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いつかまた、アウステルリッツで  作者: Raise
#1 今日のなかの昨日と明日
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1-4

 立ち昇る血の臭いさえ我慢すれば、居心地は悪くなかった。手で指示された通り、ガーディナーはスプリングの飛び出たソファに座りこんだ。元は意外に高級品だったのか、身体がぎゅうと奥まで沈み込んだ。彼はまたくっくと笑って、お茶を飲むかと尋ねた。

「いらない。お茶を飲むのは、贅沢な人達だけだから、ぼくらは飲んじゃいけないって」

「誰にそう教えられた?」意に介さず、彼は崩れかけた戸棚から紫の瓶を出す。カンテラを点ける。

「おかあさん。貧しい子どもは、お茶を飲んじゃいけないんだって」

「じゃあ今日だけは、お金持ちの子供になればいい」

 目が悪いのか身体全体に力が入らないのか、葉をすくった匙の動きが安定していない。手伝おうと言い出しかけたが、止めた。どことなく、錬金術師には自分の領分を犯してほしくなさそうな振舞があった。背中をこちらに向け、極力手元を見せないようにしていた。

 ねじまがった背骨と狭い肩幅では、隠しきれない。

「どうしてぼくを入れてくれたの?」

 水道の蛇口をひねる。ケトルの底を満たす音が、初めは高く、次第に鈍く小さくなる。

 ガーディナーの握る掌に、いつの間にか汗が染みだしている。自分の現在の身の上で、こういう不可解な招きを全面的に信用するのは難しかった。<あいつら>のことを、思い出さないわけではなかった。

「寂しそうだったから」

「ほんとうにそれだけ?」

「それだけだよ。それ以上に、人が部屋に客を招くのに、必要な理由があるかい?」

 火の点く音。カンテラの炎が左右に揺れ、そのたびに影もまた揺れ動く。ガーディナーは言葉に詰まって、曖昧に笑った。声を出すでもなく、ただ唇を曲げるだけ、瞳に仮初の温かさを宿すだけの、微笑と無表情のはざまにある笑い。

「そういう笑い方をする人間は」

 沸騰したケトルを外しながら、彼は再び背中を向ける。

「嘘付きの笑いだ」

「ぼくは嘘付きじゃない。だって、ぼくは何も言ってないもの」

「そりゃあそうだろう。だけど、そんなふうに笑って何も答えないのは、嘘をついているのと同じさ」

 言葉こそ心を突くものがあっても、包帯の下の眼差しはあくまで優しい。小さなともしびを頼りに、彼は戸棚から紅茶茶碗を取り出す。ソファから身を持ち上げる。枠の歪んだ木の時計は、そろそろ彼の仕事時間を指そうとしている。今から帰っても、間に合うかどうかは怪しかった。

「君が知られたくないなら、それでいい。したいように、していい」

「どうして? どうしてぼくはここにいていいの?」

「だって君はお客様だもの。それだけさ」

「お客様なら、ぼくにだっているよ。今日だって、待ってるんだ」

 彼は目を細めた。首筋のところに、じっと眼差しが注がれるのが解った。相手の視線が焼きごてにさえ思えて、ガーディナーは思わず手で傷痕を隠す。ばればれだった。隠さないほうがよかった。相手の椅子の布には、赤黒い染みがいくらも出来ている。今もじんわりと広がっている。わざわざ洗い直すのも面倒なのだろうし、不衛生で病になる身でもない。

 二人の間の紅茶は、いつまでたっても飲み干されないまま、ただ湯気だけを上げていた。

「居たいなら、いつまでだってここにいていい。いつまでだって」

 ガーディナーは、緋色の水面に映る自分の顔を見ていた。ふいに、その上を雫が落ちた。

 <あいつら>のことを、どう話せばいいのか解らなかった。その頃のガーディナーには、自分が何をされているのか理解出来なかったし、記憶だって曖昧だった。ただ、<あいつら>が満足気に帰っていった後の自分の身体が、ひどく汚いらしいのは、母親の態度から解った。卑屈な表情をした母が、薄汚れたタオルで自分の身体を必死に擦る姿が、痛ましかった。エプロンドレスのポッケに鳴る金貨の音が、耳触りだった。<あいつら>の晩のあとは、身体が地上に居ながらどこまでも水面下に引きずり込まれていくような、そんな疲弊感だけが残された。そうした夜の次の朝は、決まって人々が自分の噂話をしているのが聞こえた。

 水面の揺れは、ずっと止まらなかった。

「ぼく、帰らなきゃいけないんだ。<あいつら>の約束に、遅れちゃう」

「<あいつら>は優しいのか?」

「ううん。……すごく痛いんだ。自分のやりたいことを済ましてからは、やさしいけど」

 彼が茶碗を口元にもっていくのと同時に、顔の包帯から赤い筋が流れ出し、滴となって落ちた。受け止めた緋色の面に、一瞬だけ波紋が広がった。

「痛いのは、おれも同じだね」

「おじさんのほうが、痛そう」

 まだおじさんって歳でもないんだけどな、と頭をかいた手の包帯から、滴る。どんな戦場の負傷兵だって、こんなに出血することは無い。いやそれどころか、おそらく一日分の最前線で流される血さえ、この人は身体より多く出してしまっている。失礼にならぬよう周りを見渡すと、何もかもが赤錆の色合いで染め上げられていた。おそらく客人用らしい自分の椅子だけが、白かった。それでさえ、くすんでいたし、あまり座り心地は良くなかった。

「おれはすぐに汚してしまうから、全部廃品で済ましてしまうんだ」

 彼の視線に気づいたのか、彼は弁解するように言った。そんな言い訳、しなくていいのに。きれいなものは信用出来なかった。<あいつら>の指先が、妙にきらきらしていたし、柘榴石や橄欖石の指輪をしているのも、一人や二人ではなかった。桃色の爪先が丸く整えられているのは、感覚で、解った。あまり思い出したくない清潔さだ。

「おじさんは、ずっと痛いんでしょう」

 お兄さんだってば。笑っているはずの唇は包帯で覆い隠されているというのに、不思議と自分にも表情が解る。

「一日中痛いね」

「ぼくは一時間だけだから」

「痛いけど、誰かと話していたら忘れられるんだ。だから、こうして君みたいなお客さんを呼ぶ。もっとも、大人だとなかなか信用してもらえないから、おのずと子供に限られるんだけどね」

 <あいつら>はみんなうるさかった。息切れも、喘ぎも、身体を打ち付ける音も、すべてがうるさかった。それでいて部屋は異様に静かだった。薄汚れたシーツが、全ての音声を外部に一切漏らさない様吸い込んでしまっているみたいだった。居間からは、母が時々席を立ち、スープの鍋をかき回している音が聞こえてくるばかりだった。自分とその部屋の静けさが、どうしてそうまで違うのか、幼いガーディナーにはまるで理解出来なかった。

 たぶんそれは、今のガーディナーにも、絶対に答えられない問いだ。

 水面の揺れが、いつの間にか止まっていた。そのときになってようやく、自分の頬を雫が伝わっていったのがわかった。一瞬だけ止まったのは、台風の目のようなものだったのかもしれない。

 大声で泣き叫ぶ自分に気付くまでは、少し時間がかかった。

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