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年頃の娘は父親を嫌う。
嘘か本当かは分からないが、科学的には父親に襲われないための防衛本能が
遺伝子に入っているのだとかいないとか。
それは高校二年生の竹中千恵も例外ではなかった。
父親の俊郎は爽やかで歳のわりにイケメンで……
というわけではなく少し汚いどこにでもいるくたびれたおじさんである。
一方で母親の比奈子は千恵が小学生のときに他界している。
母親は強くて優しい人だった。千恵は子供ながらそんな印象をうけていた。
玄関で千恵が靴を履いている。
「いってらっしゃい」
俊郎が優しく声をかける。
「………」
ガチャン。虚しく扉が閉まる音だけが残される。
完全に無視である。
千恵は学校終わりの空いている時間にアルバイトを始めた。
まだまだ新人で怒られることばかりだ。
そんな千恵がバイトから帰ってくるのは九時半ごろである。
それに対し俊郎が仕事から帰宅するのは八時半頃。
千恵が帰ってくるまでに夕食の準備を終わらせる。
そして絶対に先に食べることはしなかった。
九時半過ぎ。玄関の扉が開く音がした。
「あ、おかえり」
「………」
「ご飯たべよっか」
それに対して小さく頷きはしてくれる。
最近ようやく俊郎は、この頷き具合で千恵の機嫌が分かるようになった。
そして観察の結果、今日はご機嫌斜めのようだ。
そんな千恵にいつも通り俊郎は話しかける。
「今日の料理は美味しく出来たよ」
「……」
モグモグと眉間にシワを寄せながら食べる。
不機嫌なまま食べているが、千恵がご飯を残したことは一度もない。
それだけで俊郎は幸せに思えた。元気にご飯を全部食べてくれる。それだけで良かった。
千恵は立ち上がり食器を台所にもっていく。
「千恵、ごちそうさまは?」
そう言われて、千恵は出来るかぎりの小さな声で「ごちそうさま」とつぶやいた。
その後何も言わずに自室に篭る。夕食後俊郎はリビングでテレビを見て就寝時間までを過ごす。
こんな毎日がもう二年も続いていた。
就寝前、いつも通り俊郎は妻の仏壇の前で手を合わせる。
(今日も千恵は怒っていました。今日も話せませんでした。
千恵と話がしたくて千恵の好きなサッカーを勉強しました。
でも、話しかけるタイミングをつかめないままご飯の時間が終わってしまいました。
思春期だから仕方がないとは思いますがすごく悲しいです。
でもいつかはまた笑って過ごせる日が来てくれると信じています)
チーーーン。と鳴らし終え一日を終える。
***
いつものように帰宅した夜、玄関で俊郎はカバンを落とした。
廊下に血が落ちていたからだ。
その血は洗面所から廊下を伝ってリビングまで続いていた。
「千恵…?」
俊郎は取り乱さないように努力したが、どうしても声が震えてしまった。
廊下の先のリビングでテレビを見ている千恵の後ろ姿が見えた。
「………」
千恵からの返事はない。しかし確かに血痕は千恵のすぐ隣まで続いていた。
「千恵……?この血誰の血だ?」
靴を脱ぎ捨て、隣まで来てから静かに問いかける。
「………私以外の誰がいんのさ」
そう言う千恵の腕には血が流れた痕があった。
「どうした?切れたのか?」
それを視認した俊郎は焦りながらも冷静に問いかける。
それに対し
「切れたんじゃないよ。切ったの自分で」
諦めたような表情をして答えた。
怒られると思った。普段はちょっとやそっとのことでは怒られないが、こういうことには厳しい父親だ。
だから千恵は観念してそういう表情を作ったのだ。
「なんでだよ。なにがあったんだよ」
しかし俊郎は怒らなかった。怒らないどころか、心配した声だった。
それが千恵にとっては意外なことで、結果として思わず口を滑らせた。
言うつもりはなかった。甘えるつもりも、ましては心配させるつもりもなかったのに。
「……ごめんね。おとん。もう死にたいんだ」
死にたいと吐き捨てた。口に出したらますますその気持ちが強くなる。
体に力が入らない。俊郎の顔を見れなかった。たぶんきっと、悲しい顔をしていると思ったから。
案の定、想像した顔から発されるであろう声色。
「なんでだよ…。そんなこと言わないでくれよ」
千恵はぼんやりとつけっぱなしのテレビを見つめている。
「……学校でね。私いじめられてんの。ごめんね。こんな普通じゃない子供で。
ショックだよね?今日もね。おとんが作ってくれた弁当、一口も食べてないのにゴミ箱に捨てられちゃった
ごめんね。最近。本当は食べれてなかったんだ」
乾いた笑いが漏れる。こんなくだらない話、笑いでもしないとやってられない。
しかし俊郎がそれを聞いて笑うはずもないので、千恵は仕方なく自分自身を笑ってみせた。
「弁当って、お前そんなの今はいんだよ。いくらでも作ってやるから。
とりあえず止血しないと……」
「血はもう止まってるからいいよ」
俊郎は救急箱から絆創膏を取り出して傷口に貼る。
「それでお前いじめって…」
「いじめだよ。最近テレビでよく見るじゃん。まさか自分の娘がって思わなかったでしょ?
でも現実はこんなもんなんだ」
「とりあえず明日は学校休もう。お父さんも仕事休むから」
「……ダメだよ。そんな急に休んだら会社に迷惑かかる」
「娘が死にたいって言って仕事できる親がどこにいるんだ」
あっ……やっぱり怒られた。と千恵は思った。