1日目
窓辺で小鳥がさえずり、一日の始まりを教えてくれる。青空には雲ひとつなかった。
しかし、店を持っている家の朝は早い。町一番の服屋の一人娘――サリナ・ラウリートは日が昇る前からぱたぱたと走り回っていた。
ワンピースにエプロンを重ねただけのその服装は派手ではないものの華がないわけではなく、また白を基調として清潔感がある。簡単そうだが実はセンスがないと出来ない、服屋の娘らしいコーディネートだった。
朝から裁縫に勤しむ母親にボタンを届け、朝食を作ってくれているお手伝いさんの代わりに納屋へ走る。
母屋から少し離れた納屋の扉を開けると、なんだかいつもと雰囲気が違った。
(……あら?)
サリナは毎日のようにこの納屋にやってくる。お世辞にも手先が器用とは言えないサリナは、使いっぱしりと力仕事くらいでしか役に立てなかった。
そしてその毎日の記憶と照らし合わせて、違和感の正体に気付いた。いつもは並べて置いてある木箱が縦に積んであるのだ。積み上げたことによってできる少しのスペースから、かすかに何かの気配を感じる。
不思議に思って木箱を持ち上げると、サリナはただでさえ大きな瞳を零れ落ちそうなほどに見開かせ、しばし言葉を失った。
「ジル!?なにしてるの、こんなところで!」
どこから持ってきたのか、毛布を被りながら震えている幼馴染の姿に、サリナは思わず叫んだ。サリナの声に少年――ジュリオ・ベルトリーノが顔を上げ、静かにしてと、人差し指を口に添え慌てだす。
「しっ!静かにして、サリー!それとお願い!僕をここに匿って!」
顔を顰めながらもサリナは後ろ手に扉を閉めた。表情で続きを促せば、ジュリオが再び口を開く。
その内容は、サリナにはとても信じられないものだった。
「じゃあ、ジルは吸血鬼になっちゃったっていうの?」
「多分、そうだと思う」
そう言ってジュリオはにっと口角を上げた。すると人間のものとは思えないほど鋭く尖った八重歯、いや、犬歯が顔を出す。
昨夜、ジュリオは吸血鬼に襲われたという。吸血鬼に血を吸われてしまった人間は、自らも吸血鬼へと変異してしまうのだ。
この町には吸血鬼がいる。噂には聞いていたが、まさか本当にいたなんて。サリナが俯くのも気に留めず、ジュリオは続ける。
「そいつ、若い娘がどうとか言ってた。きっと元の狙いはジーナだったんだ」
ジュリオが拳を握った。ジーナとは、ジュリオがとても大事にしている妹の名だ。彼女を狙われたことへの憤りと、自分が代わりになれたことへの安堵、しかしそれと同時に後悔、様々な感情にジュリオは眉根を寄せた。
「だけど、僕が身代わりになったところで、吸血鬼の身じゃジーナには会えない、いや、家にすら戻れない……サリー、助けて……!」
「もちろん、分かってる。けど、助けるって言ったって」
サリナの手を握って、ジュリオが悲痛に叫ぶ。しかし、助けようにもどうしたらいいのか。サリナが逡巡すると、ジュリオが躊躇いがちに一つの単語を呟いた。
「……プリムラの、雫」
「何、それ?」
聞き覚えのない言葉にサリナが首を傾げると、ジュリオは顔も上げずに続ける。
「おじいさまから聞いた、ちょっとした伝説なんだけどね……それは、飲めば永遠に純粋な人間の血が手に入れられる魔法の薬。吸血鬼でさえ永遠の人間になるんだ。どうやってできたのか、それとも誰かが作ったのか、どんな色で、どんな形なのか、何も分かってない。一つだけ分かるのは、それが教会にあるということだけ……と言っても、伝説だから本当にあるかどうかも分からない。小さいころに神父さんに訊いたことがあるけど、知らないって言われたよ」
「プリムラの雫……」
その説明を聞いた上で小さく呟く。
「それがあればジルは人間に戻れるね!」
サリナは顔を輝かせて言ったが、ジュリオは未だ暗い顔で俯いている。
「でも、そんなの本当にあるかどうか……それに、僕はもう血しか受け付けない身体なんだ。でも、血なんて飲みたくない。飲まず食わずじゃ、三日持つかどうかだ。しかも僕は吸血鬼になってしまったせいで日に当たれない。ここから出られなくって手伝えない。そんな状況で、たった三日で、伝説の魔法の薬が見つかると思うかい!」
すっかり錯乱してしまっているジュリオの手を握り、サリナは立ち上がった。つられてジュリオも立ち上がり、驚いてポカンとだらしなく口を開ける。
「私が見つける!絶対!私は、やるって決めたら絶対にやり遂げるわよ!」
サリナがそう言うと、ジュリオは何か言いたげに口をぱくぱくさせていたが、ぐっと息を詰まらせ、ぎこちなく微笑んだ。
「……ありがとう」
* * *
それからサリナは両親に、三日間だけ仕事を休ませてほしいと懇願した。早く終われば一日で済むし、終わったらその分も何倍だって働くとも。でも、今は事情を話すことはできない。終わったら話せるかもしれない、と。
真面目にそう告げるサリナを二人は怪訝な顔をして見つめたが、その勢いに押されたのか、しぶしぶ頷いた。
その足でサリナは教会へ走った。太陽はもう真上まで昇っていた。日が沈んでからの外出は物心ついたころからずっと禁止されている。今日はもう四半日しか動けない。
宗教に関しては熱心な信者が多い国だったが、その日は何故か教会の周りに人がいなかった。時間的なものだろうか、とサリナは特に気にも留めずに門をくぐった。
神をモチーフにしているという石像が何体も並んだ長い廊下を抜け、聖堂へ向かう。建物に入ってしまったのでさすがにもう走ることはできないが、限界まで早足を心がけた。
聖堂への扉を開くと、正面のマリア像へ向かって真っ赤な絨毯が伸びている。その横の大きく開いた空間に並べられた幾多の椅子に、人の姿はない。
歩みを進めると、入ったときには逆光で気付かなかったが、人がいた。ステンドグラスに描かれた神を見上げているその人影の身体のラインは、間違いなく男のものだ。しかし、肩の少し上で揺れる黒髪は女性のそれのようにしなやかで美しく、きらきらとステンドグラス越しの日の光を反射していた。
白のワイシャツに黒のジャケットとベストを合わせたシンプルな服装は、その男の細身の身体をよりいっそう引き立てている。少し大人っぽい格好だが、まだ二十歳になるかならないかくらいだろうか。
そのとき、サリナの気配に気付いたのか男がおもむろに振り返った。その美しい身体のラインに見合った整った顔立ちに、つい頬に紅が差す。整った顔立ち、というならジュリオも決して悪くはなく、そういう意味なら端正な顔には見慣れている。しかしただの幼馴染に今更感じるものなどない。
ジュリオといえば、と、サリナは納屋を出るときに聞いた幼馴染の言葉を思い出した。
『この国じゃ滅多に見ない黒髪に黒目の男だ、見かけたらすぐに逃げなよ』
立ち尽くすサリナに迫ってくる男も黒髪に黒目の持ち主だった。しかし、吸血鬼が教会なんて聖なる場所に入ってこられるのだろうか。そう考えている間にも、男との距離は縮まっていく。
「あっ、あなたは」
慌ててサリナが投げかける誰何にも何の反応も示さない。二人の距離がほんの一歩ほどまで縮まったとき、男はやっと動きを止めた。あまりの近さに鼓動が少し早足になる。それが異性に慣れていないからなのか、彼が吸血鬼かもしれないからなのかは、サリナには分かりかねた。
後ずさりたくなるのをぐっと堪えてサリナが見つめると、男は無表情のまま、おもむろに口を開いた。
「おまえ……この辺の豪商の知り合いか」
質問の意図は量りかねるが、サリナは小さく頷いた。
「ベルトリーノ家のことなら私はそこの息子さんと幼馴染だけど、それが何か」
あくまで強気な態度を保ったまま答えると、突然男との距離が縮まる。驚いて閉じてしまった瞼を再び開くと、男はサリナのうなじのあたりで匂いを嗅ぐように浅い呼吸を繰り返し、やっぱりなと呟いた。
「なッ、何!?」
そのあまりの近さと呟き混じりに吹きかかった吐息に驚愕し頬をわずかに朱に染めると今度こそ後ずさり、サリナは男に向かって叫ぶように問うた。すると男もまた、何事もなかったかのようにスッと身を引く。
「こんなところに何の用だ」
「な、何の用って、お参りに来たのよ」
質問に質問で返されてむっとしながらも、平静を装ってそう答えた。サリナは今からプリムナの雫を探すために奥の部屋を覗くことも考えていたのだ。つい声がどもる。
訊いておきながらも男は答えには関心なさそうで、じっとサリナを見つめている。その視線がくすぐったくて、サリナはつと目を逸らした。
「何か願いがあるのか」
「へ?」
予想外の言葉につい情けない声が出る。サリナが聞き返したことが不満だったのか、男が顔を顰めた。サリナは慌てて口を開く。
「ちょっと探し物があるから、それが見つかりますようにって……」
なんでこんな知らない男にこんな話してるの!?しかしそんなサリナの内心を男が知るはずもなく、男は再び訊ねる。
「何を探しているんだ」
今度こそサリナは言葉に詰まった。
これには答えられない。けれど、男は有無を言わさずとばかりに距離を詰めてくる。その勢いに負けて、サリナは小さな声でその薬の名を囁いた。
「プリムラの雫?」
男が首を傾げたような気がした。ここまで来たら誤魔化せまいという開き直りから、サリナは続ける。
「純粋な人間の血を手に入れられる魔法の薬……吸血鬼が人間に戻ることもできるし、吸血鬼に血を吸われても永遠の人間でいられる身体を得ることもできるの。教会にあるらしいけど、神父さんすら知らないみたいで」
「何故おまえがそんなものを探す」
「それは……吸血鬼が怖いからよ」
少し間があったものの一番妥当な回答を返すと、男は意味深に目を細めた。
(何なの、この人……)
次に耳に届いた男の言葉に、サリナは瞠目した。
聞き慣れない言葉に、やはり他人だったかと思った。しかし、それが薬だということ、そしてその効能を聞いて確信した。
――こいつは昨夜の少年のためにそれを探してるんだ。
あのあと、あの屋敷は「長男が消えた」と騒ぎになっていたからどこかに隠れているのだろうとは思ったが、まさかこんな女のそばにいたとは。
男はそう考えながら、先程のサリナの香りを思い出した。
林檎のように甘酸っぱくて芳醇な香り。その中に微かに混じった、昨日の少年の残り香。
(匂いでわかる……極上の血の持ち主)
それは冷静沈着なその男も思わず陶酔してしまうほどだった。
吸血鬼にとって血というのは、人間のもの、特に異性のものが美味とされる。しかし人間は、一度血を吸ってしまえば自分たちと同じ吸血鬼へと成り下がる。そうなると血の質もがくんと下がってしまう。つまり、その血を味わえるのは一度だけだ。
(今すぐ襲ってやろうかと思ったが、そんな素晴らしい薬が存在するとはな……)
その薬を手に入れたあと、この少女とともに奪ってしまえば。男は自分の考えに我ながら感嘆した。
そして、自分を訝しむように見つめるサリナと再び目を合わせ口を開いた。
「俺が手伝ってやろう」
「……えぇ?」
再び素っ頓狂な声を上げるサリナを男は冷たい眼差しで見つめ返した。それに気付くとサリナは、ぱくぱくと口を開閉させて何かを振り切るように首を左右に何度か振ると、きらきらした視線を男に向ける。
「いいのっ?」
先程までぞんざいだった口のきき方が突然優しいものに変わる。その調子の良さに、男はサリナにばれないよう小さく溜息を漏らした。
「名前は」
「サリナ・ラウリート。サリーって呼んで」
あなたは、とサリナが首を傾げる。
「……ルカでいい」
こうやって人に名乗るのなんて久しぶりだった。もう自分の名前も、まともに記憶にない。
「ルカ、今日はもう日が暮れるから帰るね。あの、明日も来てくれる?」
「あぁ」
ルカが答えると、サリナはまた花のような笑顔で頭を下げ、去っていった。
(俺が何のために手伝うかも知らずに)
ステンドグラスに描かれた神の視線を感じるようで、居心地が悪い。ルカもまた教会をあとにした。
* * *
「というわけで協力してくれるそうだから、明日から頑張るね!」
「頑張るねって……それ、僕を襲った吸血鬼じゃないのかい!?」
西の空へ沈もうとする真っ赤な太陽の光を窓越しに感じながら、サリナはジュリオに今日の収穫を聞かせた。
「大丈夫よ。教会なんて聖なる場所に吸血鬼が入れるはずないじゃない」
サリナが笑顔で告げるが、ジュリオはまだ腑に落ちないらしく、口を尖らせている。
「それに彼が吸血鬼だったとして、私を手伝うのは薬を分けてほしいからかもしれないわ。彼も元々は人間だったのかもしれないし」
「君の頭は本当に幸せだね……」
胸の前で手を組み大きな目を輝かせながら、そう口にするサリナを、ジュリオは冷たく見返し顔を引きつらせた。
「サリーには本当に感謝してる。けど、無茶はしちゃダメだよ」
いつもなら自分のことで精一杯な幼馴染に心配され、サリーは鳩が豆鉄砲を食ったような顔でジュリオを見つめた。
「何、その顔……」
「う、ううんっ、なんでもない!分かってる、無茶なんてしない!」
またも冷ややかな視線を送ってくる幼馴染にサリーはぶんぶんと胸の前で腕を振りながら、なんとか言葉を返した。
(ジルがこんな状態で私の心配するなんて、変なものでも食べ……あ、今は何も食べられないのか……)
サリナがなんとも失礼な見解を見せるなか、ジュリオはひとり俯いていた。
(好きな子を危険にさらしておいて、心配しかできないなんて)
無力な自分が情けなかった。