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たぶん、母は悪人ではなかったのだ。ただ心が少し弱かっただけ。
でも、そう一応納得出来るのは彼が二十五歳のガーディナー・G・ガーディだからで、七歳のガーディナー・G・ガーディは、甘酸っぱい肉の腐敗臭と、首を力いっぱい締め付ける夏の砂漠の濁った熱さ、そしていつ終わるとも知れぬ暗闇に耐えながら、力を失い石の床に伏していた。
もう、何日この場所に居るのか解らない。テーブルの上にコップの水があったから、少しずつ飲んだ。誰に教えてもらったわけでもないのに、生き残るための希望をつなぐだけの最小量を飲むすべは、ちゃんと心得ていた。横たわりながら、ぼんやりと、本当に自分は悪魔なのかもしれない、と思った。
最後の日の、食前の祈りの時間だった。珍しく祈りを捧げた母は、こっちに来るよう優しい声音で告げた。妙に透明なまなざしと、震える手つきにおびえながらも、自然と身体は動いた。さしのべられた手がゆっくりと、自分の身体を抱きしめる。顔が見えなかったけれど、ああ、ようやく、自分は悪い子じゃなくなった、しばらくの間そうしていると、母がそっと耳打ちした。
おまえは悪魔だ。
おまえは私の子じゃないんだ。
ガーディナーはその声を、本物の祈りと許しのように聞いた。何か、自分のなかで限界まで耐えていた壁のようなものが、音もなく崩れていくような感覚がした。かあさん、と絞りだそうとした声が、どこにも出なかった。
母は手をほどいてランプを消すと、もう今日は眠りましょう、といった。食卓のうえのたまねぎのスープと、やすい黒パンに、炎の赤い影がちらちら揺らめいていたのが、一瞬で消えた。食堂から一続きの寝室に、手をつながれて入った。
ベッドに入ると、再び母は、自分に腕をのばした。震えながら、だけれど身体は自然と、その胸のそばへ寄せられていく。母はしずかに笑うと、さらさらと囁いた。
おまえを赦してやる。
悪魔の子、この世で最も醜く邪悪なお前を、赦してやる。
だからおやすみ。寝てしまえ。眠ってしまえ。赦してやったから。
ガーディナーが目を閉じ、本当に眠りに入るまで、母はずっと空っぽの眼差しをこちらへ向けていた。だけど、一度身体のなかに空いた壁からは、ひっきりなしに何物かの流れ続ける音がし、それが心臓の鼓動と重なって、幾度となく目をさました。
最初に目をさましたのは、何か軽いものが床に倒れる音だった。このころから眠りが浅かった。隣に母がいなかったから、ぼやけた目線だけで探したけれど、寝床から出ようものならまた怒られてしまうから、仕方なくその場所に戻った。今、何時か解らなかった。窓のない家は、ランプを消すと完全な夜の闇のなかへ沈みこんでしまう。石の壁の隙間から、砂の鳴る音だけがほんのわずかに聞こえていたから、耳をかたむけながら、眠った。
二番目に目をさましたのは、自分に起こされたからだった。
それが夢か現かは、二十五歳のガーディナーにも言い切れない。
しかし、暗闇の中のその自分は、紫色の光につつまれて立っていた。毎朝くすんだ鏡のなかに見る、やせ細った自分の身体が、確かにそこにあった。彼は、美しい銀色のローブをまとい、赤い頬をしてにっこりと笑った。腕先には金のアンクレットがいくつも揺れ、ズボンのなかからは貨幣のぶつかり合う音がした。
(ちがう、こいつは、自分じゃない。よく似ているけど、ちがう)
そしてこちらを細い腕で揺り起こして、語るのだった。いつか母が自分のを評していたように、子供らしからぬ濁った低音で。
「ねえ、起きてよ。ガーディナー。まずしい、かわいそうなぼく」
彼は桃色の唇を、華やかに開いて微笑みかける。母の抱擁を受けるときのように、ガーディナーの身体はしぜんに寝床から起きあがった。
何を返せばいいのか解らない彼のまえに、少年はすらりと伸びた清潔な手をさしのべる。
「ほら、おいでよ。ぼくと行こうよ、もう一人のぼく」
「どこへ?」
「きみがいない場所へ。こんな貧しくてみじめな、きみがいない場所へ」
彼がにっこり笑うと、まるで昔日に連れていかれた神秘劇の天使みたいだった。紫の光が、暗い寝室に満ちていて、時々まぶしいから、目を瞬かせた。
少年はなんでもおかしいのか、それともきっと見た目通りに幸福だからなのか、彼の一挙一動をみんな笑った。
「それは、どういうことなの。それに、きみはだれ」
「ぼくは……ぼくは、ガーディナー・G・ガーディ。大金持ちの地主のお父さんと、教会によく通う優しいお母さんのもとで、幸せに暮らしているよ。きみも、知っているだろう、ぼくのこと。だって、きみは――ガーディナー・G・ガーディ、ぼくなんだから」
「違うよ」ガーディナーは俯いた。「ぼくは……ぼくのお父さんは、もうこの世にはいないし、それにお母さんは教会には通わない。……それにぼくは」
「幸せじゃない?」
それから、黙った。砂の音がまたさらさらと鳴り始めて、石の壁からすうっと風が一筋通り抜けた。どんなに厚く石壁を築いても、必ず入ってくるのが砂漠の風なのだと、大工さんたちがぼやいていた。この家もそうだ。どんなに激しい声がしても、外には聞こえない。
だけど、風だけは知っている。邪悪なぼくと、お母さんの戦いを。
「ねえ、もうひとりのぼく。どうして君もガーディナーという名前をして、同じような格好をしているのに、きみだけがそんなに不幸せなの?
どうしてきみは、こんなに惨めで狭くて暗い家で、独りぼっちで眠らなきゃいけないの?」
「ぼくが、悪い子だからだ」
「ううん……違うよ。きみは、悪い子なんかじゃない」
彼が悲しげに視線を落とすと、紫の光がいっそう強く放たれた。
「きみが悪い子だと思っている、こんな今が間違ってるんだ。だってきみは、悪いことなんて何もしていない。していないのに、お母さんはきみを悪魔と呼んで、きみのしらない罪を罰する。ほら……見せてごらんよ」
もう一人のガーディナーの手がにゅっと伸びて、その瞬間に視界いっぱいが紫そのものになって、何も見えなくなった。他人の手が、自分のぼろ布みたいになったシャツをずらしているのが、感覚で分かった。
ほとんど骨と皮だけの身体をみられるのは、あまり気分の良いことじゃない。光が少し収まると、そこに自分の貧しい上半身があった。たくさんの傷跡が走っているのは、自分でも、あまり見たくない。古い傷跡も新しい傷跡も、みんなこの身体にある。
「それから……ほら。これだけじゃないだろう。きみが傷つけられたのは、身体の上だけじゃないだろう。服で見えないところは全部……そうだろ」
彼は薄笑いを浮かべながら、ガーディナーに迫った。耳を、ふさいだ。
「やめて。ききたくない」
「きみのことじゃないか。誰でもない、君の傷のことだ」
「お願いだ」
「お願い?」
彼はズボンを引っ張ろうとする手を止めて、お願い、と口ずさむ。千年の無償の愉楽にありついた怠け者みたいに、実に嬉しそうな声音で。
「お願いを、ひとつかなえてあげてもいい。その傷を、ぜんぶ、治してやるよ。きみのその汚い身体についた、世にも醜い傷を、ぜんぶ消してやるよ。どうだい」
「嘘だ」
ガーディナーは震えながら叫んだ。砂漠の夏の風がどんどん入ってきて、石壁がわなわなと振動していた。紫の光は、彼の笑いとともにますます強くなっていく。
「そんなの、嘘だ。できっこないよ」
「できるよ。ぼくはきみとちがうんだ。弱くて、何も出来ない君とは」
彼は公演を終えた旅芸人のように一礼すると、きれいな手をのばした。
「おいでよ。きみを、ここから連れ出してあげる。悪い子のきみは、もう悪くなくなるんだ。だってその傷がなくなったら、お母さんだってきみを悪魔なんて呼んだりはしない。そうだろう。もう誰もきみを傷つけない。お母さんもお父さんも、冷たい街の人たちだって、きみを助けてくれるようになる。そのために、きみはぼくに手を預けさえすればいいんだ」
風の音がほとんど嵐のようになり、閃光でガーディナーの眼と手は今にも燃え上がりそうだった。石が一つ一つ崩れていき、身体のなかの感情の流れが大氾濫を起こし、心臓はあとほんの少し力を加えれば瓦解 してしまいそうな勢いで拍動を続けている。
「ガーディナー」
まぶしすぎて何ひとつ見えないなかで、ただ他人の手の感触だけが、あった。いや……これは他人の手じゃない。きれいな肌をしているけれど、紛れもないぼくの手なんだ。
「来るんだ。ぼくになろう。しあわせなぼくに。良い子のぼくに」
この人は、ぼくなんだ。ぼくがなれたはずの、ぼくなんだ。ぼんやりとした頭の中で、ガーディナーは、ゆっくりと手をのばした。
「そうだ。きみは、こっちの人間なんだから。良い子になるんだ、悪い子のきみから――」
その瞬間、彼は手を素早く後ろに引いた。輝きが一瞬さらに強くなったかと思いきや、そこにはもう仄かな光しかなかった。汗だらけの彼は、死に瀕した兵士のように、ただあえいでいた。ガーディナー、もう一人の彼は、ため息をついた。
どうしてだい? どうして、来ないんだ? 彼は震えながら、言葉を胸の奥から絞り出した。
「ぼくは」
手を、できるだけ後ろに、引いて。
「ぼくは、悪い子じゃない。だってお母さんは言ったんだ。赦すって。だからぼくはもう、悪い子じゃないんだ」
遠い砂丘で渦巻く風の音だけが今はしていて、隙間からは入ってこない。石壁はいつものように物言わぬ顔を見せていて、ガーディナーの手は、薄汚いシーツのうえに落ちた。
「そうか」
彼は、微笑んだ。
「きみは、来ないんだね。これだけ熱心に誘ってやったというのに」
光がゆっくりと少年のローブのなかへ吸い込まれ、金糸の織物のような長い髪が、夜闇のなかで静かに揺れていた。風はもう、吹いていないというのに。
「きみは、後悔するよ。かならず、後悔する。どうしてぼくがきみのところに来たのか知ったとき、きみはきっと、ぼくの手を握っていればよかったと嘆くに違いない」
刺のある言葉であるにもかかわらず、その眼差しはどこか哀れむようだった。ガーディナーは、俯いた。
「いいんだ。ぼくは、後悔しないから。母さんはもう、ぼくを赦してくれたんだ」
そうかい、と彼は呟いた。それならもう、良いんだ。少しずつその身体の輪郭が、夜のなかにとけ込んでいく。
「お別れだね。もう君と出会うことは、きっとない」
彼は枯れる寸前のばらのように美しい足を広げ、ただそこに佇んでいた。風の音が、また少しずつ大きくなっていく。
「さようなら。もう一人のぼく」
そして気づいたときには、彼はもう居なかった。強烈な疲れのなかで、いつの間にか汗はすっかり引き、心臓も夜のリズムへ戻っていた。ためしに壁を触ってみると、いつも通りの冷たくて硬い手触りがちゃんと返ってきたから、安心した。それが本当に、現実か夢だったのかは、五歳のガーディナー・G・ガーディには、わからなかったけれど、別にどうでもよかった。
だって、自分はもう、ちゃんと悪い子じゃないと誰かに言えたのだ。相手がたとえ自分だとしても、自分はもう、悪い子じゃないのだ。そして彼は、もう何年ぶりにもなる満足した気持ちで、最後の幸福な眠りにありついた。