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「末永い格闘」が終わった日のことは、漠然と覚えている。その日、難事の終わりを記念して、街の中央広場に旗が上がった。だがその旗は、南の国の象徴である鷲ではなく、死者のための白い旗だった。号令とともにゆっくりと昇っていく旗を、大挙する人々が見つめていた。
隣の母の、手をつなぐ力が強まっていったあの感触を、ガーディナーは未だに覚えている。誰もがそうだった。自分の隣人の、あるいは家族の顔を見合わせ、ある者は生き残った、しかし安心にさえ至らないまんじりとした気分の悪さで、ある者は戦争が無くなってからの自分のありようが解らない怖さで、みんなが掌を自然に握っていた。
「末永い格闘」という呼び名は、あまり洒落てはいないと昔から言われてきた。北の国の週間誌が考え出した呼び名が、適切な名前など考える気も沸かない戦争だといつの間にか定着してしまい、それが国境を越えて輸入されてきたのだった。戦争という名詞を使いたがる人間は少なかった。
確かにそれは、戦争ではなかった。
二つの国は、長い間、錬金術によって栄え続けていた。
何かがおかしかったんだ――とは帰還兵たちや退役軍人ではなく、政治家までもが口にする言いぐさだった。どちらの国も、自分たちの繁栄の光に目を眩まされてしまった。丁度その繁栄も、基盤のない、どこか不安定をはらんだものだということ、自分たちの世代が死ぬまでにその歓楽が終わってしまうのではないかという不安が、拍車をかけた。両
国の元首が、ともに愚劣な軍人上がりであったのは、偶然ではないと歴史家たちは語る。長い歴史のなかで、二国は並行した繁栄を繰り返してきた。ちょうどその生命が爛熟し、死とともに再生するために、二人の愚者が選ばれた。
彼らは、常に鏡合わせで動いた。不思議なことに、軍令たちや文官士官もそうだった。国境地帯を挟み、時に通り越して、二つの演劇が行われ続けた。もちろん、そこには剣と、血と、死があった。
前口上は資源問題だ。錬金の材料は鉱山、河、森とにかく土地がある分しか手に入らない。二つの国は、自分たちの手に余る繁栄を維持するために、お互いに傷つけ合った。そこで流れ出した血を、錬金術師たちは鉄に変え、鍛冶師は鉄を剣に変え、兵士たちは剣を握った。錬金術師の師団が前線に出ることはなかったが、彼らも時折戦い、彼らなりの末路を迎えた。何人かは捕虜にされ、敵国で剣を作った。物と人の移動が、ただ血染めになるだけの時代を、人々は戦争とは呼ぼうとしなかった。
末永き格闘。
自分たちが無益な運動に巻き込まれていながら、なおそれに抵抗する術を持たないやるせなさを表すのに、これほどいい言葉は無い、と二十五歳のガーディナーなら思える。だが五歳のガーディナーは、人々がその言葉を口にするのを聞いて、おかしな気がしたものだ。格闘の試合であればいつか勝負は付くのに、どうしてどちらの勝ちでもないままに終わってしまったのだろうか。
錬金術師の力の源は、土地神への供物献上によって得られる。土地ごとに神代より続く祠があり、そこに対価を捧げることで、契約が起きる。生産層のわずか数パーセントのみしか占めないのに比して、錬金術師たちはどこの都市でも重宝された。何せどんな仕事にも使えるのだった。工業にも鍛造にも都市計画にも医療にも、最後の手段として錬金術師の雇用があった。
だから彼らもちゃんと自分たちの価値を理解して、交渉のときには必ず値段をつり上げた。疎まれた。が、何らかの計画が頓挫しかけたとき、人々が最後に救いを求めるのは錬金術師であった。
ガーディナーが幼き日々を過ごしたあの砂の街にも、錬金術師は居た。背中をぐにゃりと曲げ、顔には水疱と銃創の跡が夥しく残されていた。彼は末永き格闘に出兵し、橋上の戦闘で河へ落ちた。その下流に流され、奇跡的に生き残った彼は、谷間の祠を発見した。そこで密かに契約を結んで以来、戦場から逃げ出して南の田舎一帯を回っているのだという。
他の錬金術師と同じように、彼は手狭で暗い家を寝床にしていた。手伝い女を二人雇い、日に水と食事を持ってこさせる他は、誰一人として寄り付かせなかった。
奇抜な母親が悪魔悪魔だと言い触らしたものだから、子供時代のガーディナーには共に過ごせる者がほとんど居なかった。彼は家に帰りたくない日、郊外の錬金術師のアトリエ前でよく時間を潰した。
殆ど廃屋同然の木製のあばら家は、西風の吹かせる砂塵でぴしゃりぴしゃりと鳴っていた。無人地帯にも等しい、街の辺縁部に密かに佇むこの暗い家の戸を、人々はこっそりと叩くのだった。叩き方で解るのか、錬金術師は冷やかしの者には一切相手をしないが、真に願いを抱く依頼者には細い手を出して招き入れる。重傷兵のように何重も包帯が巻かれた腕だけが、ガーディナーの唯一知るものだった。
母親は彼がその場所に行くことを望まなかった。
そもそも、彼が家に帰らないのは、あの家の奥の小部屋で、〈あいつら〉が待っているときだけだ。そして〈あいつら〉を呼んで金銀の、しかし粗悪な貨幣を受け取っているのは、他ならぬ母なのだ。
「あんただけが頼りなんだ」
小部屋での時間が終わったあと、母が受け取った金を鳴らすその音が、一番嫌だった。そして施しを求める宿無しのように惨めっぽく、しかし復讐者のような憎悪を込めたその眼差しが嫌で、ガーディナーはタオルで身体を拭かれている間、ずっと目を床に落としていた。
「あんたが居なかったら……私たち、もうなにも食べられないんだ。お母さんが産まなきゃ、あんたは居なかった……お母さんはずいぶん痛い思いをしてあんたを産んだ。だから、あんたがこうやって生きていられるのはお母さんのおかげ……だからお願い、嫌だと言わず、私のために働いてくれるだろう? なあ? あんたは良い子だもの……」
母がこのときだけに示す情けが、静かな憤怒と表裏一体であるのを、ガーディナーはよく理解していた。それでもおいでと腕を伸ばされたとき、先ほどの痛みで前のめりになりながらも、彼は母の懐へと入り込んだ。気分の悪さで思わず顔をしかめると、容赦なく張り手が飛んだ。
あんたはお母さんのこの暖かみが解らないのかい? あんたは悪い子だ……私はそんな悪魔みたいなあんた無しでは生きられない……あんたがそうさせたんだ、あの呪い師たちみたいに……。
あんたは悪魔だ。
たぶん子供らが自分に寄り付かないのは、性格の問題もあったろうけれど、あの小部屋のせいだ。薄々感づいていたか教えられているからだ。錬金術師たちは、相手の差し出した生贄の想いの分だけ、道理を捻る。世界の関節を外す、という表現を、古い時代の詩劇から引用して評する人も居た。これは、さっきの末永い格闘というよりは、随分響きの素敵な言い回しだ。
その儀式の体系は、錬金術師たち以外は誰も知らない。実際に願いを叶えてもらった人々も、目の前でなにが起きていたのか、言葉にすることは出来ない。記憶にはあるが、それを口に出すことが何故か出来ない。言葉通りの神秘であり、呪詛だった。だから彼らを忌み嫌う人々は、呪い師と、昔ながらの呼び方を好んで使った。街角で出会うことがあれば、目の前で十字を切り、唾を吐きかけた。
道理を歪めるのは、その土地の神であり、その能力でも及ばない巨大な願いは、大陸の神、天上の神へと伝える。神様の代筆人という彼らの愛らしい自称を使う人はあまり居ないが、彼らの業務をよく表している。その肉体には、契約の証として、必ず一つ、穴が空いている。それは、どんなものでもすぐに飲み込んでしまう虚無の入り口で、そこから神々の肉体へと接続されていく。そんな通路を自分の肉体に開くことが、どれほどの苦痛を意味するかなどは誰もが知っている。飲んだ水も、貪る肉も全てその穴を通じて神の供物になる。彼らは何より、自分たちの生命そのものを捧げている。
それでも年に何十人かは、錬金術師たちの間で秘匿されている祠を発見し、引き返す機会はいくらでもあるというのに契約を結ぶ。そして人が変わったようになって、何日かしてから元いた街ではなく、自分を知る人が一人も居ない別のどこかで工房を開く。あるいは生涯を旅に捧げる。
鉄を金に変えるぐらいの作業は簡単だ。自分の血と臓物を削れば、金になる。生命を捧げながらも、その治癒の力は人並みではない。彼らは一年の全ての昼を苦痛の呻きで埋め立て、一年の全ての夜を治癒の呻きで埋め立てる。その音が周りに聞こえないように、郊外に肉の工房を開くのだった。そして証人たちに金塊や貴石を売りつけ、手伝い女に料理を持たせ、毎日を暮らすのだった。
工房を開く錬金術師は、滅多に外出しない。
だから、その黄昏どき、彼が物静かに戸を出、砂の上の地平線に差し掛かった太陽を眺めているのを発見して、ガーディナーは驚いた。共同墓地の死体を巻くみたいなぼろ布に身を包み、体中の包帯には赤黒い血の跡が付き、しかも未だなお流れ続けているらしい。ふいに錬金術師は振り向き、廃屋の壁にもたれかかっていた六歳のガーディナーに、手を伸ばした。
いつもの習慣でつい身を退いてしまうはずが、彼は不思議に頷いた。水疱の間の眼の、恐ろしいまでの透明さに、魅せられた。
「こっちに来ないか」
予想よりもずっと若い声だった。皺と傷跡の多さは、錬金術師の年齢を不明にさせていた。
「行くよ」
「いつも、来てるね」
「うん。……家に帰りたくないんだ」
ガーディナーが隣に立つまでの短い時間の間にも、暮景は確実に黒く変色し、自分たちの下の砂を見えなくさせていった。錬金術師は何がおかしかったのかくっくと笑い、右の腕から赤い血が数滴垂れて、産まれたばかりの夜闇の底で生々しく輝いた。
錬金術師が木靴で踏みつけるのに、痛くないの、とガーディナーが尋ねた。
「痛い」
「いつも怪我してるのに、治してくれる人はいないの」
「いないね」
「かわいそう」
彼はもう一度おかしそうに笑った。太陽がもうとっくに地平線の真下へと入り込んでしまったというのに、月も星も、紫色の空にいつまでたっても浮かび上がらない。
「自分の家に帰りたくないのなら、別の誰かの家へ行けばいい」
「入れてくれるの?」
「もちろんだ」
彼の微笑が、ある種の人間だけが持てる本物の優しさだということが、ガーディナーにはすぐに解った。彼には、感情の真偽を見抜く力が、その歳でもう完璧に備わっていた。二人が廃屋へ入るまでに残した足跡に、無数の血の点が残った。しかし、乏しい明かりがこの街路の終着点に漏れ出すころには、吹き出した夜風がすっかり吹き流してしまっていた。