3日目
次の日は案の定雨だった。空は黒く染められ、水滴が屋根を叩く。もう春だというのに冷たい雨だった。
厚い雲に日が遮られているせいで、起きるのが少し遅くなってしまった。サリナは慌てて身支度を整える。
いつも通りの恰好に雨避けの布を被せた重たい斧を担いで、家を出る。この姿を見られたら、教会に無断で忍び込む云々以前に色々とやばそうだなぁ、なんて呑気に考えた。
そう思うと、この雨はありがたい。早朝の町に人影はなく、特に隠れたりすることもなく教会へ向かうことができた。
しかし、まだ小さなサリナにこの大きな斧はなかなかの大荷物だった。何度も持ち替えてみるが肩の痛みは増すばかりだし、息も上がってきた。いつもなら最初から最後まで全力疾走で向かえるはずの教会への距離も、やけに長く感じる。
正面の入り口の庇に佇むルカの姿が目に留まり、ほっと息をついた。
「ルカ!」
サリナが大きな声で呼ぶと、名前の主はハッと声のほうへ顔を向ける。考え事でもしていたのだろうか。それまでサリナには全く気付いていなかったらしい。
おぼつかない足取りで歩くサリナに、ルカは服が濡れることもお構いなしに駆け寄ってきた。
「それ持って歩いてきたのか」
「え、うん」
当たり前のことを尋ねるルカに、サリナは一瞬きょとんとしながらも頷く。ルカは盛大に溜息をついて、サリナの手からひったくるように斧を取り、自分の肩へ担いだ。
慌ててお礼を言うもルカはちらりとサリナのほうを見ただけで、何も言わずに歩きだした。
「……まったく」
そうひとりごちるルカを上目に見つめ、サリナは小さく首を傾げた。
(ルカ、どうしちゃったんだろ?)
そんなサリナを尻目に見ながら、ルカは自分の胸に問いかける。
――どうしてこんなに、こいつのことが心配なんだ。ほっとけばいい。おまえは、こいつを、利用しようとしてるんだろ。
もう十年近く味わうことのなかった感情に、胸が騒ぐ。
これじゃ、まるで。
(こいつのことが……好き、みたいじゃないか)
ありえない。分かっているのに、昨日までのようにサリナの顔を見ることができない。
……あほらしい、と首を振って、ルカは歩みを速めた。
* * *
確かに、他人のためにこんなに一生懸命になれるサリナは魅力的だと思う。
しかも向こう見ずでおてんばなこの少女とともに過ごせたら、どんなに楽しいだろうか、とも。
地下へと延びる階段を降りながら、ルカは自分の雑念に顔を顰めた。
――何を考えているんだ、俺は……!
昨日の夜、サリナが帰路に就いてから、ルカはひとりで教会を調べた。
サリナが調べたほうの部屋の本を片っ端から読み漁ると、プリムラの雫が地下室にあることはほぼ確定した。古い文献が残っていた。
効果は伝説通りだが、原料はただの花の蜜らしい。しかも、今の季節ならどこにでも咲いているような園芸種。今にも破れそうなほど古びた紙をめくりながら笑いを噛みしめたことを思い出す。
(こんなもののために、こうも必死になっていたとはな)
しかし、サリナには伝えなかった。三日間、それを伝説の魔法の薬と信じて根限りで探していたのだ。今も期待と不安が心の中で入り混じって複雑な表情をしている彼女の夢を壊したくはなかった。
――まただ。
そんな自分の思案に、ルカははぁと溜息をつき呆れかえる。
少し物思いにふければ、すぐにサリナのことばかり。我ながら嫌気が差すほど、彼女のことばかり考えていた。
今も、サリナは黙りこくっている自分を心配そうに見つめている。
――もう、認めてしまえばいいじゃないか。
どこからか脳裏に響くそんな声を振り払うようにルカは大きく身を捩らせ、重い斧を担ぎなおした。
* * *
いつもなら口数は少ないながらも会話をしてくれるルカが、無言だ。斧を持ってくれたときも何も言わなかった。
――私、何かしたかしら。
朝は苦手のようだが、ここまでじゃなかった。
突然素っ気なくなってしまったルカに戸惑いが隠せない。
しかし、こんなにもルカのことが気になる自分が不思議で仕方なかった。
――なんでだろう。最初はただ、デリカシーがなくて嫌な人と思ってたのに。
昨日、ルカが自分だけを逃がして教会から出てこなかったときには心配で心配でうまく息ができなかった。
同時に、頭に乗せられた手の温もりを思い出す。
頭ふたつ分の身長の差と、兄妹ほどの年の差。それを思い知らされたような気がして、きゅっと胸が痛んだ。
――別に、いいじゃない。実際、口が悪いけどなんだかんだで頼りになるいいお兄ちゃんだわ。
そう自分に言い聞かせるが、そうすればするほど胸の痛みが増す。
味わったことのないそれに、ぎゅっと目をつぶった。
(どうしてこんなに、胸が痛いの)
自分の知らない感情に支配されていく心に不安を抱き、消えない痛みに恐怖する自分をなだめることに精一杯で、その原因が何なのかなんて、今のサリナには知るよしもなかった。
* * *
「下がってろ」
気まずい沈黙を破ったのは無感情なルカの声だった。
ルカから受け取ったキャンドルを片手にサリナが数歩、階段を駆け上ると、ルカが思いっきり斧を振り上げる。来る衝撃に臆して目を閉じると、バキッという乾いた轟音が誰もいない地下へ響き渡った。
南京錠のかかった取っ手の部分を残して、真っ二つに裂けた扉が部屋の内側へと倒れ込む。それを気にも留めず踏み越して、ルカが部屋の中へと入っていった。サリナも慌ててあとを追う。
部屋の中は階段以上に埃っぽい湿った空気に包まれていた。
部屋の端に木の椅子と机が置かれた以外には何の家具もない堅牢な石造りのその部屋は牢獄を彷彿とさせたが、トイレや食事を通す小窓がない。先代の神父が隠し部屋にでも使っていたのだろう。
サリナからキャンドルを受け取ったルカが机の上に散らばった紙を手に取る。ふたりには読めないほど昔の字が記されていた。
「読めないね」
「あぁ。でも」
言うが早いか、机の端に置かれていた小瓶にルカの手が伸びる。あっ、とサリナが声を漏らした。
サリナの両手に収まるほどの小さな小瓶に、ほんのり淡黄がかった、けれど濁りのない液体が入っている。コルク栓を抜くと甘い香りが辺りを包んだ。
「これって、もしかして」
「多分それが、プリムラの雫だ」
サリナの言葉をルカが継ぐ。ぱぁっと輝くサリナの瞳を見て、ルカも顔を綻ばせた。
「やった、ルカ!本当にありがとう!」
今にも飛びつかん勢いのサリナをルカが制す。
「それを幼馴染に渡したら、本当に任務完了、だろう」
小さく頷いたあと、サリナはその可愛らしい顔を歪め、ルカを見つめた。
花のような笑顔が一瞬にして曇り、その指先が小さく震える。
「な、んで……」
一歩後ずさると、倒れていた扉に足を引っ掛けて尻餅をつく。ルカが手を差し出すが、その手は思いっきり叩かれた。
スッと血の気が引いた顔を上げ、わなわなと身を震わせながらもなんとか口を開く。
「なんでルカが……ジルのこと……」
無表情でサリナを見つめるルカを見上げながら、サリナはジュリオの言葉を思い出していた。
『それ、僕を襲った吸血鬼じゃないのかい!?』
――ジルが言ってたこと、本当だったんじゃ……。
さっきまでのサリナはもういない。ルカの目の前には、恐怖におののき後ずさるサリナがいるだけだ。
ルカが口を開こうとしたそのとき、階段を駆け下りる甲高い足音が響いた。
「サリー、薬は……あッ!?」
現れたのは先日ルカが襲った少年――サリナの幼馴染、ジュリオだった。
ジュリオはルカの顔を見ると一瞬怯んだ様子を見せたものの、すぐに正気に戻り、素早くサリナの腕を取って立ち上がらせる。
「次はサリーが狙いだったのか!サリー、逃げよう!」
早口にそうまくしたてると、ジュリオは呆然と立ち尽くすサリナの手を無理矢理引っ張って再び走り出した。
それを引き留めることもせず、ルカは虚ろな瞳でふたりの去った階段を見つめた。
(これで、よかった)
自分に言い聞かせるように、そう何度も繰り返した。
* * *
何度も自分の名前を繰り返すその声に、サリナはゆっくりと瞼を持ち上げた。
飛び込んできたのは、見慣れた天井。胸までかけられた毛布に手を伸ばし、自分のベッドの中にいることを確信した。
首を傾けて声のしたほうを見ると、ジュリオが心配そうにサリナの顔を覗き込んでいる。
「……ジル」
「サリー!よかった、僕たち逃げ切ったよ!ねぇ、あいつに何もされてない!?」
サリナが目を覚ましたのを確認するとジュリオはぱぁっと顔を輝かせて、サリナの手を取りながら早口でそう言った。
ジュリオの言葉にサリナが顔を歪める。
「ルカが……ジルを襲った吸血鬼、なの?」
まだうまく回らない頭で、一番新しい記憶を掘り起こす。サリナの記憶は教会の地下室で途切れていた。
サリナの言葉にジュリオもまた苦い顔をして、けれどしっかりと頷いた。
「……見間違うわけ、ないよ」
いつもは弱気なジュリオが、今はまっすぐな瞳をサリナに向けてそう告げる。いつもならそれはとても喜ばしいことだったのだが、今はただ切ないだけだった。
そう、と消え入りそうな声で呟くサリナをジュリオが哀れむような眼差しで見つめる。努めて笑顔を作り、明るい声でサリナに話しかけた。
「でも、サリーのおかげで僕は元通り!君のお母さんとお父さんにも全部説明した。あぁ、うちには迷子になったとしか言ってないけど……妹に距離を置かれたくないからね……でも、何も心配することはないよ!あいつと会うことももうないんだから!」
もう、会わない。早口でまくしたてるジュリオの言葉にサリナが瞳を潤ませた。突然泣き出すサリナに慌てるジュリオを横目で見、ごめんと呟く。
「ごめん、ジルのせいじゃないの、ごめんね、ちょっと……ひとりにして……」
嗚咽交じりに呟くサリナを見て、ジュリオは何も言えなかった。黙って部屋を出ていく。
ひとりになった瞬間、愛しさと切なさとが胸に押し寄せた。
――あぁ、あの不安も胸の痛みも全部、恋だったんだ。
こんな状態になって初めて気付くなんて、自分はなんて馬鹿なんだろう。サリナはそう卑下した。
瞳を閉じればルカの姿が瞼の裏へ浮かぶ。今までは幸せだったそれが、ひどく辛かった。
(ルカはあんなに優しかった。ルカが吸血鬼なわけない)
心がそう叫んでも、頭はそれを断固として否定する。ルカがジュリオを襲った吸血鬼本人じゃなかったら、話してもいない幼馴染のことを知るはずがないのだ。
サリナは幾度か、あの綺麗な黒髪を輝く日の光の下で見たいと思った。それはルカが日に当たる場所に出なかったから。
吸血鬼なのに教会にいられるの。ジュリオだって平気だったじゃない。
ルカは地下室の小瓶がプリムラの雫だと確信していた。彼は夜も教会にいられるから。ひとりであの本を全部調べたんだ。
考えれば考えるほど、ルカが吸血鬼だという事実に確信を抱いてしまう。
ルカのことを思えば思うほど、彼はサリナの中で『吸血鬼』になってしまう。
(嘘だ……!)
サリナは枕を涙で濡らし、毛布を固く握りしめた。