日々1
『日々』
世界との隔たりを感じたのは小学生の頃だった。
私はその頃から身が細く、骨と皮ばかりが目立ち、クラスメイト達からは薄くて平たい五十センチ定規のようだと罵られ、両親からは病気を疑われ、教師からはネグレクトを心配された。
元から太らない体質のようで、それは中学生になっても変わらなかった。生理も来るのが遅かったし、二次性徴期特有の女子の肥満も、私にはむしろ羨ましく思えたものだ。
体型の変化が収まる高校生になってからは、その身の細さを女性に羨ましがられる一方、男性としては魅力を感じられない身体らしく、好きだった男の子に『棒きれが歩いているようだ』と陰口を叩かれて以来、私は過度な食事を取るようになった。
過食と嘔吐を繰り返し、気がついた時には病院だ。
胃液で喉が焼け、しわがれた声を自分で聞いた時、私は二度と喋ろうとは思わなかった。
以降、学校には行かず、家に引きこもったままだ。
社会に悪意など無く、世界は自分など気にしていない。そんな事は百も承知だ。ただ私はもう、人に見られたくはなかった。家にやってくる宅配便になどもっての外、両親もここ一年顔を見ていない。
両親の実家は裕福で、自分達が住んでいるマンションの一室を購入したのも二十代だ。
私の部屋は直ぐベランダに出られるようになっていて、隣の部屋ともベランダは繋がっている。そこは既に木材とダンボールで塞いであるので、そちらから両親が来る事はない。
誰にも会わない環境が構築され、父は殆ど諦めている様子だった。しかし母は懸命で、食事を持ってくる際は必ず五分程度、ドア越しに会話をするように努めてくれている。
母は私と違って、とても女性的な身体をした人だ。
胸が大きく、私を産んだ後も体型維持に必死だったようで、ウエストは引き締まり、お尻も魅力的らしく、良く親戚の人達に安産型であると言われながら、苦笑いしていたのを、良く覚えている。
そして続いて紡がれるのが、私への罵りである。その都度母は怒っていたが、その表情はどこか諦めにも似たものが混じっていただろう。
私はどんなに頑張ろうと太らないし、生理も不順だ。胸などまな板か洗濯板か、ストンと落ちた先には肋骨がある。皮から浮かびあがるそれを見る度に憎らしく、私は自分の身体をじっくり観察するような真似はしない。元から体毛も薄く、下腹部どころか脇も生えた覚えが無い。
起伏はなく体毛も少ない身体は、まるで蝋人形かフィギュアである。苛立たしく、風呂場の鏡は割ってしまった。
自身の姿を確認するものは部屋にはない。きっと頬もコケ、貧相な有様だろう。
ただ、肌が真っ白、という程ではない。日光には当たるようにと母に言われ、私は一日一時間、必ず外に出るようにしているからだ。
今日もその時間が迫っている。
私はベランダの戸を開き、雨戸を引き下げる。人が二人並ぶのがやっとの広さしかないベランダに出ると、据え付けてある白塗りのガーデンチェアに腰かける。
時刻は午後一時。秋の空は雲一つなく、宇宙が透けるようにして蒼い。
このベランダこそが、私にとって唯一の外界との接点だ。
閑静な住宅街にあるマンションの一室だ。昼間の音と言えば、子供がはしゃぐ声や、遠くからのテレビの音、時折聞こえる不愉快な50ccオートバイのエンジン音程度で、騒がしさはない。五階のここから人の姿が目に映る事も無い。外に出ると言っても、このベランダは所詮ベランダで、外の世界とは言い難い。
しかしこれでも進歩したのだ。
以前は陽の光すら嫌だった。理由は『代謝が良くなりそう』だからである。
母がわざわざ買ってきた椅子に腰かけながら、青い空を望む。
時折視界の端に映る鳥や飛行機を目で追いかけ、また戻してはぼんやりと一時間を過ごす。
貧相な身体に宿った貧相な発想しかない私には、それ等に何かしらの文学的要素を感じたり、インスピレーションを齎されたりするような事も無く、ただ作業としてこの一時間を受け入れている。
外はまだ恐ろしい。
人の視線が怖い。
喋った声がまだしわがれているのではないかと不安になる。
彼等彼女等は、きっときっと私なんてものを意識しないに違いない。そもそも、当時通っていた学校でも、否定的に扱われていた訳ではない。あの男子生徒とて、ネタの一例として私の名を上げただけだろう。
全部解っている。
みんな私には興味なんてないし、嫌悪感なんて持っていない。
私の一挙動を気にしている奴なんていうのは、それこそ母のみだ。
解っている。
それでも、私には外に踏み出すだけの勇気が、自信が、身体が、無かった。
いつものように、白痴が如く空を見上げていると、やがて隣の部屋のベランダ戸が開く音がした。時刻は一時半だ。この時間になると、隣に住んでいる家族の娘が一人でベランダにやってくる。
その子はあまり身体が強い子ではなく、しょっちゅう早引きをして帰ってくる。四時間で授業を終えるのだという。
「いるの、竜子」
火災時の避難用隔て壁越しに、少女の声が響く。透き通っていて、小鳥がさえずるような声だ。
彼女が呼ぶ強そうな名前は私の名前だ。祖父がつけたのだが、私では竜ではなく、精々肋骨の浮いたタツノオトシゴである。
「はい、神奈女様」
「私が出て来たら、ちゃんと挨拶なさい」
「済みません」
強い口調で今年二十歳になる私を叱りつけるのは、カナメという小学校四年生、十歳の少女だ。この数年で久しぶりに出来た、肉のある知り合いである。
友人と言えば専ら顔を合わせない、向こうに人がいるかどうかも怪しいSNSやチャット、ネットゲームでの友人である。自身を晒す必要が一切ない為、コンプレックスを抱える私としては有難い。それが社会的なコミュニケーションと言えるかどうかは別として、少なくともその薄っぺらい精神性を保つだけの役割は果たしてくれている。
しかし隣に住むカナメは、実際に声を出さなければ会話が出来ない。キーボードでは喋らないのだ。
「今日は天気が良かったわね。少しはしゃいだら、直ぐ具合が悪くなって、まったく不便な身体だわ」
「御自愛くださいませ」
彼女と滑稽なコミュニケーションを交わすようになったのは、今から三か月ほど前の事である。
暫く空き部屋になっていた隣の部屋に越して来たのは、母と子の二人だ。
お世辞にも安くはない家賃であるから、その家の年収を気にしてしまうのは仕方が無い事だろう。
当然外には出ない私の情報は全て母からである。母の話では、髪が茶色で、化粧が濃く、明らかに夜のお仕事をしている人だという。ただ、色眼鏡を掛けて見ても、偏見に満ちた視点から観察しても、うちの母曰く相当の美人であるらしく、隣の部屋も『パパ』に買ってもらったのではないか、という事だった。
そんなお水の女が引き連れていたのが、この加奈女だ。
いつものように日課としてベランダに出ていたある日の事、左隣の部屋のベランダ戸が開け放たれた音を聞き、私は身構えた。聞こえて来るのは母子の声だ。
『今日からここで暮らすのよ。カナメはもう十歳だから、大人のレディだもの。一人で留守番も出来るわね』
『当然じゃない。ママは何も心配しなくていいわ。ママは忙しい人だもの』
『理解のある娘で助かるわ。ああでも、ここは五階だし、ベランダに出る時は気をつけてね』
『ええ。生憎低身長なの、ここは超えられないわ』
『ふふ。じゃあ、お隣さんに挨拶してくるから』
あまりに異質な会話に、私は耳を疑った。
会話内容自体は精査する必要も無く単純明快なのだが、十歳の娘は口調が妙に大人びており、演技がかっている。不思議な家族も居たものだなと、その日の日記に書き記したのは記憶に新しい。
その日から毎日、カナメは学校から帰ってくる度にベランダに出ている様子だった。
子供とはいえ相手は人間、私は恐ろしくてしかたない。外に出る度に、あちらが出てくるタイミングが被らないようにと願った。
しかし、流石に毎日同じような習慣を持っていたら、被らない方が不自然だ。私が日光浴をしていると、とうとうそのタイミングが訪れる。
私は隣のベランダ戸が開く音を聞いて身を固くした。自分は石像であると自己暗示をかけ、決して動かないようにと努める。
けれども、私という人間はやはり上手く出来てはいない。そんな時に限って大きなくしゃみをしてしまった。同時に、隔て壁の先から物音が聞こえて来る。
『誰かいるの?』
当然私は答えない。子供でも人間との会話は恐ろしい。
『答えてよ。居るのでしょう。そっちに乗り込むわよ』
乗り込むのだけは勘弁してほしかった。どうあってもそれは避けたかった。顔も身体も観られたくなどない。それならば、しわがれているかもしれない声を出した方がマシである。
『はい』
『いるじゃない。お隣さんね。最近越して来たわ、カナメよ。宜しくね』
『……タツコです。宜しくお願いします』
『何よ、大人っぽい声ね。年上よね、当然。他の大人と態度が違うわ、何している人?』
『何もしていません』
『聞いた事あるわ、趣味でも強要された訳でもなく、家の中に居る人っているらしいし。貴女もその類かしら』
『御推察通りです』
『ここで何してるの』
『日光浴を』
『家の中にばかりいると、腐るものね。殊勝な心がけよ、タツコ』
『有難うございます』
『ここが貴女にとっての外の世界なのね』
本当に不思議な子だった。
突然話しかけて来たかと思えば、母親と会話するような調子を崩さず、私と対話する。とても年不相応な物言いと、年相応の声が酷いギャップを生み、私の中に不思議なカナメ像が形成されて行く。
それから三か月、私達はベランダでこのような実の無い会話を繰り返している。
立ち場として、常にカナメが上だ。私は彼女が学校で得て来た情報を有難く賜る立ち場にいる。年が十歳離れていようと、外に出ている彼女の方が断然偉いからだ。私はそんな卑屈な状況を、思いの外納得して受け入れている。
「ねえ、タツコ」
「はい、カナメ様」
「そろそろ、顔ぐらい見せてくれても良いんじゃないかしら。平安貴族の女性だって、三か月も男に迫られて毎日会話をしていたら、チラッと見せてくれるそうよ?」
一体どこで得る情報なのだろうか。小学四年生にしては高尚で、そもそも私にはそれが正しいのかも解らない。
彼女というのは実に不可思議な少女で、ゲームやアニメ、漫画と言った小学生が好みそうなものを一切知らない。母親に止められいるのかと思いきや、むしろ母はそれを買って来ては与えるものの、本人が好んで読んだりはしない様子だ。
会話の内容は専ら学校での出来事と、恋愛と、人の死生と、哲学にもならない答えの無い問答だ。
私も彼女も、未だ顔を合わせていない。カナメが覗こうと思えば、当然いつでも覗ける距離にある。隔て壁ギリギリに椅子などを置いて、ひょこっと顔を出すだけで、私の顔は窺えるだろう。
けれど彼女は私が本当に嫌がるような事はしなかった。
「ごめんなさい、カナメ様。私は醜女で、枝のようにか細い身体です。とても人様にはお見せ出来ません」
「それは私が判断する事じゃないかしら。話では、貴女は自分の家の鏡を割ったそうね。もう、暫く自分の顔も観ていないのでしょう?」
「貞子を知っていますか」
「ああ、昔のホラームービーね。リメイクやオマージュが沢山あると聞いているわ、母から」
「正しくあのような姿です。カナメ様に怖れられてしまっては、私は一体誰とお話すれば良いのでしょう」
そこだ。
私はこんな状態を、今や楽しみに、それどころか生き甲斐にしている。相手は顔も観えない十歳児だが、それは確実に肉を持った人間であり、ここは外であり、会話はコミュニケーションであり、これは社会なのだ。
今のところ、私にとっての社会はここにしか存在しえない。もしカナメが私の容姿を恐れて、二度とベランダに出てこなくなるような状況に陥ったとしたら、それは相当の後悔となる。
「いじらしい子ね。そんなに私に嫌われるのが嫌なの? たかが十歳児よ」
「たとい世間が貴女様を十歳児の子供と罵ろうとも、私にとっては掛け替えのない女性です。どうか、御容赦ください」
「私は悲しいわ、タツコ」
それにしても、今日はヤケに食い下がる日だ。聞き訳が良いという事もないのだが、一度嫌と言えば直ぐ引き下がるのが常であっただけに、これは意外である。
なんだか久しぶりに心臓が激しく動いている。今にでも、カナメが隔て壁の脇から顔をひょっこり覗かせてくるのではないかと思い、私は腕で顔を隠す。
「ねえ、タツコ」
「はい」
「貴女が自分の容姿を気にして、外に出なくなったのは聞いたわ。そして貴女が、そんなものは誰も気にしていないという認識を持っている事も、聞いたわ」
「はい、そうです」
「私が言うのもなんだけれど、このままではずっと変わらのではないかしら。タツコ、貴女は変化が恐ろしいの、それとも今に満足しているの?」
「解りません。少なくとも、貴女様とお話している時間が、私にとっての全てです」
「あら、嬉しい事を言うのね。でも騙されないわよ。ねえタツコ」
「はい」
「私はまだ十歳だわ。大人になるにはまだしばらくかかるの」
「左様ですね?」
「悲しくも家の中でしか生きられなくなった貴女を迎えに行くには、もう十年は必要だわ。その間もずっと引きこもっているのかしら。十年は長すぎやしないかしら。私が迎えに行くまでに、貴女はもう少し外に目を向けられないのかしら」
「――それは、その、どういった意味でしょうか」
不覚にも、顔が赤くなってしまった。
こんな子供に迎えに行く、などと戯れに言われて、乙女が如く胸を高鳴らせるなど、人間としてどうかしているとしか言いようが無い。挙句彼女は女の子だ。
引きこもりすぎて感性が壊れてしまっている、そう判断されるかもしれないが、こんな気持ちを他人に抱くのは初めてだ。
頬を撫で、鼓動を抑えるようにしていると、やがて、隔て壁の隙間から、小さな手が出て来る。
手を伸ばして、その小さな手を握り締める。
「周りの人が、貴女の父が、どんなふうに言おうとも、私はずっと貴女の味方よ。いきなり変われなんていうのは酷だわ。けれども、少しずつ外へと眼を向けるよう、努力しましょう。貴女は私の可愛い下女よ。そしていつか、私に顔を見せて頂戴――ああ、そうそう。これ、わざわざ電気屋さんのプリント機で印刷してきたの、携帯写真」
一度手が引き下がり、次に出て来た時、そこに握られていたのは一枚の写真だった。
正面から撮られたもので、撮影者は母だろうか。
受け取って眺めた瞬間、私の呼吸が止まる。
「どうかしら、良く撮れているわよね」
「……カナメ様、ですか」
「そうよ」
「お美しゅうございます。本当に、見惚れるほど」
茶色がかった長い髪を前で切り揃え、お嬢様のような白いワンピースを着ている。撮影は夏だろうか。うっすらと日焼け跡が残っており、年相応のヤンチャさが見て取れる。
大きな目に長い睫毛、主張しすぎない鼻に、ピンク色の唇にはリップがひかれている。
しかしながら……そんな美しい容姿があっても、その身は異常に細い。
十歳にしては妙に肉付きが悪く、脚などまるで腕から移植したようだ。
その痩せ具合がどこか自分に似ており、私は虚しくなる。
「生まれつき心臓が悪いって話したわよね。あまりはしゃげないのよ。食べていない訳ではないのだけれど、食も細いったらないわ。一度ドカンッと食べてみたい」
「カナメ様には似あいません」
「願望よ願望。それで、どう?」
「どう、とは」
「貴女の主人は貴女の眼鏡にかなうかしら。好ましいというのなら、直接見せてあげてもいいわ。当然、同時に貴女を見る事になるけれど」
「それは、その」
「貴女が一番信じているのは誰かしら」
「……母と、貴女様です」
「そうね。母は大事だわ。私も母が大好きなの。でも、母は身内よ。なんだかんだと、家族が一番可愛いの。だから、客観的な評価は下せないわ」
「――はい」
「私は他人よ。まず一番最初の他人から、評価を受けて見たらどうかしら。それが貴女の自信につながるかもしれない」
言葉に詰まる。理路整然と語る彼女の論理的思考が、とても子供ではない。勿論彼女自身の打算も見受けられるが、話の流れとして自然であった。まさかこんな所に誘導されるとは、私も考えなかった。
直接『主人』の御尊顔を拝んでみたい。今はただ、手を握る事しか出来ない小さい彼女を、この薄い胸板の中に収めて見たいと、そんな欲求が持ちあがる。
自分はきっと間違った存在だ。今初めて顔を知った、隣に暮らす幼女に、畏怖と尊敬を抱いている。それは家族に抱くようなものではなく、確実に他人、人様に対する気持ちだ。
三ヶ月間毎日、こうして語り続けたカナメという少女が、一体私のどれほどの割合を占めているかなど、解りきった事である。
引きこもりでレズビアンで児童性愛者など、お笑いにもならないが、私にとっての救済は彼女だ。
「少し、考えさせてくださいまし。タツコは、弱い人間故」
「知っているわ。だから、私を強い人間にして。弱い貴女を守れるような大人になりたいの。貴女を守るという決意が出来るだけのものが、欲しいのよ」
「勿体無いお言葉です」
「タツコ。私の可愛いタツコ」
「……はい」
「また、明日ね」
そういって、彼女は部屋の中に戻って行った。
気持ちはある。前向きになろうという意思だって、無い訳ではない。ただ、その一歩が、その他人の、あの子に、否定されてしまったとしたら。否定しないまでも、否定する事を我慢されてしまったとしたならば、きっと私は二度と立ち上がる事が出来ないだろうから。