プロローグ (日曜日)
遠き山に日は落ちて、月は月齢十五、つまり満月である。
町一番の大きさを誇る豪邸では、恒例の月見パーティーが催されていた。
「えー、まもなく、あちらの建物の方向より、満月が見え始めてまいります」
スピーカーで叫び続ける司会者の努力もむなしく、招待客は皆、目の前の料理を頬張り、酒を飲むことに夢中であった。誰もこれから上る月のことなど気にしていない。
「皆さん、月が……」
「島津、もういいわ」
「しかし、お嬢様」
司会者の島津敬治は不満げであったが、それ以上反論はしなかった。この屋敷で働く者にとって、十六夜家十五代目家長である弥生の決定は絶対なのだ。
「時代は変わったの。みんなもう風情なんてもの興味ないの」
「美しいものを見ようともしないなんて、駄目な世の中になったものですね」
「駄目な世の中じゃなくて、夢を見れない世の中なのよ。現実を見ている人たちは、実用的でない花より、日々の糧となる団子を選ぶ。彼らには月を見る心の余裕さえないんだわ。」
弥生はため息をついた。彼女が来客を見つめる目はどこか寂しげである。
「そのようなものですかね……」
島津はつぶやいた。
初めに彼らに気付いたのは酔った来客の一人であった。
「おい、見てみろよ。あんな所に人がいるぜ」
その男の指さす方向に来客の視線が集まった。島津と弥生もそちらを見る。暗くてよくは見えないが、確かに敷地内の一階建て倉庫の屋根の上に二人の人物がいた。
「おっ本当だ。おーい、あんちゃんあぶねぇから降りてこい!」
突然二人組は飛び降りた。それとほぼ同時に今まで雲に隠れていた満月が現れ、辺りが明るくなる。黒い髪に青い目の男と、白に近い銀髪に赤い目の女。二人はこの会の主催者めがけて走る。群衆がどよめいた。
「お嬢様、どうか奥へ!」
島津は身構えた。その言葉を聞く前に、弥生は屋敷の中へと向かっていた。
男が何やら女に話しかける。女は頷き、男は速度を落とした。
島津に襲いかかったのは女の方だった。彼女は竹のようなものを振り下ろす。島津は即座にそれを掴んだが、そのすきに脇を男が駆け抜けていった。
「お嬢様!」
島津は叫んだが振り返ることはできない。武器を掴まれた女は、彼が隙を作る瞬間を狙っていたからだ。
弥生は必死に走った。彼女は家長といえどもほぼ普通の十五歳である。武器を持った男に応戦するすべはない。しかし男から逃げ切れるほどの優秀な脚も持っていなかった。追いつかれる前に、息切れてしまう。
男は彼女から数歩離れた場所で立ち止った。
「家宝の場所を教えてもらおうか。そしたらお前に危害を加えたりはしない」
そう言うと黙って弥生を見つめた。彼女は男を睨みつける。見覚えのない顔。
「お金なら……あなたの上っていた倉庫の中にもいっぱいあるわ」
「いや、俺が欲しいのはこの家の家宝だけだ。場所を教えてくれ」
弥生は体が震えるのを感じた。この人はあの家宝のことを知ってるのだろうか?
「あなた、誰なの?」
「誰だっていいさ、そんなこと今は関係ない」
「関係なくはないわ。なんでこの家の家宝を狙うの?」
「必要だからさ」
どこか何かが床に倒れる鈍い音がした。男が振り返る。
「お嬢様!」
島津が走ってくる。弥生には男が青ざめているのが見えた。そして目眩。
倒れかけた弥生を島津は抱きとめた。
「ウサギ!」
男は女の方へと走っていく。
弥生が目を覚ました頃には、すでに月見パーティーは終わっていた。
島津によると彼女が倒れた後、男は女を抱え逃げて行ったという。
「あの女の人はどうしたの? まさか……」
「いいえ、彼女は大丈夫です。薬品で眠らせました」
それを聞いて弥生は安心したようだった。彼女は人を傷つけるのを好まない。だから島津は常に人を眠らせる薬を持ち歩いている。
「なんであの人は家宝のことを知っていたのかしら?」
「わかりません。わかっていることは、女がウサギと呼ばれ、男はカラスと呼ばれていたことだけです」
「ウサギとカラスか。コードネームか何かでしょうね」
弥生は空を見た。きれいな満月。月夜にカラスとウサギなんて、なかなか粋。確かに盗みでも働きそうね。そんな悠長なこと言っている場合ではないのは分かっているけど。
「私、さっき見たの」
「それは……『神託』ですか?」
「ええ、家宝を護るようにと」
代々十六夜家長には不思議な能力があった。彼らには家の主たちが神から授かったという家宝を護る任務がある。家宝を護ることが難しくなったとき、「神託」と呼ばれる助言を受け取ることができる。その能力は家宝と同じように家の重要人物のみ知っていた。
弥生の第一防衛者である島津は言った。
「他に、何か情報はありましたか?」
「家宝を護るために、ある人物を呼ばなきゃいけない」
「それは、何か秘策を持っている方なのでしょうか?」
「わからないわ……でも彼は私の知っている人なの」
弥生は悩んでいた。戦いは避けられないのだろうか。その戦いに一般人である彼を巻き込まなくてはいけないのだろうか。
「島津、私を一人にして」
「しかしまた彼らが来たら……」
「大丈夫、私見たの。今日彼らは来ない」
島津は部屋の外へと出て行った。
弥生は一人になった。
一人になると、追いつめられた時の恐怖が蘇ってきた。あの時私は一人だった。あの男がその気になればいつだって殺せたのだ。まだ二人は捕まっていない。必ずここに戻ってくる、家宝を奪い取るために。怖い。怖い。怖い。
彼女は声を押し殺して泣いた。




