亡国3
私はあまり、ゲームが得意な方ではない。
クリックするだけ、ボタンをタイミング良く押すだけ、というならまだしも、格闘ゲームはまず勝ち目がないし、ネットゲームでもドロップ運は無い方なので、強い装備も揃えられない為、いつも溜まり場で喋っているだけである。
特にアクションゲームは苦手だった。ハナエに押し付けられたゲームはアクション性が強く、大きな敵を倒しきれず、時間切れで失敗に終わってしまう。
別に訓練しようとは思わないし、上手くなろうなんて気は毛頭ない。
ただ、ひたすらに単純な作業をしていれば、気が紛れたからだ。
ネットに触れるのも、ここ数日拒んでいる。ニュースサイトを開けば死亡事故、芸能人の病死、学校の虐め問題に、SNSの馬鹿晒しの事ばかりで、なんとも気が滅入る。
「――あ、駄目だ。また負けた。硬い。攻撃通らないや」
折りたたみ式の携帯ゲームをたたんでベッドに投げ、同時にスマートフォンを手に取って弄る。
ホーム画面にはメールが二件とあった。二件ともハナエだ。
私は慌てる。
基本的に、お互い時間に縛られない生活にある為、緊急を要するような物事が殆ど無い。私がメールをすれば十秒で返信が来るものの、私はそれに付き合う気はなかった。
だが今は困る。彼女を待たせたくない。冷や汗をかきながらメールを開く。
『今日暇?』
『あ、寝てんのかな。昼食い行こう。前の個室。それじゃなきゃ別んとこ』
まるで男性のようなメールの素っ気なさだ。
『行く。迎えに来て』
そのように返信する。返信は直ぐ来たので、一安心する。
私はあの日、本心は別としても、体面上私の全てを彼女に捧げてしまった。ハナエは全部承知の上で私をカナメから引き剥がしにかかったのだ。当然頼るもの無くばまともに生きられない私が、否定出来る筈もなく、ハナエの思い通りに物事は進んだ。
酷いと思う反面、安心もしている。悩み続ければ確実に自壊する程度の精神しかない私にとって、ハナエの強引さは何も決められない私にとって都合が良いのだ。
思う所はある。
――彼女の本質にある部分、これは、多少看過出来ないかもしれない。
そもそも、私の知っている、出会う以前の彼女というのは、執拗で執念深く、敵と見たら許さないような人間であった筈だ。実際逢って会話をしているうちに、それがネットだけの人格なのだと思い込まされていたが、さて、本当のところはどうなのか。
三日前の事を思い出す。あのタイミングでの告白の強要、私が逃げられない事を知っての強引ぶりは、ネット上でのhananaを思い起こさせる。
「……」
時刻を見る。そろそろ昼に差し掛かる頃だ。一度ベランダに視線をやってから、私はリビングへと赴く。
「お母様」
「はい、なんでしょう」
「お昼、食べてきます。今日は人混みに耐性をつける訓練です」
「なんだか、いつも大武さんに御世話になっていて、申し訳ありませんね」
「大丈夫です、そういう事、気にする人ではないので」
「大武さんとは、どうなの?」
「どう、とは」
「いえね。大武さん、以前うちに来た時、貴女の事をとても気に入っている様子だったから――」
それが男性に対する話ならば誰もが納得するだろうが、生憎彼女は女性だ。挙句私の現状といえば、とても一言で説明出来るようなものではない。
そもそも、私のパートナーとしてハナエを見ている母が意外で仕方が無い。
「あ、えっと。良く、してもらっていますよ。とても良いお友達です」
「別に、良いんですよ。私、貴女が幸せなら、無理に異性を勧めたりしませんし、お父様にも説明しますから」
「お、お母様って、妙に性に対して寛容なんですね。知りませんでした」
「ずっと女子校でしたでしょう。男なんて嫌だって子もいましたし……まさか娘が、とは、思いませんでしたが」
「いやあのその、男性は確かに苦手ですけれど、ハナエはその」
「隠さなくても。だって、タツコさん、もう子供ではないでしょう?」
バレるものなのだろうか。自分では普通にしているつもりでも、私がもう処女でない事は、他の人から見てあからさまなのだろうか。判断基準が解らない。母のカマカケ、という可能性もあるが……実際、否定肯定、どちらにしても母の反応は同じであるような気がする。
「とても、人間関係が複雑になりつつあって、何でもかんでも、話せないと言いますか……」
「なる、ほど。あ、ごめんなさいね、詮索するような真似をして。ここ最近落ち込んでいる様子でしたから、何かあったのかと」
「……暫くしたら、自動的に解ると思います。では、行ってきますね」
「はい、気をつけて。戻る前に電話をください。いってらっしゃい」
最近はこのような調子だ。二年半も引きこもった娘が積極的に外へ出ようとしている所を、止める母はいない。大武……ハナエも母から信用されている様子なので、彼女の下へ赴く事に対して、否定感はないのだろう。これが男ならば多少も心配するだろうが、幸か不幸か、子供は出来ない。よほど悪い遊びに興じているとするならば、あのように敏い母だ、直ぐ気が付くだろう。
健全とは言い難いが、私達の関係は誰に迷惑をかけるものでもない。
逢って、お話して、お食事して、セックスするだけだ。
これを恋人と言わず何と言うだろうか。私もその関係を客観的に見た場合の判断を承服してはいるが、了解は出来ていない。
……、ああ止めよう。気分が下がる。
切り替える。私はハナエに会った瞬間から、彼女のタツコだ。
「はーなえ」
「や。おはよ、タツコ」
「一度貴女の家行きましょ」
「あら、このままメシ食わないの?」
「ん。えっちしたいから」
「むっ……でも腹減ったしなあ」
「解った。じゃあ先にご飯ね。貴女のマンションに戻ったらしましょ。最近コツが解って来たの。ディルドって少し苦手だし、おもちゃ無しでしたいな」
「女同士だとどうしてもな」
「頑張るから、ね? ね?」
「ああ、解った」
自分がどれほど愚かで、どれほど間抜けで、どれほど阿呆なのか、良く理解しているつもりだ。そしてハナエが、後ろ暗い感情を隠し持っている事も、解っている。
だとしても、私はこうしてあざとく、馬鹿らしく、彼女好みの女を演じて、それに陶酔して、全部忘れて、彼女に縋りつかなければいけない。
そうしなければ私は私を保てない。
この姿が本来の私であるかどうかなど問題ではない。この肉体が、この精神が、死を恐れるあまりに、どれほど滑稽であろうと生き延びる術を求めている。
この私は、面白い。まるで他人だ。もう既に、彼女の前で幾ら裸を晒そうと恐ろしくは無く、むしろ興奮すら覚える。彼女と逢う時は外出時こそ上着を羽織っているが、家に入った瞬間から肌の露出が増える。
隣にハナエさえ居てくれれば、不必要に怯える事もないのだ。
それを快復とは言わないだろう。完治とも程遠い。完全に、精神を別個にした逃避である。
それでも良い。何でもいい。
私はこのヒトに愛して貰わなければいけないのだから。
「――あっ」
「どした」
「……喋り方、変えた方が良い?」
「いつものぶっきら棒なカンジ、好きだよ」
「そう。じゃあ、そのまま」
「なんだよ。カスタマイズしてるんじゃないんだから……」
「貴女の好きな方が良いの」
「別に良いよ、無理しなくて」
「無理じゃない」
「いつものタツコが良い」
「じゃあそうする」
ハナエの好ましい私、それこそが今あるべき私だ。そこに『カナメ』という要素は介在しない。ハナエもカナメについて言及は避けていた。私も話題に出したりはしない。
ハナエに『強要』された時、あれほど葛藤したというのに、いざ全てを許してしまえば、堕ちるのも早かった。そして、悩みを心の隅っこに追いやるのも、あっという間であった。
自身の生命に関わる恐怖は、何もかもを委縮させる。その恐怖に打ち勝ち、前に進める者は限られているのだ。生憎私にはそんな強靭な精神は備わっていない。私は私を守る事を優先した。そして、周りがそれを許容してくれている。
私はそれが悪だと感じている。客観的にみたら、なんて身勝手で薄情な人間だろうと罵るに違いない。
だが、これは私に限った事なのだろうか、本当に絶望が目の前にあり、そこに最低限の逃げ道が用意されていた場合、人はわざわざ恐怖に突っ込んで行くだろうか。
まさか。行くまい。
人はそれを自殺と言う。
「信号、止まった」
「そら、止まるだろうさ。ぶっ飛ばして捕まってられるか」
「キスして?」
「い、いやあ――ほら、隣にも車止まってるしだな……」
「いいじゃない別に」
「恥ずかしがり屋って訳じゃないんだよなあアンタ……ああもう、ほら」
「ん」
「……うわ、はずかし。事故ったらどうするんだよったく」
恥ずかしそうに頬をかくハナエが可愛らしい。最近、彼女の扱いにも慣れて来た。私はどうしても受け手に周りがちだったが、肌を重ねるとは言葉を重ねるよりも雄弁なのか、彼女がどういったものを好み、どういった行動が喜ばれるのか自ずと解るようになった。
何事も大きく出る彼女ではあるが、その心に抱えるものは殊の外繊細である。
隣で寝ている時は、必ず手を握ってあげる。
腰掛ける時は必ず寄りそってあげる。
ふと寂しそうにしている時に優しい言葉をかけてあげる。
もしかすればありがちな事かもしれないが、世の恋人同士、夫婦でも、なかなか出来ずに距離が離れると聞く。ハナエという寂しがりは、こういったスキンシップが一番大事だ。
まだ付き合いも長くない為、今後どういった形になって行くのか、それは解らないが、ハナエに関しては焦らす事なく、与えてあげるのが正解だろう。私も焦らせる余裕がないので、丁度良い。
「何食う?」
「お肉」
「ステーキプレートあったな。海鮮サラダもつけるか」
「私身体細いし、体力つけないと」
「運動しろ。精力ならほら、三丁目のスッポン鍋でも」
「乙女が二人でスッポン鍋ってどんな苦行なの」
「私は良いけどね。そういや、タツコって料理出来るのか?」
「もう暫く作って無いけれど、高校生の頃はお母様に習っていたから、たぶん」
「例えば?」
「中華料理好きだよね。大体出来ると思う。今度作りましょうか」
「じゃあ裸エプロンで」
「中華で裸って。火傷が怖いから、もう少し簡単なもの作る時に……」
「あ、してはくれるんだ……」
「うん、勿論」
「大体の夢が叶いそうだなあ――」
街中のコインパーキングに車を止め、繁華街を行く。
初めて二人でここに来た時は痛い目を見たが、今の私には大した問題もない。未来など思い描く必要がないのだ。楽しそうにしている人達、笑っている人達、充実した生活を営んでいるような人達を見ても、自身の不遇と劣等感に苛まれたりはしない。
手を伸ばし、ハナエの腕を組む。昔、腕組みをして歩いている女性二人組は一体どれほど仲が良いのかと疑問に思った事もあったが、今ならば理解出来た。勿論、それが全部ではないにしろ……たぶん、純粋に嫌われたくないのだ。
まあ私の場合、もっとえげつないものだが。
「そういえば、貴女って胸、幾つあるの」
「85だけど。Dだよ。ブラみなかった?」
「えっちな下着だなってのは解った」
「趣味で黒いのが好きなんだよ。野暮ったいのはちょっとねえ。アンタのは可愛いの多いな」
「薄くて小さいし」
「そう卑屈そうな顔するなよ。他の誰に見せる訳でもないだろう? 私が好きだから良いんだよ」
「そうか。そうだね。他の人に見せないもの。じゃあ後で下着見にいきましょ」
「じゃあえっちなの選ぶかな」
「ふふ。うん。もう隠れてないのとか、ギリギリ隠れてるのでも良いよ」
「――ふむ」
ハナエはわざとボーイッシュであったり、メンズに近い服装をしているが、もっと女性らしい装いをすれば、当然男性も寄ってくるだろう。私よりも身長が高いと言っても170手前であるから、男性と並んで不釣り合いという事もない。
私は未だ、彼女の性遍歴を聞いていなかった。他の女性と比べた事はないが、彼女は上手だと思う。攻めるのも受けるのも好ましい体位で対応してくれるし、初心者の私に配慮するような事が何度かあった。私は日々彼女と心地良くなれる方法を模索しているような段階である。
当然彼女は処女ではなかったし、積極性も私とは異なる。彼女は家の事ばかりで外に気持ちを向けている暇がなかった時代があるので、考える所その前、つまり高校生も頭か、その前に経験済みという事になるだろうか。
しかも、その絡みは恐らく『えっちしちゃったの』程度のものでは絶対にない。
故に、多少聞くのが恐ろしい部分があった。しかし、好奇心もある。彼女は以前、どのようなヒトと付き合っていたのだろうか。それは男か、女か。
「ついた。あ、どーも」
「いらっしゃいませ。いつものお席が空いておりますので、そちらへどうぞ」
「はいはい。じゃあ早速。コーラとビールとプレート二つ。サラダとスープもつけて」
「畏まりました」
「ゆっくりでいいよ」
店に到着するなり注文を申し付ける。あれ以降何度か訪れており、私の食いっぷり故の金払いが良い為か、何かと配慮してもらっている。本来カップル席に女性二人など入らないのだが、今は顔パス状態だ。
いつも通り私が奥、ハナエが手前に座る。
「んじゃ、ちょいと外に」
「あ、ハナエ。いつも席を外すけど、別にここでもいいよ」
煙草とライターを持って外に出ようとするハナエを引き止める。親しくなれば気にもしなくなるのかと思いきや、喫煙に関してはいつも席を外す。自宅に居ても、彼女は外でしか吸わない。
「煙草臭いし」
「キスで慣れちゃった」
「服に匂いつくし、不健康だし」
「そこまで言うならだけど……不思議」
「あー……うーん。その、ねえ」
なんとも歯切れの悪い。いつものように論理的に捲し立てるか、適当を言って誤魔化す訳でもなく、言葉に詰まっている。そもそも二十も頭の割に吸い慣れている雰囲気がある。十代からの習慣なのかもしれない。
彼女の手に握られたライターに目をやる。銀色で厳ついジッポは、到底女性が持つものではない。
「いつから吸ってるの?」
「あんま良くないけど、高校からかな。あ、ヤンキーじゃないんだぞ?」
「……あ、解った。隠れて外で吸うのが好きなんだ」
「解るもんかな。部屋だと逆に吸った気しなくて」
「ウチは誰も吸わないけど、そういうのって誰かに勧められて、ってのが多いよね。家族?」
「――いいや。前の彼女」
そういって、ハナエは椅子に腰かけ、灰皿を手繰り寄せる。煙草を取り出して火をつけ一服すると、なんともアンニュイな表情をする。私は彼女の、こういう表情が好きだった。その横顔は非常に魅力的で、何か吸い寄せられるものがある。
しかし、バツが悪そうだった理由が解った。
「いつか聞こうとは思っていたけれど、やっぱり前も彼女なんだ」
「あん時はノンケだったんだけどねェ……聞くの? 本当に?」
「気になるけど。話して嫌な気分になるもの?」
「いや。恥ずかしい思い出だし、タツコヤキモチ妬くでしょ」
「貴女の恥ずかしがる顔って好き」
「参ったね。あー……うん。バイト先の先輩だったヒト。当時は25だったかな。好きなインディーズバンドが一緒でね。一緒にライブ見に行ったり食事行ったりしてたら、何時の間にかホテルにまで行っててね」
「……案外流されやすいんだ」
「え、遠征ライブに付いて行ったんだよ。お金もないからネカフェに泊まろうって言ったんだけど、二人でファッションホテルの方が安上がりだし休めるって言われてだな……そしたらそのまま押し倒されて、私処女だったのになあ……」
なんとも気恥かしそうに語る。友達だと思っていたら狼だったのだ、警戒心を無くした自身の愚かさも恥じているのだろうが、そこまで後悔している様子はない。
「――無茶苦茶上手でね。なんというか、堕とされたというか、引きこまれたというか。恥ずかしい話だが、ドハマリしてな。それこそまー、暇あればいちゃついていたというか、バイトの空き時間に倉庫とか、トイレとか、そんな所でもしたな。うわ、何言ってんだろ私」
「へえ」
「なんで面白そうな顔してるんだアンタは」
「それで、その人とは?」
「……高校生にして色々教わってさ。男役もさせられて。煙草も、吸ってた方がカッコイイって言うから、始めたの。このライターも貰いもの。ゴッツイし重いのに。その人は、何でも楽しくするヒトでね、私とも、楽しいからシテただけで、本気じゃなかったんだろうさ。バイト止めてからは音信不通、空中分解……挙句私は地獄の介護に大突入だからさ」
ハナエは中ほどまで吸った煙草をもみ消す。やはり室内では吸った気がしないのかもしれない。
しかしなるほどだ。そのような出来事があったら、普段の振る舞いもなんとなく理解出来る。メンズ寄りの格好も、元はその人物の所為なのだろう。というか、彼女を構成しているものの基礎は、全てそのヒトなのだ。
「納得したか? まったくの恥さらしだが」
「煙草吸うのもえっちが上手なのも納得した」
「そう嬲るなよ。もう付き合いの無いヒトなんだ。それを言ったら――」
ハナエが良いかけ、止める。続く言葉は想像出来たが、追及はしない。ただキスだけを求めた。
ここは良い。個室であるし、誰の目も無い。
少し煙たい味のするキスだ。いつもと違ったシチュエーション故に、想像力が広がる。
「ここでシてみる?」
「あのな……誰か来るかもしれんだろ。あられも無い姿見られて失神するのアンタだぞ」
「来なきゃしても良いんだ。……ハナエ、えっち好きだもんね」
「仕込まれちゃったしな。調教済みとでも言うかな。酷い話だ。だからねー……一人身の時は辛くて辛くて。今は、アンタがいるけど」
「私達、碌でもないね」
「同意する。碌でもない。碌でもない同士、仲良くやろうな、タツコ」
「んふふ。うん。好き。愛してる、ハナエ」
好きだの、愛しているだの、実に都合の良い言葉である。
その下地に有るあらゆる感情も思惑も簡略化し、機能的に繕う事が出来る。故に私はこの言葉に頼る事が多い。惨めな私を覆い隠すのに、これほど便利なものは無いからだ。
「ちょい、御手洗い」
「ん、トイレでする?」
「あのなあ……」
「いってらっしゃい」
手を振って送り出す。私は携帯を取り出して弄り始めた。
ハナエという人物を解っていたつもりでも、やはり知らない事実を持ち出されると考える所が増える。
ハナエがハナエたる所以である所の、前の彼女には、一応感謝しておこう。勿論、今現れてハナエにちょっかいを出すというのならば大否定する所だが、今のハナエを構築した事実については評価して然るべきだ。
大武華江なる奇特な人物あっての私だ、もし彼女が私の前に現れなかったらと、考えるだけでも怖気が走る。
「失礼します」
「あ、はい」
廊下と小部屋を区切る戸が叩かれ、私はビクリとする。料理が運ばれて来たのだろうか、二人前にしてはやけに早い。飲み物も同時に持ってくるように指示してある筈なので、それもないだろう。
(あ、お冷とおしぼりが無いや)
ハナエばかり見ていて気にも留めなかった。
頭を下げて入って来たのはいつもとは違うウェイターである。その手にはやはりお冷とおしぼりが握られていた。
「済みません。御持ちするのが遅れてしまって……ん?」
何が、ん、なのか。
誰にでもそうだが、特に男性に視線を合わせたりしない私だ、直接顔を見る事はない。だが、その何か調子づいた『ん』が、非常に聞き覚えがあったのだ。
思わず、顔を上げてしまった。
その時、私は迂闊だった。
大量の視線がない場所ならば多少は安全だとタカを括っていたのかもしれない。ハナエが居る事への安心感から、ここ最近は帽子もサングラスも無く、顔を晒した状態で居た。更にここは個室であり、なおかつ『知り合い』なんてものが近くにいるとは考えなかったのだ。
「あれ、旗本」
「――あ、う、あ」
ウェイターは私が誰なのか気が付き、私の苗字を呼ぶ。私も彼が誰なのか解った。
『あの時』私の陰口を叩いていた人の、一人だ。鏑木という。
鏑木の好奇な目線が突き刺さる。その口元は笑っていた。
私は眼を見開き、動揺のあまり携帯を取り落とす。
「はっは。おいおい。なんだ、外出れるようになったのか?」
「あ、や、あ、あの。か、鏑木……くん」
「そうだよ鏑木だよ。高校ん時よぉ、あれからお前来なくなって、みんなどうしたのかなー、なんて言ってたぞ。こっちはこっちで疑われてさ、えらい高校生活だったぜ」
「あ、うあ……あ」
言葉が紡げない。
全身から冷や汗が噴き出て、顔面が蒼白となるのが見ずとも解る。
まさしく血の気が引いている。しかし相反して心臓は異常なほど脈打ち、急激に血液を押し出す。
まるで心臓発作だ、私は胸元を抑えて蹲る。
口元が、あの時のままだ。
薄暗く笑い、人の事を暗に罵り、他人をこき下ろして自身の優越性を示し、くだらない自尊心をひけらかし、話が出来る自分という自己顕示に酔う、ゴミクズの典型だ。
なんで居る。
なんでここに居る。
どうしてこのタイミングで出会う。
いや、おかしくない。だってここは近所だ。同級生がその辺りに居たっておかしくは無い。彼が一目で気が付くほど、そして私はきっと変わっていないのだ。
じゃあ、では、私は、観られていたのか。
他の同級生にも観られていたのか。
歩いている所を見ながら、私の悪口を言っていたのか。
私を見ながら笑っていたのか。
私をダシにその汚い口でツバを飛ばしながらゲラゲラと笑っていたのか。
「は――はなえ……」
彼女の名が口からこぼれる。鏑木が何事かぶつくさ呟いている。視線が泳ぎ、脳がぐるぐると回り出し、意味が解らなくなる。
「おい。てかココ、カップル席だよな。なんだ、彼氏なんて出来たのか」
「あ、あの、あ、いっ――」
「――その棒きれみたいな身体で。モノ好きがいたもんだな」
その言葉がトリガーだったか、否か。
急激な心的ストレスが消化器を煽っているのが解った。最悪な出来事の前兆だが、私に逃げ場はない。彼を突き倒して走り抜けるような体力はなく、そしてまともに動ける体調でもない。
それは必然として齎された。
「あっ……あう……うっっげえぇ……ッ」
「うわ、お、おいおい、何してんだお前……ッ」
撒き散らした。
手で押さえる事も出来ず、テーブルの上が私の吐瀉物に塗れる。
呼吸が乱れ、均一に呼吸する事が叶わない。
短く、断続的に、しかし色濃く確実なフラッシュバックが繰り返し、脳の中を無茶苦茶にする。
全身が震えだした。こうなってはもう、私自身ではどうする事も出来ない。
とにかく、どこかに行って欲しい。
私に近寄らないで欲しい。
なんで現れた。
よりにもよって何で当事者がここに居る。
私に構わないで。
私に触れないで。
私を見ないで。
全部全部お前の所為なのに。
全部全部お前等が悪いのに。
私が精神を患ったのも、私が引きこもったのも、私が男嫌いになったのも、何にも自信が持てなくなったのも、コンプレックスが大きくなったのも――
こんな私に――お前達がしたのに――ッ!!
「退け!! タツコッ!!」
「あっ、あぐっ……あぐっ……あ、うわあぁっああっ……ああっああっ、あうぅぅぅ……ッッ」
「手前ェ何した!? ああッ!?」
「な、なに、何って。高校ん時の、知り合いだから――」
「知り合いぐらいでこんなになるかクソが!! 何言った!? タツコに何言った!!」
「な――にも……」
「いいから上司呼んで来い!! タツコ、ゆっくり呼吸しろ、ああ、ごめん、油断した……」
呼吸が苦しい。気管に吐瀉物が詰まったのだろうか。
それとも、不整脈で血流が滞っているのか。
私には、判断出来ない。
ハナエの顔が霞む。黒くなって行く視界の中に、私は一瞬だけ、カナメの笑顔を思い浮かべた。