない」
「タツコ、なんか良い匂いする」
「オーデコロンかな。好き?」
「うん。アンタに合う匂い」
「そっか」
私は猫をあやすようにしてハナエを可愛がる。彼女は私に触られるのが好きだ。手を伸ばし、首筋から肩にかけて撫で、腰に回す。そうすると、ハナエはいつも幸せそうな顔をする。
理屈臭く、女性らしい感性を置いてけぼりにした人だ。根本的な部分は優しさに飢えており、執拗で、子供っぽい。恐らく何もかも、生活環境が齎し、形成したものだろう。
こんな寂しがりの彼女こそ、家族を増やすべきなのだろうが、生憎私達は子供が作れない。そして彼女はその分、私に強く依存する。当然彼女の依存は私にとって都合が良い。しかし依存が深まれば深まるほど、もし離れてしまったら、もし気持ちが無くなってしまったらといった将来への不安が大きくなるのだ。
私達は後世に何一つ残す事なく、消え果つる運命にある。互いが手塩にかけて愛し、共同の理想を思い描くべき子供は、齎されないのだ。
子供というのは、ある種契約の具現化である。これが無い私達は、一般的な異性愛者達よりも、強い繋がりを必要とされる。ハナエのいう「愛だけではどうにもならないもの」の一つだ。
「……ねえハナエ、ペット飼おう」
「んあ、なんだそれ。思いつかなかったな。おお、いいぞ。何が良い?」
「犬が良いかな。おっきいの」
「レトリーバーとかかな」
「雌ね」
「ああ、犬も雄は嫌か」
勿論、犬畜生を人間の子供と同等の扱いをするつもりも、考えもない。ただ、そこに居て、私達の寂しさを、虚しさを、一時でも和らげ、理想に近づけてくれるだけで良いのだ。
「子供の代わりか?」
「代わりというか、穴埋め」
「子供自体は、用意出来ない訳じゃないぞ」
つまるところ、ちゃんとした機関から提供を受ける、もしくは適当に見繕って植えて貰うという意味だろう。
「勘弁して」
「そんなに嫌か? アンタは身体強くないだろうから、私でも良いし……」
「貴女の中に、あんなものが入るなんて、想像するだけでも吐き気がする」
「バンクからでも……」
「嫌」
「解った解った。そう怖い顔するなよ。これは一つの可能性だ。女に産まれたからには、その身には子供を育む機能が備わってる。男みたいに出して終わりじゃないんだ。遺伝子的な繋がりは薄まるかもしれないが、パートナーとして親として、一緒に子供を育てる未来も十分有り得る。つまりだな――」
「お断り」
「……解った。じゃあ犬飼うかな。近いうち、保健所でも覗きに行こう」
「うん」
否定的な私の頭にまず過ったのは、澪の顔だった。そして自分の幼さに気が付かされる。
子供が子供を産んだ結果が、水木澪という人物である。恋愛脳とも呼ぶべき熱病にかかった彼女は、一切の後先を考えず望まれない子を産んだ。
男には逃げられ、両親には見放され、彼女は娘を抱いて家を出た。金を持った男に縋りながら生きる様を、逞しいと感じるか、愚昧と罵るか、それは人それぞれだが、私にはとても良い選択であったとは思えない。
しかも、産んだその子は身体が弱かった。二重、三重の苦を背負いながら生きて来た彼女は確かに強い女性かもしれないが、産み落とされた子からすれば堪ったものではない。
産まれながら父はなく、男に抱かれる母を見ながら、病苦に呻き喘いていたのだ。
加奈女の短命さが澪の所為であったとは決して言わないが、あの環境に置かれていた加奈女の事を考えると、どうあっても頭が痛い。
別段と、子供の在り方について哲学するつもりはないのだ。人間も動物、動物ならば繁殖する。そこに難しい理を置いては、人間は直ぐ様滅び去るだろう。
しかしながら人間である我々は、多少なりとも動物とは異なる慈しみを持って、子供を作るべきではないのかと思う。そういう意味で、澪はそれを事欠いただろう。
ではそれを私達に照らし合わせた場合どうか。
恵まれた事に日々食うに困る事はまず無い。
温かい家があり、私達二人がいて、育つだけならば申し分ない環境だ。
だがもう少し奥の部分、私達の意識が、足りないように思う。これは間違いなく澪に劣る点だ。
精子提供を受けてハナエが孕んだとして、果してハナエが母らしく振る舞えるだろうか。
他人の雄の精子で孕んだハナエを、さて私が良い顔をして居てあげられるだろうか。
これに近しい悩みは、もしかすれば若い夫婦ならば誰しもが抱く悩みかもしれないが、私達の場合同性であり、子供に対してある種享楽的価値を見出そうとしている節がある。
挙句の果てに、私は心が強くない。
これでは産まれて来る子供も可哀想だ。
更に悩みは続く。その子は大きくなり、物心ついた時、父が居ない事実を気にし始めるだろう。イマドキ片親など珍しくもなかろうが、親が両方女だと知れた場合、子供を取り巻く環境はどうなるだろうか。
気にするな、では済まない。どれだけ論理的な説明を用いても、理を介さない子供には諭す意味もない。
そういったもの全てひっくるめて、くじけないような子供に、私達は育てられるだろうか。
共同の理想を思い描けるだけの子に出来るだろうか。
子供とは、つまるところ責任そのものなのである。
その覚悟無き私は、やはりきっと、子供なのだ。
「また難しい事考えてただろ」
「私、ハナエが居れば良い。あと犬」
「はいはい……あ、そろそろ就業時間だぞ」
「あ。うん。じゃあまたあとで。あ、お給金だけど、税金とか……」
「税理士つけるから気にするな。引きこもりが時間通り働けてるだけでも快挙だ」
頬にキスをして、私はまた自分の仕事場に戻る。
幸福なるものが迫れば迫るほど、私は恐怖に慄く。何不自由ない生活と、愛しい人のいる世界にいながら、私は今日も漠然とした幸福なるものを、探している。
私は一つ、ハナエに隠している事がある。
それを知らせてしまえば、彼女はとても心配するだろう。伝えた所で何とかなるものでもない。ただ苦しみを増やすだけであるから、私は黙していた。
その夜は寝つけず、私は大きなダブルベッドから抜け出す。ベッドの上ではハナエが気持ちよさそうに眠っている。彼女は今、幸せを感じているだろうか。私の本心がそれに応えてあげられないのが非常に残念だ。
素肌にガウンを羽織り、キッチンでお茶を沸かすと、それを二つ持ち、バルコニーに出る。わざわざハナエが設えてくれた白塗りのガーデンチェアに腰かけ、此方と、向こう側に一つ、カップを置く。
それはつい一か月ほど前からだ。私には有る筈の無いものが観えるようになっていた。
「冷えますね」
「そうね、もう冬の足跡が聞こえてくるわ」
関東の気温は十五度程度だが、そろそろ急激に冷え込む頃だろう。そうなると、こうしてバルコニーやベランダに出ている時間は短くなる。それが良いか、悪いかは、解らない。
「今日は何か、気がかりになるような事は、ありましたか」
「貴女の現状を果して社会復帰というのかしら。言わないわね。ま、それで満足ならば私は何も言う事はないけれど」
「私も正しいとは思えませんけれど、では何が正解なのかと問われて、答えられません」
「そうね。一先ず貴女が平穏無事で居られるならば良いんじゃないかしら」
彼女は――カナメは、真っ直ぐ瞳を此方に向けて、そのように言う。
彼女が何なのか。当然幽霊ではない。イマジナリーフレンド……一種ではあろうが、彼女は私の投影ではない。彼女は私に都合の良いように振る舞ったりはしないし、かといって此方を傷つけるような事を進んで発言したりもしない。
カナメを失ったという喪失感から私の眼前に疑似化した事は間違いないだろうが、自意識が明確となって、物事を客観的に見つめる事が出来るこの歳で、まさかこのような事象に見舞われるとは思わなかった。
私は確実に、この彼女が幻覚であるという事を理解している。彼女が脳内から漏れ出した思考の廃棄物である事は確定的だ。だが、彼女はあまりにもリアルに私の前に現れた。
愛しい人の形を模した彼女を、私は粗末に扱う事が出来なかったのだ。
故にこうして、それは『そうして在るもの』とし受け入れている。
「気の無いお返事ですね」
「当然でしょう。貴女は私のものなのに。私は何時でも貴女を見ているわ。眼の前であんなにいちゃつかれたら、不満の一つも上がるでしょう。それに、貴女達のセックスってネチッこいのよね。私は母と見知らぬ男が交わる姿をずっと見て来たけれど、何かしら、同性だとあんなナメクジみたくなるの?」
「他人のレズセックスなんて覗いた事がありませんので、比較しようがありません。生憎出して終わりでもないので」
「へえ。慣れたものねえ。でも結局、子供が出来る訳でもないし、ただ気持ち良くてやっているのかしら? 子供の私には理解出来ないわねえ」
「……根本として、人恋しさがあるでしょう。触覚的な刺激が、私の脳は快感と判断します。それが好きな人ならば、尚の事。お互いに肌を合わせる事自体は、理解していただけるかと」
「ええ、そうね。私も思ったわ。貴女を抱きしめた時、恋心というのはかくも虚しく切ないもので、また温かいものなのだと。その延長にあるのかしら」
「繁殖行為ではないので、自慰に近いかもしれません。いえ、そもそも性処理目的のものは、全て自慰なのでしょう。都合良く気持ち同じ人間が二人いて、求めあうだけです」
「でも求めあえるって素晴らしい事だわ。私にも肉があれば、試してみたいところなのだけれど」
「……」
「笑う所よ、自嘲するところよ。コイツは何を言っているんだと」
「笑うなどと」
「――『私』は『貴方の私』という『自覚』よ。この私は正しく幻影で、形が無く、体温はなく、オリジナリティはどこにもない、全て妄想の産物。私が都合のよい事を言わないのは、貴女が言わせないから。私が貴女を傷つけないのは、貴女が傷つけさせないから。水木加奈女に極力近づけた、脳内物質の悪戯」
「はい、承知しています」
……紅茶を啜る。カップを覗くと、空の月が映った。音は無く、静かで、無駄がない。私を虐げる者は無く、私を庇う者は無く、ただ理想だけが目の前に、偉そうな顔をして座っている。
この時ばかり、私は心の安寧を手に入れていた。
それが心の障害によって齎された防衛反応だったとしても、この世界は最適化されている。
観る。想う。そしてただ、涙ばかりが流れるのだ。
「貴女は幻影の前ですら泣くのね。これは、当然私が発言するから、つまり貴女の頭の中にある事だけれど、結局、何が正しいかなんて考える必要がないのではないかしら。貴女のその涙は、自分がマトモな人間ではないからといった疎外感や恐怖から来るものでしょう。自分勝手を自負するならば、その認識こそもっと自分勝手にすればいいのよ」
「……つまり、どういう事でしょう」
「貴女の頭の中の事でしょう。ああでも、出力方法が違うから、自身でも把握できない部分があるのかしら。まあ、簡単に言えば、何で周りの規範なるものにしたがって生きようとするかという事よ。貴女が何かしらの規範に則って生きた所で誰も喜ばないし、貴女は不幸になるばかりだわ。貴女と、そしてハナエがただ幸せになる事だけ考えれば良い。周りは関係ない。貴女が幸せになれば良い。気が付いた時には、私なんてものも消えて無くなるでしょう」
「しかし」
「いいの。別に私が居ようが居なかろうが、そこは問題ではないわ。私自身を気に病むから悪いの。貴女は今の貴女を受けれる事が必要だと思うのよ。ここに貴女を虐める人はいないわ。むしろ、愛してくれる人が傍にいる。貴女のお父様だって、なんだかんだときっと認めるわ。認めず、娘を幸せにしてくれる人を蔑ろにする父なんて、それこそさっさと縁を切った方が良いでしょう。悩むかもしれないわ、傷つくかもしれないわ。でも、規範とか常識とか、そういう罰則に至らないようなものに気を取られて不幸になるのは、馬鹿よ。気にするな、なんて貴女にはとても実践出来ないでしょうが……」
「気にするから、悩むのでしょうね。そう、何でもかんでも、悩む必要の無い事を、悩み続ける。どうでもよい人の言葉、人の生きる意味、恋する意味、愛とは何なのか、自分とは何なのか、正しい想いとは何なのか、人を思いやる真理とは何処にあるのか。誰もそんな事、気にして生きていないのに、馬鹿みたいに、何度も何度も考えて、私には出来ないと、解らないと、憂鬱になる」
「本当にどうしようもない子ね、貴女は。ええ、私はそんな貴女が大好きよ。ずっとそうしているなら、そうしていなさい。そうでないというのならば、超克なさい」
そのような言葉を残して、彼女は私の視界からいなくなった。
紅茶を啜る。すっかり冷たくなっていた。
「うわさっぶ。タツコ、何してるんだ」
「あっ……」
ハナエの声が聞こえ、私はあわてて、対面に置いたカップを此方に寄せる。変な勘ぐりはされたくない。
「ハナエ、起きたんだ」
「夜中の二時だぞ。こんな寒いのに……なんだ、カップ二つも揃えて」
「二杯飲もうと思って」
「減ってないな」
「こっち、まだ飲みきってなくて」
「後から淹れれば……いや、まあ、好きずきだな。余ったなら飲む」
「冷たいけど」
「いいよ」
そういって、カナメに用意した紅茶を、ハナエが飲む。それは現実感の上書きである。
「ごめんな」
「どうしたの、謝って」
「ちょっと不思議だったから、気になって。強く言った」
「いいよ、そんなの」
「中入ろう。寒いったらない」
「うん」
カップを預かり、それをキッチンに置いてから、ベッドに戻る。
ハナエはガウンを脱いで待っていた。
……数時間前も、その、したばかりなのだが、まだ足りなかっただろうか。私が寄りそうと、彼女は私を抱きしめてそのまま倒れこむ。
互いに手を握り締め、見つめ合う。ハナエは寂しそうな顔をしていた。気の強めな彼女がそのような顔をする度に、私の胸は締め付けられ、このヒトの生命を握っているのだと、強く実感させられる。
彼女は現実だ。彼女の肉体が、声が、私の頭の中に思い描かれた理想より余程雄弁に語る。
「どうしたの」
「祖母が入ってる介護施設から連絡があったね。祖母が逝ったそうだ」
「そんな、急に」
「急と言っても、ここ暫く体調を崩してたんだ。肺炎だそうだ。ちなみに、老人は肺炎で死ぬ事が多い。老化して他に様々患って免疫が落ちると、肺炎にかかって亡くなる確率が高くなるそうだ。まあ一般的な死に方だな。若い頃は病気一つしなかったらしいから、怖いもんだよ、老いは」
ハナエが私を抱きしめる。私も何も言わず、抱きしめ返した。
碌でもない両親の下に産まれ、その支えは祖父と祖母であった。祖父は先に逝き、祖母に縋り、母のように慕っていた事だろう。
「……体調を崩していたなら、見舞いに行けば……」
「アンタも解るだろう。不安だった。衰える婆ちゃんを観るのも、その間アンタをここに置き去りにするのも、怖かったんだ。一緒に行くって選択肢は無かった。アンタはカナメを失ったばっかりだ。そんな頻繁に、人の泣き顔も、葬式も、見たくないと思ったから」
「――私の」
「自分で選択したんだ。アンタが気負う事じゃない。といったって、アンタは気負うだろうが。でもこうなったら、喋るしかないだろう。不安な気持ちさせたくないけど、こればっかりは。ごめんな」
「やめて、謝らないで……」
カーテンが開け放たれた窓から青い月明かりが射しこむ中、身を起こし、ただ抱きしめあう。不安が顔に、身体に、動作ににじみ出ている。唯一家族と言える祖母を失ったハナエの気持ちを、残念ながら今なら理解出来た。理解出来てしまったのだ。
こんなもの、理解しない方が良い。そうしない方が幸せだ。
けれども、感受性の塊である私達は、いざ同情出来てしまう出来事に面した場合に齎されるその悲愴を、絶望的なまでに共用してしまう。
依存のまだ、サワリだ。今後さて、これがどこまで深化し、更なる絶望を生み出すのだろうか。今は傷を舐めあっているだけで事足りるかもしれないが、果ては見えない。
「明日、行くよ。うん、ごめん、私一人で行くから」
「でも」
「ごめんな。一週間、我慢してくれるか。電話なら何時でも出る。夜中だろうと出る」
「――ううん。お別れ、してきて。私の事も、宜しく言ってあげてね」
「ああ。ごめんな。ありがとう、タツコ」
ハナエをベッドに横たえ、頬にキスをする。彼女の頭を胸に抱き、子供をあやすようにして髪を撫でる。
彼女は泣きながらも、幸せそうに笑ってくれた。
私は、彼女を幸福に出来る。私は、彼女に必要とされている。それはまるで私がカナメを欲したように、私の存在が彼女の生命を握っているからだ。
「人間って、幸せって、何なんだろうな――婆ちゃんは、幸せに死ねたかな。私の所為で、辛い思い、しなかったかな。後悔、なかったかな――」
「大丈夫だよ」
「……独りにしないで……」
「うん、うん……」
愛しいという気持ちが膨れ上がる。同時にその愛しさこそがエゴであるという罪悪を覚える。
そんな考えに意味はないと知っている自分が居る。しかしその考えに意味が無いと考える自分に罪悪を覚える。私はどうにもならない思考の袋小路に蹲り、ただ救済者を待つ愚か者でしかない。
「おやすみ。愛しているわ」
愛している。都合の良い言葉である。私はこの言葉が、大嫌いだった。