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砂漠の小都市の片隅、夫を戦争で失い、息子と暮らしていたへレナ・G・ガーディが天井からぶらさがっているのを、第一発見者が見つけたのはその日の朝だった。だけど、二人の家には窓がなかったし、ランプも錠前も子供では届かない。扉は重すぎて開けない。
隙間風を頼りに壁から叫んでも、扉をたたき続けても、どこにも聞こえなかった。誰も彼女の死と、置いてけぼりの息子には気づかず、裏通りをそそくさと通り抜けていった。
太陽のない暗闇には熱気がたちこもり、コップの水の高さは次第に下がっていき、空気の逃げ場のないはずの家にどこからか蠅が集まるようになって、それで人々はようやく気づいたのだった。石の扉を壊したとき、頬までこけた少年が、前後不覚の状態で床に臥せていた。
彼が次に目覚めたのは、白い病室のなかだった。誰もいない清潔な部屋に、透明な光だけがかっと射していて、あのときの夜のようにしばらくは何も見えなかったし、耳が妙に熱くて何も聞こえなかった。
だから、すぐそばにいる若い青年が、微笑とともに名前を呼ぶのにも、気がつくのにしばらく時間がかかった。すさまじい頭痛と、光で煙る視界のなかで、青年はゆっくりと彼の前に姿を現した。
手入れが面倒だからか、長い黒髪は後ろの紐でまとめている。風通りの良さそうな、半袖の青いチェックシャツに、丈夫そうな黒のワークパンツ。細い金縁の眼がねをかけ、顔はすっと細い。おだやかに揺れ動く緑の眼に、ガーディナーの身体の緊張がゆっくりと解けていった。手元には、装丁の安そうな青い本。胸ポケットには、皺の酔ったオレンジの箱煙草。年齢、二十代後半、ぐらいか。
そこまで観察したところで、彼は急激に身体を起こし、そして背中の痛みで荒々しく喘いだ。
「ガーディナー」
口にしかけた言葉が、息のなかでばらばらになった。青年は彼の前に立ち、そしてゆっくりと身体を倒させた。
「無理はしないほうがいい。君、自分がどんな状況だったか、解ってるかい? 奇蹟だよ。君が生きていたのは、本物の奇蹟だ。」
だからもっと、今のところは自分の運に感謝して、身体をいたわったほうがいい。勧告ではなく、命令なのだとは薄々解った。
「質問させて」
「いいとも」
「母さんは、どうなっていたの」
「亡くなられた」
青年は表情を一切変えずに、同じ言葉の速さで呟いた。そう、とガーディナーは静かに頷いた。
「悲しまないのかい」
「もう、悲しむだけの分は、悲しんだから。泣くのもお祈りも、全部済ましたんだ。だから……」
青年は、物言わずガーディナーの額に手を伸ばした。その瞬間、彼の手は強く打ち払われ、再び荒い息が病室にこだました。ここにきてようやく見開かれた青年の眼は、しかしすぐに落ち着いた、柔らかい光を取り戻した。
「触らないで。それに……」
同情も、やめて。そんなのは、要らないから。
青年はため息をつくと、見舞い人用のスツールに再び腰を下ろし、紐で栞したページを開けた。病室の窓からは、自分が一度も見たことのなかった街の全景が伺えた。低い、黄土色の石造りの建物が無秩序にうねうねと集い、静脈のような細い道筋が渦を巻き、往来する人々の表情はどこか曇っていて、にもかかわらず太陽の美しい光は、闇という闇を街から全部消し去っていた。
今はちょうど、正午ぐらいだろうか。自分が今、何の月のどの日にいるのかも、まるで見当が付かなかった。
「名前……」
「うん?」
「あなたの、名前は?」
「マルティナス。マルティナス・マルタ、だ。親しい人は長いからって、みんな下のほうで呼びたがる。せっかく名前があるのに、失礼だよね。君はちゃんと、マルティナスと呼んでくれ」
「仕事は?」
「学者、かな。うーん。どうだろう。観光客かもしれない」
「旅行をするだけで、お金がもらえるの?」
マルティノンは、困ったように笑って鼻の頭をかいた。
「……あんまりもらえないかな」
「じゃあ、仕事って言わないよ。それでマルタは、ぼくに何の用があって来たの?」
すっかり会話の主導権が握られちゃったな、ぽつりと漏らすと、彼は再び本を閉じる。今、しおりしてなかったよと教えてやると、いいんだよ、どこから読んでも同じ本だから。それに、どこまで読んだかはちゃんと覚えてる。
「そうだな、仲良しのガーディナー君を迎えに来たんだよ、マルタは」
だって名前、長すぎるよ。ガーディナーだって十分長い名前じゃないか。ぼくのは、あなたみたいに名前の響きが曖昧じゃないから。
「迎えに?」
「そう。君を、悪いやつらにするために、私は遠いアウステルリッツから砂漠を越えてやってきたんだ」
「なら、大丈夫だよ」
ガーディナーは静かに笑った。子供らしさのない、冷たい笑い方だった。マルティナスは目を反らす。ぼくはもう、悪い子なんだ。母さんは、ぼくのことなんてやっぱり赦してなかったんだから。
病室の内部が静まり、急激に病院の喧噪、医師の説得や看護婦同士の呼び合い、患者の痛みを訴える叫びが一塊の音の群れになってなだれ込んできた。それからようやく回復した嗅覚が、部屋にこびりついたまま取れない膿や血の臭いを、誰かが残していった痕跡を、わずかに嗅いだ。
二人は長い間黙っていた。太陽は少しも天上の位置を変えなかったけれど、ガーディナーには千年の時間にも等しかった。やがてマルティナスが、ゆっくりと口を開いた。
「そうだね。君は、悪い子になってしまったんだ。そして、それはもう、君のお母さんが亡くなってしまった以上、どうしようもない」
彼は黙っていた。ただ黙って、似たような建物から、自分と母の家を探そうとしていた。目印となる交易商たちの市や青物屋やパブさえいっこうに見あたらなかったから、途中で諦めた。視線はそのまま、シーツに落とした。
「私は君に、何か言える言葉を持ってないんだ。だけど……だけど私は、君を迎えに来た」
マルティナスが、静かに手を伸ばした。彼はあの晩のことを思い出して、一瞬手を強ばらせる。しかしそのまま、何も言わず自分の手を委ねた。
「君はお母さんの死を私から聞かされても、いっさい取り乱さなかった。そんな君は、母さんを怒らせるだけの生半可な悪い子じゃなくて、本物の悪人になれる資格を持っているんだ。でも、安心していい。君がこれからなれる悪人は、時には人の感謝さえ受けるんだから。そういう悪い子だ。そして君を、たぶんみんなは良い子だと言ってくれるだろう。でも、君は今以上に、ずっとずっと悪い子になる」
その言葉に何の虚飾もないとすぐ解るほど、真剣な響きをしていた。解っただけに、その手のなかに自分のを預けたままで良いのかどうか、迷った。一瞬だけ引っ込めようとしたけれど、ちょうど目線があって、微笑まれる。手の力を、再び解く。
「君は今、身寄りがない。そうだね、ここにはないけれど少し遠くに行けば、孤児院だってある。たぶん辛い環境だろうけれど、私と行くよりはマシなんじゃないかな」
「でも、マルトはそんなこと解っててぼくを誘ってる」
「そうだ。そうだね」
「それは、卑怯だ。最初から、答えを知ってるんだから。それに、孤児院に行けば、毎日お祈りをしなきゃいけないんだろう」
「もちろんだ。食前の祈りは朝と昼と夜に、それから寝る前にもお祈りして、あとは教会の集会にもちゃんと出なきゃいけないし、退屈な聖歌も歌わされるだろうね。私ならしない」
神様万歳だね、と彼はにやりと笑った。
なら、いいや。
「行くよ」
「どんな場所か、想像がつくのかい?」
「いいや、ぜんぜん……でも、マルトはたぶん、信頼が出来る人だ」
だって、お祈りをしないんだから。それに神様なんて嫌い、みたいな言い方だったから、今。
「君は、必ず、後悔するよ。それだけは、先に言わせておいてくれ。私は卑怯な人間だから」
「うん。でも、いいんだ。それに、マルトがとても卑怯な人間だっていうのは、さっきも言ったよ、よく解るもの。だから、ぼくは行くんだ。マルトが、とても卑怯だから」
「よろしい」
彼が手を持ち上げると、自然にガーディナーの身体が持ち上がった。最初から劇の台本でそうなっているみたいで、思わず笑いが漏れた。患者用のガウンのなか、自分の胸元に、ばら色の傷の渦が刻まれていた。今まで気づかなかったはずがないから(彼は寝る前、いつも自分の傷を確認してから寝るようにしていた)、あの晩からのどこかで新しく付いたのだ。
だけどそれは、まるで生まれる前から付いた傷跡みたいに、ごく自然に存在していた。
マルティナスに訊こうと思ったが、やめた。どうせすぐに解ることなのだ。何もかも。今はもう、何もかもがどうでもよかった。そのままベッドから連れられて踏み出した一歩が、確かな感触を持っていて、目の前の笑顔が薄っぺらい限りは、何があっても大丈夫な気がした。
だから彼は、静かに囁いた。
「僕の名前は知ってる?」
「ガーディナー、だけは」
「ガーディナー・G・ガーディ」「ガーディナー・G・ガーディ」
「うん。ぼくは――ガーディナー・G・ガーディっていうんだ。いい名前でしょ?」
マルティナスはにっこりと笑った。今考えれば、このときから彼も自分の本性を察していたに違いない。でなければ、十五年間も同じ生活を歩めてきたはずがないのだ。門出を祝そう。なあ、マッチ持ってないか? ガーディナーは思わず笑った。ここ、病院だよ……。それに、煙草吸うのにマッチ持ってないの? 旅先で集めて、箱を取っておく。それが旅人の習慣なんだと、マルティナスは笑っていた。
それからの十五年で、確かに彼は、マルティナスの言う悪人の意味を、十分に理解出来た。七年間悪い子だったガーディナーが、次の年月までにどれほど悪人になったかは解らない。
ただ彼が目覚めたその晩、アウステルリッツの街、アパート三階のベッドのなかで目を開いたとき、彼は不意に母親のことを思い出した。遠くで犬が泣いていて、裏路地の女娼の客引きの声が反響を重ねた末、十二月の冷気とともにこんなところまで流れ込んでいた。
隣のベッドでは、十五年分の時間の分だけ、髪が銀色になったマルティノンが、火のない煙草をくわえたまま寝息を立てていた。煙草やめろって、あれほど言ってるのに。
寒いからカーテンの向こうの窓を閉めようとしたけれど、身体がだるくて動かなかった。今は、それでも良かった。彼は再び目を閉じて失われた眠りに戻ろうとしたけれど、いつまでたっても頭は目覚めたまま、日々の追想を続けていた。