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亡国4




 小さい頃、母は私に『大きくなったら何になりたいか』と、聞いた。


 もしかすれば、大体の家庭で行われる親子の会話なのかもしれないが、私にとってその質問は、この歳になってしまった今ですら、時折想起しては溜息を吐かざるを得ない、意味薄くも心に残る会話だった。


 何故それが未だに残っているのか、当然理由は解らない。脳のきまぐれ、としか言いようがないだろう。


 だが私はそれをいつも思い出す。

 そして今の自分を見て、溜息を吐くのだ。


 大人になれば当たり前のように働いて、当たり前のように結婚するものとばかり思っていた。

 子供はいつも純粋で、疑う事を知らず、そのくせ子供である事を否定したがる、正しく無垢で愚かな動物である。


 そんな動物でしかない私も他と変わらず、一般的な人間の理想的な歩みを当然と考えていた。


 だがどうだ。


 大人になれば動物は自然と人間になり、人間らしい理性の下人間社会の中で人間として生きて行くのだという漠然とした考えは本来、動物は人間になりえるという可能性を前提とした教育者達の怠慢であり、親達の見通しの甘さであり、価値観を均一化された社会が齎した本当の意味での虚妄的理想でしかないという事を、その身に刻み、思い知る事になる。


 私は大人以前に、動物でも人間でもないのだ。


 勿論、これは極論だろう。私はそれを前提に、良く考える。


 大半が一応は人間になるのだ。いちいち私のような小粒を拾い上げて世話をしてくれる社会など逆に恐ろしい。きっとそんな社会はユートピアを模したディストピアである。


 私は私を助けてと、大きな声で社会に訴えたりはしない。そんな力も、そんな精神も、そんな体力も、そんな発言力も、そんな組織力も、持ち合わせてはいないからだ。


 だからこれは、自己責任である。私は自己責任の下、今こうしているのだ。虚妄的理想から大きく外れてしまった私ははぐれ者であり、親以外からの恩恵を受ける事は出来ず、自立出来ない私にはタイムリミットが存在し、刻一刻と絶望は歩いて近づいてくる。


 打開策を。


 社会に触れる事すら嫌悪した私には、選択肢は訪れない。


 閉じた可能性の中を、ぐるぐると回り続けるだけだ。少しでも進んだ先に待ち受けるのは、薄暗い未来でしかない。そんな未来が恐ろしくて、ぐるぐると回り続ける。


 外に。


 外に出る事すら嫌悪した私には、選択肢は訪れない。


 終わった可能性を悔やみながら、あったかもしれない未来に想いを馳せながら、希望とは遠い絶望の淵をギリギリで歩いて渡るのである。


 では――では、今はどうか。


 やっと円環を歩き回る事に疲れ、その先へと歩み始めた今はどうか。


 薄暗く、まだ道は遠く、足元も覚束ないが、ずっとずっとその先に、私には光が観えた。ベランダに出たあの日、私にはその光の兆しが訪れていたのだ。


 たった一人の、十歳の少女によって齎された淡く美しい光に、私は歩みを進めようとしていた。

 途中、右から左からと、私を脅かすものが現れては、歩みを止められてしまうが、これらを乗り越えた先に彼女がいるのだと思えば、ずっと気持ちが楽だった。


 手を伸ばす。


 届かない彼女に届く為に。光の向こう側で、彼女は笑顔を湛えている。


 ……笑顔で居た筈なのだ。


 光の肖像が崩れ落ちる。やがてそれは、枯れ枝となり果てた少女の肖像と挿げ変えられた。私の手は落ち、膝は地面に付く。


 我が光は、我が神は、我が女王は、朽ちて果てるのである。


「う、あ、ああっ……」

「タツコさん、タツコさん」

「――あっ……うっ……お、お母様――」

「事前のお話からですと、急激なストレスから来る悪影響を遮断しようと……ああ、目を醒まされましたな」

「あ、あの、お医者様……」

「大丈夫です。一応精密検査は受けて貰いましょう。今日明日は止まって行ってください」

「ありがとうございます……」


 ぼやけた視界に頭を振り、上半身を起こす。なんとなくだが、大体の状況は掴めた。


「――おはようございます。お母様。どうやら、ご心配をかけたようで」

「どうしてこうなったか、覚えていますか?」

「はい、なんとなく……うっ……あの、ここって」

「近くの大学病院です。以前も御世話になった。あ、次回からは女医さんにお願いする事になっていますから、安心してくださいね」

「……ハナエは」

「敷地内は禁煙だからと、先ほど外に……大武さんが近くにいてくださって良かった」


 母はほっと胸を撫で下ろして安心しているようだ。私といえば、まだ頭の中がぐるぐると回っている。


 ここは――彼女が入院している病院か。ベッドの番号を見ると、220とあった。


「私の携帯は」

「はい。どうぞ。ここは通信出来るそうです」


 頷き、ハナエに電話をする。余程気を揉んでいたのか、ワンコールで彼女が出た。


『タツコ、大丈夫か?』

「うん、大丈夫。今日明日は、お泊まり」

『良かった。しかしどうする、訴訟でも起こすか。あいつタダじゃ済まん』

「いい。もういいの――もう、いいの」

『そう、か。アンタがそう言うなら。落とし前だけつけさせてくるよ。あそこメシは旨いからな――』

「ごめんね、面倒をかけて。今日は、引き上げて、休んで」

『今から行くが』

「……お願い。ごめん。お願い――」

『わかった。思う所もあるだろうが――その、あのな、タツコ』

「解る。何もしない」

『なら、良い。じゃあ、お休み』


 通話を切る。静かな個室だ、会話は母に丸聞こえだろう。


「大武さんから粗方お話は聞きました。同級生に逢ったんですね」

「笑ってしまいます。私、当時と対して顔も変わっていないって事ですよね」

「二年半程度で、変わりませんよ。何を言われたか知りませんが、気にする必要なんてありません」

「やっぱり、男性はダメみたいですね。ごめんなさいお母様、孫の顔は見せられません」

「……そのぐらいの事が言えるのですから、大丈夫みたいですね。ウチに戻ります。お父様にも説明しませんと。今日明日はゆっくり休んでください」

「はい。ご迷惑おかけしました」


 入院セットだろう、母は紙袋を傍らに置き、頭を下げて出て行った。

 母がいなくなると、病室は途端色を失う。元から白ばかりなのは当然だが、空気が重い。窓の外を望むと、住宅地の光がチラホラと見える。時間はもう八時を回っていた。


「六時間近く寝てたのかな――」


 身体をベッドに横たえる。部屋の匂い、シーツの手触り、音の少ない空間の雰囲気、その全てが当時を思い起こさせる。


 私が図らずしも道を踏み外してしまったのは彼等の所為だが――やはり、そればかりでは無いのだ。


 自覚していながらも、懸命に自身の身の細さを否定し、コンプレックスをひた隠し、見ないように見ないようにと努力して来たのだ。彼等の、『彼』の私に対する拒絶は、そのスイッチでしかない。


 本来鬱屈していた精神を無理矢理真っ直ぐに矯正しようとした結果、まるでバネのように弾けてしまった。


 本当にただ、それだけの事なのだ。


 私のような精神構造をしている者の悪い記憶は、時間を追うごとにどんどん悪くなる。冷静に振り返れば、もしかしたらもっと、彼等の言葉とてヤンワリしたものだったかもしれないが、今となって、現実が存在して、振り返ってどうにか出来るものではない。わざわざ思い出し、超越しようとして具合が悪くなれば本末転倒である。


 私は頑張っていた。


 頑張りを否定された結果があれだ。だから、私は励ましが嫌いだった。


「ううっ」


 鏑木の顔が脳裏をよぎり、頭を振る。独りは不味い。独りはいけない。要らない事が沢山思い出されてしまう。もう独りは嫌なのだ。気分が下がり、憂鬱で、惨めでたまらなくなる。


 私は即座に携帯を手に取り、ハナエへの短縮ダイヤルを押す、その手前で止まる。


 先ほど突っ返したばかりだ。きっとハナエは気にしないだろうが、私は気にする。

 つい六時間前までならば、私はそのダイヤルを回したに違いない。だが自覚してしまった。


 元から自身が馬鹿な人間であると解っていても、それを改善する事によって産まれる弊害を怖れて、ヒトは認識を止める。目前のメリットだけを得ようとする。私はそのようにした。ハナエにそれを求めた。


 だが自身が馬鹿であるという認識が心の奥底まで沁み込み、滲んでいる今の私には、そのような『馬鹿な行為』は出来ない。


 これは、誰が許可するから良い悪いでは、ないのだ。


「嗚呼」


 なんて虚しく、汚い女なのだろうか、私は。


 独りになりたくて引きこもり、独りで居るのに飽きてカナメを求め、カナメがいなくなったらハナエに慰めを求めた。人間の孤独感などそんなものだと割り切るには無理がある。そも、精神的に誰かに依存していなければ外に出る事も出来ない者など、人間とは呼ばないのだ。


 そうだった、私は動物でも人間でもない卑しい生物だった。しかし、それを肯定出来ないで居る。


「助けて……」


 またそうやって弱い顔を作る。媚びた姿勢を取る。か細い声を上げる。


 私は世の中から溢れてしまった。復帰する努力を無駄と踏んで自らを閉じ込めた。本当は助けて貰いたかったくせに、頼るのが恥ずかしく、頼る相手も見つからず、頼る先に齎される選択肢が恐ろしく、全てを否定しようとしていたではないか。


 母が、カナメが、ハナエが、手を差し伸べてくれたにも関わらず、私はその期待に応えられなかった。何一つ彼女達に対価を支払わなかった。支払っていたとしても、とてもではないが満足などさせてあげられるようなものではなかった。


 今更助けてなど、オコガマシイ限りだ。


 自己顕示を、自己承認を、求めるただそれだけの為にヒトを求めている。相手には何も齎さない。


 布団を被り、ただ孤独に震える。ここは嫌な場所だ。


 ……。

 ……。

 ……。


 悶絶するような不可避の自虐から逃れるようにして意識を絶ってどれほど経ったか。携帯を手に取ると、時刻は十一時を回っていた。電気も何時の間にか消されており、カーテンの隙間から街灯の明かりだけが細々と降り注ぎ、此方を照らしている。


 気持ちは先ほどよりもだいぶ落ち着いたように思える。もしかすれば血糖値の低下が余計不幸な思考を呼びこんだのかもしれないと考え、私は母の置いていった紙袋を漁る。


 紙袋の奥底には飴玉の袋が入っていた。複数種類の中からソーダ味を選んで口に運ぶ。昼食を取る前に嘔吐し、以降何も口に入れていない。


 本当なら誰か来るまで寝ていたいのだが、休まりすぎた身体が睡眠を許容しないだろう。また暗い中要らない思考を巡らせる恐怖を感じた私は、直ぐに枕元の電灯のスイッチを入れる。


 ベッドの上で脚を抱え、中空に目をやり、飴玉を舐めながら呆然とする。また不幸な私を演じている。


『不幸な私』というのは、自己防衛の不完全形だ。


 誰かしらが心配してくれる。可哀想な私を慰めてくれる。しかし同時に鬱屈とした精神はどんどんと心を抉って行く。家族を失った訳でも、不治の病にかかった訳でもないのに、何もかもに絶望し、夢は無く、未来は無く、虚無的な空気に支配され、やる気もなく、上の空で、ただ毎日を無為に過ごすようになるのだ。


 引きこもっていた当初はそれで良かった。まだ外の誰かが心配してくれていた。だが高校も退学する形になり、身近なヒトはどこかへと消え、高校の時の嫌な思い出だけが自家中毒が如く拡充されて行くようになると、不幸な私も通用しなくなる。ではどうするか、それから先、どうやって自己を防衛するか。


 答えは簡単で、もっともっと何も考えないようにする事である。


 それが正答である筈はない。時間は有限であり、私も歳をとって行く。恐らくあのまま何の変化もなければ、感情の波によって産まれる躁を切っ掛けに、鬱へ戻るその瞬間、ベランダから飛んだだろう。


 鬱だからとヒトは死なない。そもそもそんな事をやる気力もないからだ。まして私は私が一番大事だった。故の自己防衛によって齎された引きこもりである。


 そのような意味で、カナメは私の恩人であった。


 私は彼女に希望を見出し、それに縋りつき、未来を見ようとした。カナメがずっと健在ならば、それでも良かっただろうが、私は――持ちあげられすぎた。いや、勝手に盛り上がりすぎてしまった。


 カナメによって産まれ出た希望が今まさに地に落ちようとしている。同時に持ちあがった私の気持ちは、同じくして地面に叩きつけられようとしている。


 鬱ではなかなかヒトは思い切らない。


 だが、持ちあがった精神がまた不幸な私へと変化しつつある今は、その限りではないのだ。


 私には『辛うじて動く気力』があるのだから。


「……――」


 こんな弱い自分が許せなかった。


 こんな弱い自分を後悔ばかりして、決して未来に繋げようとしなかった自分が悔しかった。


 悔しさばかり溜めこんで何もできない私がもどかしかった。


 折角差し伸べられた手を満足に掴む事が出来なかった自分に腹が立つ。


 その腹立たしさをバネに出来ない、自分の弱さが許せなかった。


 思考回路の袋小路に差し掛かる。答えなんてものはない。ただただ、自虐に自虐を重ね、自虐を理解している自分を悔いて、弱い自分を祟るのである。


 私は、もっと馬鹿ならば良かった。


 何も考えず、流されて、言葉を意に介さず、あっけらかんとし、無意味に笑える人間ならば良かった。


「…………はは」


 歯を使って糸を解れさせ、繊維に沿ってシーツを破く。


 いつか見た自殺支援サイトの画像を思い出しながら、私は静かに準備を始めた。単純な作業だ。細く裂いたシーツを編むだけである。器用貧乏だけが取り柄の私には、造作もない。


 己の首を括る縄を編んでいると、やがて色々な事が脳内に浮かんでは消えて行く。


 一番古い記憶は幼稚園の頃だ。

 私は昔から器用だったし、美的センスもあったのだろう、誰の手も借りず一人で描いた絵が、市のコンクールで大賞を取った。皆はうんと褒めてくれた。父や母は当然、大人の人達が皆喜んでくれた。


 小学校の低学年の頃。

 勉強はそこまで得意ではなかったけれど、文章にセンスがあると褒められた。私の書いた短編小説は誉ある賞を受賞したらしく、未だに小学校の誇りとして誰でも閲覧できるようになっている。勿論皆褒めてくれた。私の未来を誰も憂いたりはしなかった。


 小学校の高学年の頃。

 初めて好きな男の子が出来た。大人しく、普通の子だ。私から何かアクションをかけた記憶はない。それは子供の淡い思い出としてただ保管されるだけの、儚いものだ。彼は直ぐ転校してしまい、私は母に泣き付いた。母はゆっくり私を諭し、慰めてくれる。いつか――ずっと貴女にふさわしいヒトが出来るからと、そのように言われたのが、何よりも印象深く残っている。


 中学校の二年生の頃。

 生理が止まってしまった。体重が軽すぎる、肉体的に弱すぎると指摘されたのは、思春期の私にはあまりにもショックだったのを、良く覚えている。母は食事を変えたり、体質改善を促す健康関連のグッズや、出所の怪しい医学博士の書いた本などを集めて必死になってくれた。父はこれに無理解で、暴言に近い言葉を吐かれた。あの時ほど、母が怒った姿を私は見た事がない。


 誰にも相談出来る訳がなく、酷く憂鬱な日々を過ごした。三か月もした頃にはまた戻ったが、やはり、体重や体調が改善するような事にはならなかった。


 思えば、私は中学のあの頃から、何一つ変わっていないのかもしれない。


 高校の頃。

 最初は思いの外順調であった。むしろ、私の周囲は明るく、世界は開けていたようにすら思える。私なる人物の没落は、本当に、たった一つの行動、たった一つの言葉で、回避できたのだろう。


 あの時、彼等の言葉を無視していたならば。


 もしくは、出て行ってぶん殴っていたのならば、今よりももっと、女の子でいられたのかもしれない。私はただの女の子としていられたのかもしれない。未練がましく、しかしどうしてもその後悔だけは消えなかった。


 普通の私、無難な道筋、当たり前の人生。そんなもの、本当に手に入れている人間がいるのだろうか。普通というのは、この上なく恵まれているのかもしれない。だから、つまるところ私の希望というものは、果てしない高望みだったのだ。


 何も映画のヒロインのような人生を望んだ訳ではない。


 白馬の王子様は現れず、代わりに現れたのは高級車に乗ったハスッぽい女の人である。


 まあそれだって、十分に幸運なのだろう。何せあの人は私の言う事を何でも聞いてくれる。私の事を一番に愛してくれる。彼女に縋りついていれば、私はきっと飢える事も憂う事も無い。未来の事は解らないが、当面幸せであれるだろう。


 だが、違うのだ。


 未来がどうとか、今がどうとか、そういう問題ではない。


 幾ら彼女が愛してくれようと、私は私の形が崩れてしまっては、それまでなのである。

 私を形成していたもの、私の存在理由は水木加奈女にあった。


 いつか、ハナエは私に信心について語っていた。

 信仰対象が儚く消え去るようなものであった場合、いざ終末を迎えた際、私の信心は宙に浮かび、それらによって齎される不幸を回避するべく逃げた先に、納得出来る絶対安住などないのだと。


 事実その通りだったのかもしれない。ハナエは確かに逃げ場所を用意してくれていた。彼女も私を愛してくれていた。しかし私はそれに上手く答えられていない。彼女の優しさが、私には安住足り得なかったのだ。


 求め求め、縋りつきながら『これじゃあない』と切り捨てる。


 ああ最悪だ。


 だから、もう、畜生、私は私を私で何度自己肯定しようとも、自分勝手のクズなのだ。


 もうやめろ、もう死んでしまえ。


 良いんだ、元から自分勝手なのだから、残されたヒトの気持ちなんぞ考える必要性がない。これから死に逝く人間が後の事など考えたって不毛なだけだ。


 私は私が大事だ。


 これ以上心を痛めつけて苦しむぐらいならば、もう本当に、何も考えられないよう、脳の活動を止めた方がマシである。


「……」


 編みあげたものを引っ張って確認する。どうせ私のような枯れ枝だ、そこらへんに引っかかったって首ぐらい吊れるだろう。何よりも器用な私が作ったのだ、簡単には外れまい。


 辺りを見回し、縄をかけられる場所を探す。しかしどうも取っ掛かりとなる部分が見当たらない。ベッドの縁に括りつけても首は締まるだろうが、ヘタレの私だ、苦しくなって外す可能性もある。


 私は紙袋に縄を放りこみ、部屋を出る。場所によっては患者がドアを開くとナースコールが発生する所もあるようだが、ここにはそのようなものもない。


 廊下に出て視線を巡らせる。探す必要もなかったか、私の部屋の直ぐ隣には非常階段がある。幸い難しい細工も無く開くようになっていた。


 鍵を外して外に出ると、冷たい夜風が私の肌を撫でる。階層が低い為眺めが良いとは言えないが、遠くの街明りは辛うじて見える。そもそも、これから死ぬのに目立っては困る。


 ただ、やはり、もう少し雰囲気が良い所が好ましいと、その時は思ったのだ。


 重たい身体を引きずり、階段を昇って行く。階段を上った先が処刑台とは、まさにそれらしいなと、漠然と考えた。


「……こんなに昇れるなら、別に縄じゃなくても良かったなあ」


 地上六階にまで上がると、それは相当な高さになる。一応転落防止用に非常階段は堅牢な作りとなっているのだが、人一人がはみ出す隙間ぐらいは存在した。


 何だか乾いた笑いが漏れる。


 あれほど自身を守りたがっていたのに、あれほど暗に助けを求めていたのに、いざここまで来ると、そんなものは一切合財何の意味もなかったのだと、実感出来た。あとは死ぬだけとなると、本当に気が軽くなるのかもしれない。


 毎日こんな気持ちで居られたのならば、私は苦悩せずに済んだだろうに。


 それと同時に涙が零れて来る。

 私とは一体何だったのだろうか。


 なんでこんなにも気持ちが軽いのに、こんなにも悲しいのだろうか。

 まだ私は私を保てると思っているのか。


 まだ私は私が幸せになれると思っているのか。

 そんな都合の良い話があってたまるか。


 ヒトは私よりもずっと努力している。


 あるヒトは、辛い仕事に従事し、上司の小言に耐え、取引先の怒号に頭を下げ、家に帰って溜息を吐く。


 あるヒトは、明日を生きる為に身体を売り、理不尽な要求に耐え、苦しくとも笑っている。


 あるヒトは、食べる事にも事欠き、笑顔も無く、小さな幸福も無く、ただ虚無的に毎日を生きている。


 あるヒトは、ままならない国家に産まれたが故に、生まれながらに地獄を味合わされている。


 相対的に見れば当然、私は幸福だ。

 明日食べる事に困らず、理不尽な要求を突きつけられる事はなく、むやみに身体を売る事はなく、当たり前にして居れば普通に生きていける国と家庭に産まれた。


 ただ、その対比に価値はおそらく、ない。


 どんなに恵まれた環境にあろうと、悲痛と苦痛と劣等感に苛まれ、後悔と羞恥に晒された身と心は、決して人間として生きるだけの強さを持ってはいないのだ。


 明日生きるだけでは、何一つ満たされない。

 自己に対する否定的意見は一切許容出来ない。


 その性質は寄生的で、責任を感じていると思うばかりで何一つ責任を取っていない。


 虚言こそないものの、その自尊心は異常に強く、弱さを繕っているだけで……本当は他人様の事など、何とも思っていないのでは、ないか。


 私は漸く気が付く。


 私は、明確な病気などではなかったのだ。その性質は、精神異常者のそれである。


「なんて可哀想な私。なんて可哀想――ああ、こんな私を救わない世の中は、なんて酷い世界なんだろう」


 七階の踊り場まで来て、足を止める。


 涙で前が良く見えなかった。己の筆舌にし難い精神性に、また自己憐憫が襲う。


 もう何もかも支離滅裂だ。


「――じゃあ、私は何だったのかしら」


 そのような声が聞こえて来るのも、仕方が無いのかもしれない。

 私は顔を伏せたまま、それに答える。


「自分が一番好きだからです。何を犠牲にしようと、私が傷つかない方がよかった。隣で暮らしている十歳児が、楽しそうに声を掛けた来たんです。正直馬鹿らしくありましたが、演技しているうちに、それが真に迫ったと言いましょうか。まあ、何にせよ、貴女の為じゃない。私が楽しかったから」


「――良いじゃない、それで。何か後悔する事があった? 例えそれが何もかも、全部貴女の為だったとしても、相手も満足なら、それで良いんじゃないかしら」


「そうでしょうか。それは相互の利益に繋がったんでしょうか。それであの子は満足だったんでしょうか。私にはそれを確認する術がない。齎された言葉とて信用出来ない。それすら演技かもしれない。私はあの子に依存の限りを尽くしました。そう演じている事で、私の均衡が保てましたから。彼女は重たくなかったんでしょうかね。私がそれやられたら、ウンザリしますけど」


「――そうねえ。おかしなヒトだとは思ったけれど、私は心地良かったわ。貴女みたいな馬鹿なヒトがいると、弱い自分を覆い隠せたもの。だから、互いにそれで良かったのだと思うわ。貴女の感情に偽りはないでしょう。例え全部自分の為だったとはいえ、それを苦に、貴女は今からその縄で首を括るのだから」


「結局誰の言葉も、私の感情すらも、信じられないんです。ハナエはそれを和らげてくれましたが、そんなものは、私の精神異常の隙間を多少埋めただけで、真人間に戻るようなものじゃあない。そもそも、こんなもの、きっと直せない。可哀想でしょう、何一つ信用していないんです、私」


「――不様ねえ。その不様さが、私は好みだったわ。なんて弱くて愚かで馬鹿な子なのかと思って。本当に、心の底から貴女を見下していたのよ。そんな見下される位置にいる貴女が、大好きだったの。愛していたわ。底辺をはいずり回って救済者を求める、自分では何一つマトモに出来ない塵っ滓」


「それを愛と呼ぶんですか……貴女は」


 顔を上げる。そこには何も無い。何もいない。私はただ、独りで喋っていたのだろうか。


 いや。


「――呼ぶわ。私は下々を愛でて、初めて女王なのよ、タツコ」


 八階に到達する。丁度頃合いの手すりを見つけ、そこに縄を括る。


「――愛しているわ、タツコ。私の短い生涯で、もっとも愛した貴女」


 踏み台は要らない。


 階段を上って高い位置に吊るし、下から跳ねて首を吊ればそれで済む。


「――貴女は、光だった。影に住んでいたのに、私には、光に見えたの」


 括り終えた。階段を降り、首つり縄を真上に仰ぐ。先ほどから人の気配はない。例え病院とて、見つかった頃には間に合わないだろう。中途半端になると、下半身不随なんて面倒な事になる。


 死ぬなら一発だ。


「――貴女には、幸せになって、貰いたいの。私の愛でた、一番愚かな貴女には」


 縄を掴む。首を振る。頭をひねる。


「勝手な――」


 首を掛ける為に跳ねあがるも、上手くかからない。


 飛び上がった拍子に、ポケットから何かがこぼれ落ちた。


「あっ――」


 鉄の足場だ、携帯が落ちれば、それ相応の音が鳴る。


 ガンッという音、そして同時に着信があった。落ちた拍子に静音設定が解除されてしまったのか、何の飾り毛も無い、無機質な着信音が非常階段に鳴り響く。


 同時に階下で鉄を叩きつけるような音が響く。ドアを開ける音だろうか、静かな病院では、あまりにもけたたましい。


「こっちか、タツコ!!」

「あっ――あ、う、うそ――」

「上か!? おい、こら、タツコ!!」

「うそぉ……うそ、なんで、そう……」


 落胆だけが広がる。私はその場に座り込んでしまった。


「――馬鹿ねえ」


 耳元で、彼女の声が囁かれ、やがて消えて行った。私はただ呆然として中空を見上げている。

 ガツンガツンと、おおよそ女の子が立てない音を立てて、ハナエがやってくる。


 息を切らせ、顔を真っ赤にし、目元に涙を沢山溜めて、ハナエは私を掴みあげて立たせると、壁に押し付けた。


「はあ、はあ――、ふう。ああ、だからさ、もう。アンタさ」

「……――」

「タツコ」

「うん」


 瞬間、何が起こったのか良く分からず、また床にへたり込む。頬が異常なまでに熱かった。

 ひっ叩かれたのだろうか。非常階段に乾いた音が残響する。正しく目が覚めるような一撃であった。


「死のうとしたのか」

「うん」

「なんで死のうと思った」

「面倒くさくて」

「何が面倒だった」

「全部」

「具体的にどれだ」

「あの子が死ぬ事と、貴女を好きでいる事、貴女に好かれる事」

「私、そんなに迷惑だったか?」

「ううん……好きなの。凄く。それに、あの子も好きだったの。でも、何よりも、自分が一番好きだった」

「辛いか」

「……解らない。自分が嫌いな事も、自分が好きな事も、他人の言葉が気になる事も、他人を本来何とも思ってない事も、父も母も、アイツラも、あの子も、貴女も、何がどう大切で、どれを一番重視して、最良な自分は何かと考えて、でも答えは出なくて、ああもう、わけわかんなくて、それでも考えて、堂々巡りして、面倒くさくて、それが辛かったのか、それすらも、解らない」

「なんて悲しい生き物なんだ、アンタは」

「蔑んでくれるの?」

「そらそうだ。私より上だったら困るだろう。弱くて愚かで馬鹿なアンタを保護している自分が好きなんだ、私は」

「もう一度打って」


 ハナエは、無言でもう一発、私の頬をひっ叩いてくれた。

 じんわりとした痛み、熱さと同時に、悲しみと充実感が同時にやってくる。


 未知の感情だ。私はそういえば――誰かに何かをきつく叱られた事があっただろうか。まして、人に殴られるような事があっただろうか。記憶にはない。


「どうした、嬉しそうにして」

「もしかしたら、本当に、嬉しいのかもしれない。私、人にぶたれた事ないから。本気で叱られた事なんて一度もないの」

「そうか。それでアンタは満足なんだな。いつでも言え、いつでも叩いてやる」

「私」

「うん」

「価値を、自分で決められないんだと、思う。だからいつも考えが宙ぶらりんとしていて、浮ついてて、形がなくて、雲みたいで、そんな自分が嫌で、そんな自分が正しいと思う自分も嫌で――だから、私は、あの子にも、貴女にも、私の価値を勝手に決め付けてくれる価値観を、欲したのかも、しれない」

「そうか。じゃあ死ぬなよ」

「うん」

「アンタは私の。それで動かない。いいな」

「うん」

「元の所有者も、そろそろ逝くぞ」

「――うん。さっき、話したの」

「そうか。というかな、あの子が逝くってんで、呼ばれたんだ。電話出ないアンタが何しているのかと思ったら、こんな縄まで作りやがって、馬鹿、阿呆、間抜け、クソほど頭悪いなアンタは」

「ごめんなさい」

「ほら立て。いくぞ」

「――うん」


 私の手を引いたハナエは、階段を降りようとしたところで立ち止まる。振り返り、少し上がって私の作った縄を解き、それを紙袋に突っ込む。


「アンタの両親が心配する。これは、無かった事にするからな」

「……」

「アンタが死んだら、私がどうすればいいのか解らなくなる。アンタは、自分勝手な馬鹿で、もしかしたら、他人に全く必要とされていないと思ってるのかもしれないが、偉くでっかい間違いだ」

「貴女は――私が必要? 貴女は、美人だし、お金もあるし、私みたいなゴミクズを、わざわざ拾わなくても、隣には誰かが居て、必要としてくれるでしょう」


「信用ならんもん隣に侍らせて楽しいかよ。まあそういう意味で、今日は裏切られたぞ。人間追い詰まると何しでかすか解らないっての、すっかり忘れてた。お願いだから、死んだりしないでくれ。私に、あの女王様との約束を果たさせてくれ。私から、アンタを奪わないでくれ。どんだけアンタが愚かだって、私には必要なんだ。私の為だ。私のエゴで、死んで貰いたくないんだ。頼む、後生だ、タツコ」


 ハナエは、目元に涙を溜めて懇願する。私はきっと阿呆のような顔をしていただろう。生きてくれ、私と幸せになってくれと、涙ながらに欲されているのだ。私という存在が、人様の生命を握った瞬間だ。


「ごめんなさい」


 恐らく、その言葉は過去どのごめんなさいよりも、真に迫ったものだっただろう。産まれて初めて、ごめんなさいに含まれる意味合いが溢れる程の謝罪だった。


 私の為に必死になってくれる彼女の生命すら、犠牲にしようとしたのだ。


 理解と実感は別物である。どれだけ頭で解っていようと、物事の理を実体験無しに計る事は出来ないように、脳内で幾ら他人などどうでもよいと考えていても、その他人が目の前で泣き出しはじめては、理屈など吹き飛んでしまう。


 私の根元にある精神構造が変わったりはしないだろうが、今までよりもずっと深い感情を得られたような気がするのだ。


「オカルトとか、信じちゃいないが。お前、あの子に止められたぞ」

「……うん」


 階段を降り、カナメの病室へと足を向ける。今しがた逃げ出したというのに、今度は向き合わねばならないのだ。カナメが容体を悪化させなければ、私はハナエが止める間も無く死んだだろう。


 先ほど、私は何者かと対話した。


 オバケとか、幽霊とか、そんなものは生憎観た事はないが、死せる彼女がその精一杯を用いて私を止めたというのならば、私はそれをどう受け取るべきなのだろうか。


 妄想だったとしても、その妄想は何故齎されたのか。

 そんなもの、解りきっているのかもしれない。


 薄暗い廊下を進むと、看護師とすれ違う。以前見舞いに来た時取り次いでくれた人だ。彼女は私達の顔を見ると、静かに頭を下げる。ナースステーションでは数人が慌ただしそうに何かしらの準備に走っているのが観えた。


「死に目にあえなかったか。アンタがくだらない事してるから」

「うん」


 廊下の突き当たり、そこはドアが開いており、中から光が漏れていた。丁度最期の別れの時間なのだろう、医者が部屋から出て来る。会釈し、私達は病室に入った。


「澪さん」

「――あ、タツコちゃん……今しがた……」

「……カナメ様」


 ――今まで生きていた事が嘘のような、それはそれは、虚しい死体であった。


 見舞った時よりもさらに窶れ、以前の面影すらない。あの美しかった少女が、本当にただの物体となり果てていた。


 しかし、これは世辞ではなく、盲信から来る賛辞でもない。彼女の死体は威厳に満ちていた。


 両手を胸に組んだ彼女の姿はどこか神々しく、気高い。その顔も窶れてはいたが、どこか満足げなのだ。


 聖人もかくやという趣きに、私は胸が熱くなる。


 彼女は最期まで女王で居てくれたのだ。


「……澪さん。この写真。御遺影にしてあげてください。私の為に撮ってくれたそうなんです。凄く、良い笑顔なんです。私、この子に、この子に救ってもらったんです。この子が居たから、この子の為にと、外に出たんです」


 手帳から、カナメの写真を取り出して澪に手渡す。放心したような彼女はその写真を手に取ると、胸に抱いた。


「ごめんなさい。澪さん、嘘を吐きました。私、カナメ様を特別に思っていました。大人になったら、私の事を迎えに来てくれるって言ってくれたんです。私にはそれが希望でした。夢でした。未来でした」


 ただ、言葉を紡ぐ。


「最初は演技だったんです。でも彼女と会話を交わしているうちに、私は彼女に尽くす為に産まれて来たんだと思いました。何でもない私をずっと気にかけてくれていました。ずっと慕ってくれていました。私もその恩返しがしたかった。彼女に愛され、私も愛してあげたかった」


 ただ、言葉を紡ぐ。


「まさか、こんなにやせ我慢していたなんて、思いもせず。私は外に出て、引きこもりを治す努力をして、人間関係も、少しだけ広がって、別の女性に、好きだと言われて。カナメ様がありながら、他の女に靡くなんて不貞だと思っていましたけれど、私は私を愛してくれる人が皆好きでした。助けてくれる人が、好きだったんです。自分が一番大事だったんです」


「――タツコちゃん、貴女――」


「カナメ様が助からないと聞いて、私は私を守る為に、このヒト――ハナエに縋りつきました。優しい人だから。カナメ様を失う絶望すら和らげてくれるから。カナメ様は嫉妬どころか、ハナエに全て、預けてしまった」


 手を胸に組んだカナメに手を添える。


 その肉には、元から血が通っていなかったかの如く、温かみは感じられなかった。


 そうだ。


 水木加奈女なる突然変異の女性は、死んだのだ。


「カナメ様は、私を弄って楽しんでいただけだと思います。大人で引きこもりで不甲斐ない私を見下して楽しんでいたのだと。でも、冗談で、私をあんなに愛しそうに、抱きしめてはくれないと、思いました。冗談で、あんな顔をして、真剣に私を想ってくれはしないと。こんなにも酷い人間を、この子は慈しんでくれた――それは、何故です、何故、貴女は――」


 床に崩れ落ちる。


 もう耐えられなかった。


 悲しみはもっと後にやってくるとハナエは言っていたが、そんなものはヒトによるのだろう。あからさまな現実が私を貫くのだ。


 私の存在が、カナメを少しでも幸せに出来ただろうか。


 泣き縋る。たった数カ月、たった一度の触れあいで得た思い出が何度となく脳裏をかすめる。


 あの世界こそが最初の世界であった。


 あのベランダこそが私とカナメの許された場所であった。


「ああっ――あああぁっ――――なんでぇ――なんで貴女はぁっ……!!」


 好奇心と渇望によって生み出された王国が終焉を迎える。


 たった一人の女王と、たった一人の民が治めた王国は、今をもって崩壊したのだ。



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