亡国2
元から高台に開かれた場所の地上十五階だ、その視界の広さといったら実家のベランダとは比べ物にならない。ここからならば隣町も、自分の住むマンションも、そしてカナメが入院している病院も良く見えた。
ここはベランダ、というよりもバルコニーだろう。
白く綺麗に塗装された床に壁、天井はなく建物から突き出した形になっている。右手奥には一段高くなったウッドデッキがあり、そこにはバーベキューセットの据え付けられた木製の椅子と机が並んでいる。
壁際に作られた煉瓦の花壇が小洒落ていて、園芸趣味がなくとも進んで花に水やりをやりたくなる雰囲気がある。
そもそもここは、端から端まで歩くのに七秒もかかる。どんなマンションだと、無粋にも値段を計算してしまった。
ハナエの趣味は解らないが、半分以上引きこもりの彼女には不要に感じられてならない。
当然私にも分不相応だ。
バルコニーからリビングを覗く。ハナエは運び込んだ自作のパソコンを五台、サーバーを二台、その他端末複数でネトゲとソシャゲと情報収集とデイトレードに勤しんでいた。その顔たるやいなや、本当に幸せそうである。きっと今頃ネットでは、悪の大魔王が帰って来てしまったと戦々恐々の事だろう。
人を最も駆り立てるものが何なのか、良く分かる。どうあがこうと私達は生物だ。生きているからには、死なない為の努力が必要になる。
彼女の場合、覚悟と勢いと運が、ケタ外れていたのだろう。坐して死ぬならば、この不幸な世界に一矢報いようという覚悟は格好良いのだが、本人がアレでは締まらない。
「広い」
カナメが占有し、私が住まう領地とは比べ物にならない。ここは一人には広すぎる。
ハナエは狭い場所がイヤだと言っていた。そしてリビングに据えられた家具や揃えられた食器、それら全て、五人分なのである。
恐らく、ハナエの家族分だ。
死した祖父、高級介護ホームにいる祖母、金を叩きつけた父と母、そして自分の分。
自由になりたいと願った彼女は、心の奥にまだ、幸せな家族の絵画が飾ってあるのだろう。
「ん」
自分用に買い替えた携帯を覗く。メールが一件、澪からのものだ。
『面会許可が下りました。二人分申請したので、逢いにいってあげてください』
そのように綴られている。最近の病院はどこも防犯の為、入院者との関係性を明確にしなければ面会も叶わない。特にカナメの場合は生死の狭間にいるようなものだ、判断も慎重になったのかもしれない、あれから四日経っている。
携帯を握りしめてから、ポケットに仕舞う。
どうしたものか。
あれから、一向に実感が湧かないままなのだ。カナメが消えてしまう、死んでしまうと言われても、涙の一つも出てこない。ハナエは『そんなものだ』とは言うのだが、臣下として、民として、王が臥せている事実に対して悲しめない状況が不敬であるような気がしてならない。
勿論、彼女の眼の前で泣き喚くような真似はしたくないが、それでも、私は私が間違っているのではないかという疑念を払拭出来ずにいる。
最初こそ、病床のカナメを目撃して立っていられるかと疑問に思ったが、このような精神状態ならば、思いの外普通にいられるのではないだろうか。
善し悪し別に、取り乱すような真似をしないのならば――
「タツコ、顔怖いぞ」
「ハナエ」
「どした」
「面会許可、出たの。車出してくれる」
「……良いのか? 覚悟決めたか?」
「どういう事?」
「元から痩せたんだろう。今だって、生きて喋ってるのが不思議なくらいだって、澪さんも言ってただろ。これから逢うカナメちゃんは、アンタの知ってるカナメちゃんと、だいぶ違うかも知れんぞ」
「ガリガリは見慣れてる……いや、見たくないけど……」
この前、久々に自分の体を見た。その久々というのが、ハナエと一緒にお風呂に入っている時なのだが、自分が思っていたよりずっと、私は普通だった。
私の顔から身体まで、何もかも褒めて煽てるハナエの所為もあったかもしれないが、私の頭の中で描いていた私自身の身体のビジョンと、まるで違うものがそこにはあった。
思いこみ、自己嫌悪、鏡の忌避、そういったものが作りあげた負のイメージが『痩せすぎて悲惨な私』を現実に当てはめていたのだと、ハナエは言う。まあ勿論、痩せ気味なのは変わらないし、胸も無いが。
それで他人からの視線恐怖が緩和するかと言えば、そこまで急激な変化はないだろうが……私の身体は、しっかりと女の子で、ちゃんと機能していると実感出来た事は、収穫である。
「栄養剤で生きているような状態じゃ……まあ、逢いに行くというのなら止めないし、車も出す」
「あまり脅かさないで」
「現実だからな」
私は手帳を開き、彼女から貰った写真を取り出し、ハナエに見せる。彼女はそれを受け取ると、目を見開いた。
「細い、が、あの親から産まれたってだけはあるな……将来は美人だったろうに」
「なんだか、言い方に棘がある」
「アンタが、これから死ぬ人間に逢いに行く顔してないからだよ」
「お爺さんが亡くなった後も暫く自覚なかったって、貴女も言ったじゃない」
「モノが違いすぎるな。比べられん」
「あまり、不作法な態度を取りたくないの」
「無理に抑えてるんじゃなくて、本当に現実感がないんだ。まあ、いいさ。車回すから、戸締りお願い」
「――」
彼女は飄々としたものだ。それも当然、彼女はカナメに逢った事はなく、真っ赤な他人である。では私はどうなのか。
今こうして平静を保っているが――ハナエの話を信じるならば、私は取り乱すらしい。
この平静が防衛反応から来るものなのか、はたまた、本当になんとも思っていないのか……私は首を振る。
家の戸締りを済ませ、表に出る。
真新しいエレベーターに乗り込むと、途中で別の階の住人と乗り合わせた。私は小さく会釈する。
「最近来た十五階の方?」
「あ、友人です。えっと、宜しくお願いします」
「いいえ。ご丁寧にどうも。十五階を丸ごと買い取ったっていうから、どんなお金持ちが来たのかと思って」
「あはは……あまり、省みない人なので」
一階に辿り着くと、乗り合わせた富豪らしきオバサマが先に出て行く。また小さく会釈すると、カンジの良さそうな笑みを返してくれた。
(……耐性付いたなあ……)
エレベーター乗り合わせを死ぬほど怖れた私はもう、どこにもいなかった。
玄関で待っていると、やがてハナエが車を回してくる。助手席に乗り込んでシートベルトを締め、自動式の正門が開くのを待った。
「他の階の人とあったの」
「へえ。ご近所づきあいとかしないからなあ」
「普通に話せた」
「その成長ぶりを教えてあげられるといいな」
ハナエの表情から、感情を読み取る事は出来ない。ただ私は、彼女の横顔見て、ふと感謝したくなった。
「ハナエ」
「なに?」
「ありがと」
「アンタは……クズな自覚はあるクセに、タラシだって自覚はないんだなぁ」
「何それ。酷い言い方」
「ああ、私みたいなフェム好きには、きっつい子だ、全く」
ちょっと何を言っているのかよくわからないが、ハナエもまんざらではなさそうなので、良しとする。何にしても、彼女の手助けは嬉しい。一か月前の不信感はほぼ払拭されたと言っても過言ではないだろう。
彼女との会話、彼女との生活、彼女との交わりの中で、殊更強い感情を私に抱いている事だけは間違いなく確信出来た。同時にそれは私のリハビリに繋がったし、不貞にも繋がったのだが――まあ、良いだろう。
彼女は私を欲しがっているし、私も彼女の助けが欲しい。実にウィンウィンである。外から見た場合の体裁など、気にしている場合でもないのだから、問題ない。
発進した車から眺める景色も、もうだいぶ慣れたものになって来た。基本的な足はハナエの車であるからして、何処へ行くにもコレに乗る事になる。繁華街は時折暗い感情に襲われるものの、もう少し人口密度の低い場所や普通のお店ならば、繕ってではあるが、涼しい顔を出来る。
しかしこれから向かう場所はどうだろうか。
近くの大学病院はそこそこの規模を誇り、周辺でも指折りである。
過食に陥った当時、個人開業医に紹介を貰い、私はその大学病院の心療内科に通院していた。
神経性大食症と診断された頃には、もう胃も食道もボロボロ、歯も一部融けた為、差し歯が幾つかある。幸いと言って良いかどうか解らないが、悲観して自殺に走るような真似はしなかった。
代償行為として嘔吐に走ったのは、個人的には不本意である。
自身の身体に対するコンプレックスによるストレスから無茶食いを始めたと診断されたが、本来は吐く気もなかった。栄養はそのまま溜めておきたい、そう思う反面、肉体的に受け付けなかったのだろう。無駄だ無駄だと解っていても、私は買いこんだ食品を夜中起きだしてむさぼり食うような真似を繰り返した。
暫くの入院の後、母が徹底した栄養管理を行うようになる。人前に出る事がなくなった所為もあるだろうが、私の過食は以降無くなった。
とはいえ、過食云々を抜きに私は元から良く食べる。痩せの大食いである。
引きこもっている時期は一切病院など近づかなかった為、本当に久しぶりだ。
六分ほど車に揺られていると、やがて白亜の城のような大学病院が目に入る。
「久しぶり」
「ああ、過食ん時御世話になったのな」
「来客用駐車場は右。入院病棟入口も直ぐ近くにあるから」
「あいあい」
駐車場に入るなり、私は手鏡で自身を確認する。髪を直していると、ハナエに笑われてしまった。『普通の女の子っぽい』というのだから、酷い話である。
そうだ。私は普通の女の子に戻ろうとしている。女の子……というには、少し時間が進みすぎたものの、まだ女の子を名乗るぐらいの場所には居たいのだ。何せ私の青春は土留め色である。
「見舞い品……とかは持ち込めないか」
「花も駄目だって」
「ああ、いよいよなんだな」
入院病棟に足を踏み入れると、消毒の匂いと配給食の匂いが混じった『病院』としか言いようの無い香りが漂って来て、私は顔を顰める。白塗りの壁、ワックスがけされてのっぺりとした床には道標の線があり、多色に渡って奥へと伸びている。
「どうも。えーと、見舞いなんだけど」
「はい、お名前を」
入口にある守衛室で面会者照会が行われ、問題なく通される。
『200~220病室』の線に従い、私達は足を進めた。
「普通病棟なんだな」
「終末医療病棟もあるのだけれど」
「――否定したのかな。そっちだと、面会手続きが面倒とか、そういうので」
「……なるほど」
途中にある院内売店などに目をやっていると、何だか当時を思い出してしまい、複雑な気分になる。入院当初買い食いをしようとして怒られた覚えがあった。
「この売店に置いてる塩茹卵、美味しいよ」
「まさか病院で美食語られるとはな。まあ後で買うか」
エレベーターで二階に上がり、目的の病室、200を目指す。200は奥まっており、個室だ。
「すみません。水木さんの見舞いなんだけど」
二階のナースステーションで看護師に声をかける。澪からも、そのまま見舞いには行かず、一端ナースステーションに声をかけてくれという話だった。
「水木さん。ああ、カナメちゃんね。許可下りてるって事はお知り合いなんでしょうけど……ずいぶん年上ねえ」
四十代半ばほどの看護師が小首を傾げる。大体予想はしていたが、確かに、客観的に見れば二十代の女性二人が十歳児の見舞いに来るのは不思議である。続柄はなく、学校の先生でも、塾の先生でもない。
「ま、その辺りは詮索しないでよ、お姉さん。色々あるんだ。あの子見て、わかんない?」
「あー……ま、そうね。じゃあ案内するわね」
ハナエの言い方は多少気になるが、それを否定出来ないのも確かだ。カナメは特殊すぎる。
先を進む看護師に付いて行き、とうとう私は彼女の病室の前に立った。
「元から痩せていたけれど……だいぶやつれてね。もしかしたら、見られるのがいやって否定するかもしれないけど、その辺りも、解ってるのよね?」
「ああ。取り敢えずこの子だけだな。私はココにいるから、看護師さん、アポとってアポ」
「解ったわ。水木さーん、失礼しますねー」
先に看護師が中に入る。二分ほど待っていると、看護師が中から出てきて、小さく頷いた。
「帰る時も声をかけてね」
「はい。有難うございます」
引き戸に手をかける。
――そこで漸く、いや、とうとうか、私は躊躇いを覚えた。
この中には、私の神がいる。
私の女王がいるのだ。
謁見を許可されたのだから、向こうに否定感はないかもしれない。だがもし、私が動揺し、恐れ、悲しんでしまった場合、彼女は私をどう思うだろうか。
本当に、私が想像していた以上に酷かったら――。
「アンタは、その子のなんだ?」
「……臣下。民であり、そして信者」
「背負いまくりだな。アンタさんがどんな状態で出てきてもさ、私がいるから」
「うん」
引き戸を開け放つ。何の音も無く、戸はすんなりと開いた。
私は少し伏せ目がちに入室する。
「――嬉しいわ。来てくれたのね、タツコ」
嗚呼。
なんて事だ。
彼女の声が、たった一言が、彼女との思い出と、彼女に貰った想いと、彼女に対する心を、一気に呼び覚ます。
視線を上げる。
窓は開いていた。
風に揺らめくカーテンが妙に印象的だ。
彼女は影になり、まるで後光が差しているようである。それはいつか夢に見た光景でもあった。
目が慣れると、彼女の全貌が露わになる。
「カナメ様。タツコです。御加減は――あ、あぁ……ああぁ……ああぁあ――……」
そのシルエットは、最早枯れ枝だ。一か月前に見た彼女の面影はどこにもなかった。
むしろ、今、何故生きているのか、それが疑問に思える程の、非人間的な痩せ具合である。
私の平静な心なんてものは、本当にただの作りものでしかなかったのだ。
全ては想定妄想自我を守る為の逃避行動でしかなかった。
ゆっくりと歩き近づき、管に繋がれ、頬はコケ、皮と骨だけになった、我が愛しき女王に触れる。
手の甲の血管が異常に浮きあがり、青黒い筋が生々しい。
美しかった肌は張りが無く、人工皮でも撫でているようだ。
心臓の病と聞いた。病気の所為なのか、薬の副作用なのか、それとも、食べる事も出来ない故にこうなってしまったのか、私には解らない。ただ確実な現実として、絶対的な絶望だけが目の前にある。
「酷い有様でしょう。本当に頑張ったのよ。頑張ったのだけれど、どうしようもない事も、あるみたいなの」
「嘘です――こんなの――そんな――そんな……」
「貴女は私の為に悲しんでくれるのね」
「悲しいも、何も……」
「解るわ。タツコは何も言わなくて良い。貴女の事、全部解るもの。貴女がどんな気持ちでここに来たのか。貴女がどんな気持ちで過ごして来たのか。入院一か月で落ち着くと落ち着くと思ったのだけれど、悪化したわね。酷いでしょう、これが現実なの。まだ、口は達者なのだけれど、食べると吐いてしまうし、鼓動も弱まって来ていて、発作も短くやってくる。もう、半月も持たないわ。今こうしているのも、不思議なんだと言われたの」
「……」
「無理に話す事もない。聞いて頂戴。これが最期になるかもしれないのだから」
彼女は、自身に迫る死を目前として、平静としていた。貧困児もかくやという装いでいながら、その口調はシッカリとしており、そして威厳に満ちていた。
貧者というよりも、悟りを開いた仏陀と言った方が良いだろう。確かにどうしようもなくあるのだが、彼女は彼女の矜持を決して失っていないのだと解る。
「顔、明るくなったわ。体つきも少し変わったかしら。外に出られるようになったのね」
「――はい。まだまだ、ですが。お買い物も、食事も、外で、出来ます。他人とも、少し、お話出来るようになりました。一重に、カナメ様のお陰です」
「ふふ。まだ、そう、まだ、貴女はこんな女児に、そんな言葉を使うのね」
「カナメ様は、カナメ様です」
「実に良く出来た、私の可愛い下女ね」
「……」
「……うん。ずっとずっと、貴女の傍にいたかったわ。でも、無理だって想いもあった。私をここまで慕ってくれる貴女が、ただ絶望の中に沈み行くなんて、想像もしたくなかった……だから、ごめんなさいね、無茶を言って、顔を見せてとか、外に出ましょうなんて」
「いいえ。貴女様のお陰です」
「そう。良かったわ。タツコ、手を頂戴」
「はい」
そのように言われ、私は手を差し出す。彼女は私の手の甲を愛しそうに撫で、微笑む。枯れ枝となった彼女の笑みは、あまりにも儚い。小突いたらそのまま死んでしまうのではないかと思えて、手が震える。
「もう少し、早く一緒になるべきだったかしら。私、処女のまま死ぬわ。私を愛してくれる貴女に捧げるべきだったのに……あら、でも、流石に不味いかしら。そうよね、私、子供だもの」
「そんな――」
「タツコ」
「はい」
「私、幸せよ」
どうして。
どうして、彼女はそんなに大人なのだろうか。
いや、大人なんて曖昧なものじゃあない。彼女はあまりにも、人間として完成していた。
その人生に対する姿勢、滅び逝く自身への悟り、人に対する思いやり、残された人への気遣い、それらは例え満足な人生を送って来た人間とて、到底到達出来る領域にはないだろう。
彼女は何故ここまで完成してしまったのか。何故早熟にして滅びねばならないのか。もし寿命を定める神がいるとするならば、そいつは間違いなく糞っ垂れのゴミクズ野郎である。
「……無理かもしれないけれど、あまり、気を病んではダメよ。私は貴女の人生のお荷物にはなりたくないの。タツコ」
「はい……」
「迎えに上がれなくて、ごめんなさいね……そういえば、タツコ、もう一人、来ているわよね」
そういってカナメが視線をドアに向ける。私はどうするべきか迷ったが、カナメは小さく頷いた。ドアに寄り、少し開いてハナエを呼ぶ。
ハナエの表情は複雑だ。
「こりゃまた、酷いな。大武華江だよ。はじめまして」
「見苦しい所を見せてしまって、申し訳無いわ。加奈女よ。タツコが、御世話になっているわ」
ハナエがベッドの傍に寄り、パイプ椅子に腰かける。私は一歩引いて二人を見守った。
酷く、不自然な組み合わせだ。私が頼みにした人と、私が頼りにした人の邂逅である。
「私の事は?」
「お母様から大まかには聞いてる。全く酷い女よね、タツコは。私が入院している間、他の女を作るなんて」
「ああ、なんかヘテロからすると果てしない間違いを感じる日本語だが、現実だから仕方ないな。その、なんだ……」
「いいえ。むしろ安心したの。この子一人じゃきっと、酷い事になりそうだもの」
「達観してるな。まるで子供と話してる気がしない。タツコが頼みにするのも、解る」
「タツコ、少し席を外してくれるかしら。このヒトと、お話があるわ」
「で、でも」
「お願い」
そのように言われ、私は少しだけ躊躇ってから、部屋を出る。
廊下側の窓からは中庭が見て取れた。中庭は緑生い茂る、一種のリハビリスペースなのだろう。若者や老人が何人も見受けられる。
私の視線は中庭の端に移る。五歳ぐらいだろうか、小さな男の子と、若い看護師がゴムボールを投げて遊んでいた。目を凝らすと、その看護師は当時、私を担当していた人だと解る。小児科に移ったのか、気まぐれで子供の相手をしているのか――名前は忘れてしまった。
当時、栄養失調で余計やせ細った私を笑った人だ。だが、嘲笑った訳ではない。何事にも大らかで、気持ちの大きな人であった。
心の病を軽く見る訳ではないが、見渡して見て、自分がどれだけ恵まれているか実感するといいと、そのように言われた。
ここの別棟には終末医療施設も備えられている。彼女に付き従って、私は色々な、もう助からない人々を目にした。自分が一番この世で最も悲観すべき人生に居るという考えを、多少和らげるに繋がっただろう。
生憎そのあと引きこもってしまった為、完全に生かされた訳ではないが――安直な死という現実から逃避する事実には、繋がったかもしれない。引きこもりも、いわば防衛反応だっただろう。
私は、私が一番大事だ。
死ぬのは恐ろしいし、死ぬ間際になったって、私は生を渇望するだろう。
私の行動原理は、人一倍の生への執着なのかもしれない。
入院中、私は一人の女の子に出会った。私は声を出すのがいやだったため、会話は彼女が一方的だった。
もう治らないと言われた。でも頑張れば、なんとかなるんじゃないか。そんな話をしていたと思う。
たった一度だけの、会話にもならない会話だ。今になるまですっかりと記憶の片隅に追いやられていたような思い出である。結局彼女がどうなったのかは、知らない。私はその前に退院して、目出度く引きこもりとなった。
彼女はどうしてるだろうか。頑張ってなんとかなっただろうか。
『――もう無理なんだって。まあ、その時は、その時かな。頑張るけど、死にたくないけど――』
私は死にたくなかった。死なない為の努力といえば――自身の心を守る事だった。
しかし結局、それは出口の見えない穴倉の中で、ひっそりと死を待つようなものであったと気がつかされたのだ。
誰かに助けてほしかった。
私を守ってくれる人が欲しかった。
傍に居て、幸せにしてくれる人を渇望していた。
そして、カナメは現れた。
だがそのカナメは、今、死に逝こうとしている。
私の希望の光は、風前の灯なのだ。
「タツコ、もういいって」
ドアが開かれ、ハナエが顔を出す。
「タツコ」
私は、廊下に伏せていた。
こんな時だって、結局自分が一番だったのだ。その醜悪な精神性に、吐き気がした。
私は彼女に何一つ与えていない。
私は彼女に何もしてあげられなかった。
気持ちばかりでは何の意味もない。
彼女を救ってあげる事なんて出来ない。
そんな考えが何周もして、結局自身の生命維持に危機感を覚え始める辺りが、そのふざけた甘ったれぶりを露骨に表している。
「タツコ、立てるか?」
「私、こんな時でも、私が、一番で。カナメ様に、何もしてあげられなくて、悔しくて、でも、何よりも、彼女を失った後の自分が、一番怖くて――」
「そんなもんだよ。全身全霊で他人様の事考えてやれる奴なんかいやしない。ほら、立って」
ハナエに肩を借りて立ち上がる。私は私がどんな顔をしているのか解らなかった。
改めてカナメの前に立つ。私はただ、頭を下げた。
「ハナエ、タツコを宜しくね」
「まあ、程ほどに」
「タツコ」
「――はい」
「今日は有難う。顔を見れてよかったわ。それと、お見舞いはこれで最後にして」
「えっ……あ、そ、そんな」
「これ以上は、きっと喋られないわ。寝たきりの私なんて、貴女は観たいかしら」
「でも」
「私は、幸せな記憶とともに滅び去るわ。貴女も、そんな女の子が居た程度でいて頂戴。辛くなったら、ハナエに縋りなさい。貴女は、弱い子だから。きっと罪悪感ばかり抱えて生きるのでしょうから」
全部全部、見透かされているのだろう。私の浅はかさを知りながら、それでも優しくしてくれるのだ。
十歳の彼女は間違いなく突然変異であり、故に刈り取られる魂なのかもしれない。
「じゃあ、ね」
これ以上会話を続けさせない為か、カナメは布団に潜り、目を閉じてしまった。それを無理矢理起こすなんて真似は私には出来ない。私は、常に彼女の掌の上だ。
「タツコ、行こう」
「カナメ様……」
「……」
「カナメ様――」
……。
……。
せっつかれ、病室を出る。私は殆ど上の空だった。
病室を出てからハナエの家に戻るまでの記憶がイマイチ薄い。
気がついた時には、私はソファの上で天井を見上げていた。脳が、考える事を否定したのだろう。考えれば考える程に、心労はまして行く。引きこもりの切欠となったあの出来事以上に、思い返せば思い返すだけ、胸が締めあげられて英気を絞り取られるような気がした。
「ハナエ」
「んー?」
「どのくらいの駄目さ加減までなら、許容してくれるかな」
「ものによるな」
「じゃあ縋っても良い」
「それは勿論」
「じゃあ頼りにして良い」
「いいよ」
「依存しても?」
「度合いによるかな」
「なんかもう、なんか、何も、考えたくない……ハナエが居なかったら、とうに死んでるかも」
「お願いだから心配されたくて自傷するとか、メール一日五百件とか、そういうのは勘弁な」
「なにそれ、面倒くさい。痛いの嫌い」
「そういうアンタで安心したよ」
「ああでも――死にそう。死ぬかも。私死ぬかも」
「あのなあ……――じゃあ死んでみるか?」
「え?」
ハナエは真顔で、そのような事を言う。私は意味が良く分からず、目を瞬かせた。
ハナエが胸ポケットから小さい袋に入った何かを取り出す。それはカプセルに見えた。
「昔裏側のアレで見つけて二つ購入したんだ。一錠でスッキリ一発でイけるやつ」
「……薬事法違反なんじゃ……」
「死ぬ人間がそんな事気にすると思うのか、アンタは」
「それも、そうだけど。でも、それ、何?」
「だからスパッと死ねる奴だ。ほら、一錠やる」
袋からカプセルを取り出し、彼女は私の掌に乗せる。おもむろに立ちあがった彼女は、暫くの後にお酒の入った瓶とコップを持って現れた。
「なんで、こんなもの」
「何時でも死ねるって思うと、案外世の中楽になるもんだ。今は必要ないが、お守りみたいに持ち歩いてる」
「卑屈な前向き」
「ほら、飲みなよ、死ぬんだろう」
コップになみなみ注がれたお酒を寄こされる。私はカプセルとハナエの顔を往復して見る。
……本気で言っているのだろうか。
「死にたいんだろ、早くしろ」
「あ、や、あの――わ、私は――」
「アンタの信奉する神は死ぬ。それは間違いなく確定事項だ。そしてアンタはその支えを無くし生きる意味を失うという。じゃあ先に彼女が死ぬかアンタが先に死ぬかなんていうのは瑣末な問題だ、現実は揺るがない。首を吊る訳でも電車に跳ねられる訳でもないんだから、痛く無く済む。ぐでんぐでんに酔っぱらってたらそれこそ楽だろうさ。ほら、死になよ」
「で、でもそれじゃあ――ハナエが、捕まっちゃうでしょう」
「そりゃないね。私もあと追うから」
「な――なんで。貴女は、死ぬ事ないでしょう」
「え、やだよ。お金幾らあっても、アンタが居ないんじゃ」
――私は、暫くの沈黙の後、テーブルに薬を置く。ただ手元のグラスからお酒だけをあおった。
強すぎる。喉が焼けるようだった。
「うげっほ、げほっ……なにこれ……」
「うわ、んな度数の酒一気に行く奴があるか――水飲んで吐け、それこそ自殺だぞ」
「死なす為に寄こしたんでしょ!!」
「飲んだの酒だけだし、そんなもんただの風邪薬に決まってんだろ!! 飲んでから言いやがれ、へたれ女!!」
「――う、ううう……えぇぇぇ……」
ハナエに無理矢理引っ張られ、思い切り水を飲まされ、トイレにぶち込まれる。
自分から喉に指を突っ込んで吐くのは、過食の時以来だった。何度か指を入れていると、胃から朝食が込み上げる。
強いアルコールと胃液が喉を傷つけるのが解った。
洗面所で口を濯ぎ、表に出る。ハナエは疲れた顔をしていた。
「粘膜から吸収した分は酔っぱらうだろうな。水飲んで寝てろ」
「なにそれ」
「……何が」
「……なんでそんな試すような事、したの」
「どれぐらいアンタが命を軽んじてるか知ろうと思ったんだよ。相変わらずのヘタレで安心したが」
「――」
「……なあ。タツコ」
「何」
「好き。愛してる」
「今、言う事なの?」
「カナメと話したろう。私は、あの子から、アンタの全部を預かった」
「私、貴女の所有物じゃない」
「そうか。なら、落ち着いたら出てってくれ」
目を、見開く。
何か今、最も聞きたくない言葉を聞いたような気がするのだ。
「何、それ。出て行けって」
「言葉の通りだよ。もうウチ来るなよ。預かりはしたが、守る義理なんてないんだ」
「――そ、そんな。ま、守って、くれるって――」
「私の勝手だろう、そんな事。アンタは外に出られるようになったし。大人なんだから、一人でなんとかしろ」
「私の事――嫌いになったの」
「アンタは私を好きじゃないだろう」
何一つ、反論出来ない。震える手を抑え、私は視線を逸らした。
そもそも、彼女が義理だてする理由は何一つないのだ。
私の助言で投資が成功して、成り上がる元手が手に入った、ただそれだけであって、以降彼女が幸福を手にするまでの経緯に、私が関わった訳ではない。
彼女は自ら現れて、私の世話を焼いた。私のワガママを全部聞いてくれた。好きじゃ無くても良いから、傍に置いてほしいと言った。
そうだ。
繋がりなんてものはほとんどない。
いや、現実に、どれだけ互いを好きあっていようと、契約の無い間柄など、そんなものなのかもしれない。
私はハナエを頼りにした。今の私があるのは、彼女が飽きず私に付き合ってくれたからである。
私はハナエに恩義を感じつつも、何一つ返してはあげられないでいた。身体を重ねたのだって、彼女の望みではなく、私が慰めを欲したからである。
……あの日から毎日、私はハナエに慰めを求めていた。ハナエの手つきは優しくて、キスは温かかった。こんな面白くも無い身体を愛しいと彼女は言ってくれた。耳元で何度も、好きだと言われた。
それに対して、私は何も返してあげていない。
私はハナエに頼るだけ頼って、彼女を何一つ満足させてあげていない。
元はハナエが迫った関係だが、許容すればそれは同意である。そこには責任が生じる。
私は義務を果たしていない。
つまるところ、ハナエが一方的に関係の清算を求めた所で、私の反論など実もない虚しい無責任者の遠吠えなのである。
「う、嘘。や、やだ。は、ハナエ?」
だが……私の精神というのは、ハナエという支えあってこそ、ある程度の平静があるものなのであると、実感させられている。カナメが死に、ハナエの支えが無くなった場合、その先に待ち受ける私の絶望は、ただ自身の心の中をグルグルと回り続け、澱を溜めこみ続けるだけなのだ。
防衛反応が働く。
私は誇りなど無く、恥も外聞も無く、猫なで声で、ハナエに縋りついた。
「う、嘘。嘘っていって。ハナエ――わ、私。ね? な、何でもする、何でもするから――」
「白々しい」
「さ、支えてくれるって、守ってくれるって――い、言ったじゃない。私、だから、あ、安心して――あ、貴女がいなかったら、ど、どうすれば、いいの。お、お願い、取り消して、お願い――」
「お断りだね」
「そんな、そんなぁ――嗚呼、やだ、す、捨てないで。貴女が望む事なら、何でもするから……」
「――本当に?」
「ほ、本当! 本当、絶対嘘なんてつかない」
「じゃあ、私の事、好きだって言ってくれる?」
「言う。好き、ハナエ、好きよ?」
「どのくらい好き?」
「す、すごく好きよ。貴女がいなければ、私、い、生きていけないもの。さ、寂しいでしょう? わ、私が傍にいるわ。一緒に、幸せになりましょう?」
「『カナメ』よりも好きかい?」
その、質問は。
果して正常な精神をした人間として、許されるものだったのだろうか。
生命を預けた愛すべき彼女よりも自分を好いているかという質問である。彼女だって解りきった事である筈だ。それを、あえて、今この場で、告白させる気なのか。
いや、いや、いや。
私がハナエを振りまわしたのだ。彼女から来て、私から依存したのだ。私だってハナエは好きであるし、好きだという言葉自体に嘘はない。だが、カナメよりもと比べられた場合はどうだ。
――ハナエの片頬が、少し引きつっているように見える。
嗚呼、そうなのだ。
ハナエは、今、私がどのような状態で、どこにも逃げれない事を全部知っていて、口に出させる気でいるのだ。
賢しい女だ。怖ろしい女だ。
「――あ、う」
「どうなの、タツコ」
「は、ハナエ、ハナエが……一番好き」
ハナエの顔が綻ぶ。これまで、見た事のないような優しい笑顔だった。逆に、その裏が疑わしくなる程の、私好みの、素敵な顔だ。
肩を抱かれ、唇を奪われる。私は否定する事もなく、口を開き、歯を退けた。同時に彼女のざらつく舌が入ってくる。
「はっん、くっ――んっ」
いつもより強く、息が荒く、激しい。
吐いたばかりなのに、などと考えてしまう。それは、恥ずかしさというよりも、彼女に嫌がられないかという配慮だった。私の精神は、自身を守る為に、ハナエを選択しようとしている。
カナメは自分を気にするなと言い、ハナエは全て預かって来たという。もしかすれば、この選択はカナメの望み通りなのかもしれない。
しかし、何につけても私の事しか考えていない私は、どうあってもクズである。
「解った。じゃあ、ずっと傍にいてよ。一杯愛したげるから。ほら、服脱いで」
「や――あ、で、でも。ふ、服は――」
「……」
「ぬ、脱ぐ」
「うん。良い子」
ハナエは嬉しそうだった。
酷く酷く、嬉しそうだった。