黒絵<クロエ>
ある絵描きは、黒い絵ばかりを売った。世の中のブームは、派手で多くの色を使った絵だったので、当然その絵は売れなかった。
その絵描きは、それでも自分の絵を変えなかった。
世界は多彩な色で溢れている。そのことを絵描きは知っていたし、その色が美しいということを、誰よりも良く分かっていた。
大きな展示場では、絵描きの絵は人気がなかった。そればかりではなく、黒い絵は不幸を呼ぶという、根拠のない風水が出回っていた。
主な美術館や展示場を回ってはみたものの、一枚も絵を飾るスペースを貰う事はできなかった。
絵描きは仕方なく、路上にスペースを借りて、小さくなって絵を飾った。
歩く人々は、それを見て怒った。こんなに真っ黒な絵を飾ったら、街の雰囲気が悪くなる。
絵描きを無視する人は、まだ良かったが、大部分の人は絵描きに厳しい罵声を浴びせて、石や物を投げたりした。
そのうち、その町で一番偉い男が来て、街の住民の集めた千人の署名を見せた。
「すまないが、ここの住民は貴方に、この町で絵を飾ったり描いたりすることを止めて欲しいと思っている」
「わかりました」
絵描きは、仕事の道具や、飾ってあった絵に白い布を被せて駅に向かった。
絵描きを見送りにくる人はおらず、誰一人として、絵描きに声をかけることはなかった。
列車に乗った絵描きは、窓の外に広がる鮮やかな緑の田園を見て、黒く先の丸まった鉛筆を取り出した。男の画材はいつも、二本の、それも短くなるまで使い込んだ黒鉛筆と、消ゴムと決まっている。
だいたいは、スケッチする時に書く画用紙と、作品を仕上げる時に使う用紙を鞄に入れている。
田園はやがて、潮の香りが広がる群青の海と、金色の砂浜、そして青々とした松の木々に移り変わる。 絵描きの描く海は、まっ黒だが荒々しくはない、むしろ波際の白を際立たせた静かな黒だ。
絵描きの描く砂は、さらさらとした細部が目立つ黒い砂だ。
絵描きは、深緑の松の木を、一本一本個性的に仕上げた。それは全て、明暗を使い分けた自然な松だ。
何故、絵描きが黒に魅せられ、黒い絵にこだわるのかというと、絵描きの友人の目が色を捉える事ができないからだった。
絵描きは、はじめは友人の為に、今では強く黒い絵に魅せられて描くようになったのだ。
友人は明るさや暗さ、色は赤に近い世界を見ている。それ以外の色は見ることができなかった。
だから、絵描きは、ただ鉛筆だけで世界を表現したいと考えたのだ。
窓の景色が、退屈な都市部に変わると、途端に絵描きは絵を描くのを止めた。
絵描きは、誰よりも自然の色が好きだった。反対に作り出した色は好きになれなかった。
他の画家の風景画を見るときも、口には出さないが、山の緑はこんな色ではないと思ったり、海の色にも違和感を感じていた。
赤はただ赤いだけではないし、海の透き通るような青も、絵の具で表現することは難しい。
絵描きにとって、色は自然の中の色であって、画家の好きな色で塗った世界には魅力を感じられないことに気付いたのだ。
絵描きが、終着駅に着く頃になると、外はもう真っ暗で、絵描きの描いた絵のようだった。
「おかえり」
絵描きの大切な友人は、人気のない駅の椅子で待っていた。
「ただいま」
「絵は売れたの?」
「全然、一枚も売れなかった。でも、新しい絵を描いたよ」
「見せてよ」
「ダメ、まだ完成してないんだ」
絵描きは、ポリポリと頭をかくと照れくさそうに笑った。
二人は手を繋いで、夜の街を歩き始めた。空には、銀色の月と、美しい漆黒の闇が輝いていた。