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こころの童話  作者: yuzu
4/6

第四話、心と体の間



 仕事を探して3ヶ月。不景気もあってなかなか再就職の口は

見つからなかった。こうなったら、バイトでも仕方がないなと

思った頃、街でばったり取引先だった社長と会った。


「上野さん?」

「ああ安田社長、ご無沙汰しております。お元気でしたか?」

「会社、辞めたそうだね」

「はい、心機一転、今仕事を探しているところです」

「今は、なかなか大変だろう?」

「はい。これほどとは思いませんでした。こうなったら、

バイトでも何でもやってみようと思います」

「もし、君にその気があったら、うちに来ないかい?うちは、

忙しいんだが、なかなか長く働いてくれる人がいなくてね」

「本当ですか。是非お願いします」

「倉庫の仕事なんで、郊外の方なんだが、大丈夫かな?」

「はい」




 圭介は、安田物流に就職し、仕事場から二十分ほどのところに

部屋を借りた。

 奈月の話を聞いた後は、営業に戻る気がしなくなった。

適度に体を動かす仕事が、今の自分には有り難かった。

 奈月の遺灰は、令子が作ってくれた小さな巾着袋に詰め替えた。

 無心で働いた。




 仕事にも慣れてきて、何かやってみたくなった。

奈月、何かお前が好きだったことで、俺にもできることないか?

お前、本が好きだったな。


 何年ぶりかで本屋に入った。数冊の本を手に、レジに向かう。

ふと「手作りせっけん」という見出しが目に入った。お前は、

石鹸作りにはまったんだったな。読んでみるか。そういえば、

奈月の石鹸はどうしたっけ?

 家に帰り、石鹸を探した。「あった」

手を洗ってみる。泡は少ないものの、優しい石鹸だった。

「へえ、こんなの自分で作れるんだな」香料も入っていない、

奈月らしい石鹸だ。

本を読んでいると、きっと奈月はこだわって作っただろうことが

分かる。奈月もこうやって、ゴム手袋をし、マスクをして、

化学の実験のように作っていたのだと想像する。

俺も、作ってみるかな。そういえば、お前の石鹸、

みんな待っていたのだろう?


 それから、仕事の後、石鹸の研究に没頭した。

意外と面倒だ。スケールで油を量る。苛性ソーダは危険。

牛乳パックで型を作る。熟成に一、二ヶ月かかる。

奈月の妹の美沙に、レシピが残っていないか探してもらい、

送ってもらった。

そこには、人ごとにレシピが書かれている。シャンプー向きの

レシピもあった。リンスのレシピも。きっと、みんなが喜んで

くれるように、願いながら作っていただろう。

 何とか、石鹸らしくなった。後は、熟成を待つだけ。

何だか、自分の子供のように情が湧いてくる。

「奈月、どうだ?俺も作ってみたぞ。結構大変だけど、

なかなかいいもんだな」

それから、奈月のレシピを再現していく。


 会社の同僚には、恵まれた。みんな気のいい人たちだ。

男やもめの圭介には、女性を紹介しようという人が次々と

世話を焼きたがる。

「上野さんはまだ若いのだから、会うだけでも・・」

断るのも大変だ。

 ある日、上司の井上に呼ばれた。

「上野さんは、結婚する気はないの?」

「私は、もう結婚する気はありません」

「でも、いつまでも一人っていうのも、家事だって大変だろ

うし、歳をとってから、寂しいよ」

「今のままで、満足です」

「縁談話がいくつかあるんだが、写真だけでも」

「お気持ちは、有り難いのですが、やはりその気は・・」

「結婚に懲りたの?」

「そういうことではなく・・結婚するなら、この人と決めて

いるので」

「そういう人がいるんだね」

「はい」



 もうすぐ、奈月の一周忌だ。それに石鹸も出来る。恭平達に

持って行ってやろう。奈月のように出来上がればいいが・・



 奈月、来たよ。

奈月の好きなかすみ草と優しいピンクの花。今日は、バラだ。

 今日は、プリンの評判の店で買ってきたぞ。

見てくれ、お前のレシピで俺が作った石鹸だ。うまくできたかな。

後で、恭平君に持って行こうと思ってる。


 俺は、元気にやっている。結婚していた頃より、伸び伸び

しているよ。前は、家に帰りたくなかったが、最近は石鹸を

作ることも面白くなってきたし、仕事もまずまずだ。


 俺には、営業しかないと思っていたけど、最近は、興味が

なくなった。人や社会に何ができるか・・なんて考えるように

なった。

きっと、お前の影響だ。お前に会わなければ、俺は、適当に

長いものには巻かれろ式で、生きていただろう。それを続けて

いたら、きっと言い訳が必要になる。やっぱり俺は、お前に

近づきたいんだな。お前のように生きたい。だから、時々考える。

(奈月だったらどうするかな?)って。

少しは、お前の気持ちや、満足感も分かるようになるんじゃ

ないか?


 そっちの世界はどうだ?何か、足りないものはないか?

お前は、今何をしているんだ?

 奈月、頼むから、俺を待っていてくれ。

俺がそっちに行ったら、きっと会ってくれよ。きっとだぞ。


 奈月、また来るからな。俺のこと、忘れるなよ。



「ごめんください」

「はーい・・上野さん」

「ご無沙汰しています。お参りしてきました。恭平君は?」

「どうぞ、お入りになってください。恭平―」


「あ、おじさん」

「元気だったかい?」

「うん。おじさんは?」

「元気だよ。これ・・プリンとおじさんが、伯母さんのレシピ

を真似て作った石鹸だ」

「おじさんが作ったの?」

「そうだよ。結構、大変だったよ。伯母さんは、きっと君たちの

ことを思い浮かべて作ったのだろうね」

「ありがとう、おじさん。ナツの石鹸がなくなってから、

調子悪かったんだよね」

「どういたしまして。これからは、時々送ってあげるよ。

伯母さんの作ったものには、適わないけどね」

「使ってみようっと」

「これ、恭平。・・済みません」

「いいえ、喜んでもらえてよかった。レシピノートを

ありがとうございました。奈月がみんなのために、色々工夫

していたのが分かりましたよ」

「そうですか、ありがとうございます」

「いいえ、僕自身が、やってみたかったのです。彼女のやって

いたことを。それに、みんなの心の中に、いつまでも奈月が

生き続けて欲しかったので」

「ナツの石鹸だ。おじさん、ちゃんとナツの石鹸になってるよ」

「そうかい?よかった。こっちは、お母さん用だ」

「私の分もですか?」

「はい。肌はみんな違いますから」

「ありがとうございます・・ちょっと済みません」


 電話が鳴っている。



「上野さん、川村さんってご存知ですか?」

「いいえ。何か?」

「姉のお墓参りに行きたいと、墓地の場所を訊かれたのです」

「今の電話ですか?」

「はい」

「年齢は、どのくらいの人でした?」

「姉よりも少し上のような気が・・」


 あいつだ。


「それで、どこから掛けてきたのですか?」

「駅からだと思います」

「そろそろ僕は失礼します」

「もっとゆっくりなさっていってください」

「また、寄らせていただきます。恭平君も元気でな」

「また来てね、おじさん」

「うん、来るよ。では」

「ありがとうございました。お気をつけて」


 きっとあいつだ。早く、墓地に行かなくては。



 あいつは一体何者なんだ。いや、俺と同じように

捨てられたと言っていた。奈月、あいつはお前にとって

特別な奴なのか?


 墓地の坂を上る。奈月の墓の前に人影があった。


「川村さんですか?」

「君は・・通夜のときの」

「上野と申します。少し、お時間いただけませんか?」

「私に、何か?」

「あなたと奈月のことを教えてほしいのです」

「そんなことを聞いてどうするのです?」

「お願いします。どうしても、知りたいのです」

「聞かない方がいいこともあると思うが・・」

「覚悟しています。お願いします」

「君は、やはり今でも彼女を想っているんだね?」

「はい。あなたは?」

「私には、その資格はない。ここでは、話せない。場所を移そう」


 無言のまま、坂を下る。

 一年前に比べると、こざっぱりしている。俺よりも、

ひとまわりくらい年上か?


 タクシーに乗り、駅前で降りた。駅前通りのパーラーに入る。

中はがら空きだ。カウンターから一番遠いテーブルに付いた。

「君は何を?」

「コーヒーを」

「コーヒーと紅茶を」



「さて、何から話せばいいかな。私は、老舗繊維会社の

創業一家の次男でね。私は、兄の下で働くのが嫌で、別会社を

作って家を出たんだ。といっても、資金は実家から出ていたし、

繊維関係の会社で、実家とも取引はあったんだが。景気のいい

ときには、かなり儲かったし、店舗も増やした。そのいい時を、

私も役員たちも忘れられなかったんだな。結局、すべて無くなった。

 その五年ほど前に、本部を東京から移したんだ。その時、

経理を任せられる人材として採用したのが、彼女だった。

 彼女は、とても意欲的でね。経理のシステムを作り上げた後、

消費者の目で各店舗に回りたい。より良い店舗にしたいと言って

いた。最初は、好ましく思ったからこそ採用した。彼女は、

期待以上に立派な経理システムを作ったよ。現場の負担を

最小限にしたシステムでね、店長たちにも好評だった。

彼女の持論は、(会社の利益は現場で生まれる。利益を生まない

管理部門が、現場の足かせになるのはナンセンスだ)と。


 私は、仕事のことを彼女に相談することが増えていった。

私は、東京に妻子がいる単身赴任状態だった。そのことを

寂しいと思ったことはない。だからと言って、彼女を愛して

いたかと言われると、そこまでではなかった。君のようにはね。

 でも、私は彼女を抱いた。私は、自分勝手だった。

役員たちは、自分の権利や立場ばかりを主張するようになり、

私は、彼女を自分の味方に、私の思う通りに動いて欲しいと

願っていたのかもしれない。いや、甘えていたのかも。

 そのうち、私と彼女は、仕事上で対立するようになった。

彼女は、(そんなことをしても会社の利益にはならない)と

主張し、私は、(そんなことは、どこの会社でもやっている

ことだ)と主張する。私には、彼女が脅威になりつつあった。

理屈では、彼女の方が正しいのだから。


 二度目に彼女を抱いたとき、彼女は泣いた。

(こんな関係、もう止めましょう。なかったことにしてください)

と。私は、(どうしてだ、俺のことが嫌いになったのか)と

問い詰めた。自分には、愛がないくせに、彼女には求める。

勝手なものだ。彼女は、(いくら体を重ねても、私の心は、

あなたの心とは触れ合うことができない。体を重ねることで、

余計にその溝が大きいことが分かって、悲しい)というような

ことを言っていた。私は、彼女の言う意味が良く分からず、

女というのは面倒なものだと思っていた。それからも私は、

彼女を誘ったが、彼女は応じなかった。


 彼女は、仕事に打ち込んだ。店舗毎の不公平があって

改善案を出してきたり、会社の危機に最初に反応したのも

彼女だった。

私は、彼女から少し距離を置いた。彼女との連絡には、

私の右腕であるべき人間を通すことにした。彼女は、

会社の危機についての改善案を二つ出してきた。一つは、

給与体系の見直し。もう一つは、取り扱う商品の高級化、

あるいは専門化だった。

彼女によると、仕事に比べ給与が高すぎて経営状態を圧迫

しているというのだ。一旦成果主義にするために下げて、

見直すべきだと。商品についても、今までのような、安かろう、

悪かろうの商品は、これからは売れない、魅力ある商品に

シフトしていくべきだと。役員たちは猛反対した。私にも

反発があった。女に、それも業界を知らない人間に言われたく

ないと。役員たちは、バイヤー上がりだから、過去の成功を

忘れられず、ぬるま湯に浸かっていた。彼女の案は、彼等を

敵にまわした。でも、給与については、成果主義にしようと

いうことになった。ただ、下げるのは、反発も大きいから、

上げた上で、成果主義へ移行することになった。それは、

私の右腕が作った案だった。それを知った彼女は、猛反対した。

自分の首を賭けて、それでは意味がないと。彼女は、

今変わらなければ、危機感を持たなければ、会社がもたない

ことを分かっていたのだろう。でも、その時は、上層部の誰もが

会社のことよりも、自分の面子が大事だったのだ。私も含めて。


 その時、私の右腕は、(彼女は、自分の給与が思ったほど

上がっていないことに反発しているようだ)と私に報告した。

私は、それで納得した。自分への嫌がらせのようにも感じた。

結局、私は彼女の辞表を受理した。もう、うるさく言ってくる

者もいないとホッとしたのもつかの間、事態は、彼女の言っていた

通りになっていった。いよいよ会社が駄目になってきたとき、

役員たちは、責任のなすり合いになり、結局は私の責任だと、

会社から絞れるだけ絞り取ろうとした。自分達は、被害者なのだ

と主張する。その先鋒だったのは、右腕だった。私は、彼女に

会いに行った。それで知ったのだ。彼女は、自分達の給与を

真っ先にカットするように、右腕に言ったこと。あの時、

変わらなければ先は見えていた。傾いていく会社に寄生する

ようなことはできない。だから、自分の首を賭けたのだと。


 誰よりも、会社を考えていたのは、彼女だった。

上層部全員が、彼女を疎ましく思い、彼女を追い出したのだ。

その上、私は、個人的にも彼女とはうまくいかなかったことで、

彼女が、私の不幸を望んでいる、自分の能力を見せつけたがって

いると思っていた。それは、私自身が、彼女の能力に脅威を

感じていたからだ。自分の無能さを露呈したくなかったのだ。

 みんなが敵に回る中で結局、一番誠実だったのは、彼女だった。

彼女は、私への気持ちには全く関係なく、ただ、今自分に

できることを精一杯やってくれた。そこには、愛情があった。

私へのというより、誰に対しても、彼女はそうしただろう。

私は、最後に彼女を誘ったよ。勿論、断られたが。


 私は、その時、その時、自分に都合のいい方を信じようと

したんだ。本当に信じるべき人を信じようとせずに。それで、

全てを失った。彼女は、本当に大きな人間だ。仕事での意見は

闘わせるが、自分の面子や感情で動くことはしない。

人を妬んだり、報復したりなんて考えることもない。

私は、それはあって当たり前だと思っていた。それは、

私自身が、妬んだり、報復を考える人間だったからだ。

きっと、兄に対しての劣等感があったからだろう。

 私は、全てを失ったが、大きな発見もした。私は、

これまで彼女のような人間がいるとは知らなかった。

彼女は、私の心に愛情がないことを感じたのだろう。

彼女ほど大きな愛情を持つ人間と私とでは、心が通い合う

ことはなかっただろう。求めるものが違うのだから。

あの時の言葉は、そういうことだったと今は思う。

捨てられて当然さ。

 それでも彼女は、私にとっても特別な存在になった。

彼女には、本当に申し訳なく思っているよ。彼女を大切に

思っている君にも」


 こんな男に、奈月を奪われたと思うと悔しい。だが、

憎しみよりも、人間って哀しい生き物だという思いが強い。



「奈月は、あなたに謝って欲しいとは考えていませんよ。

あなたを憎んでも、恨んでもいない。ただ、自分にできる

全てを、あなたに与えた。それで満足する奴です。

もしも、あなたが奈月を思うなら、奈月だったら

どうするかを考えてみてください。きっとあいつは、

あなたの心が健やかであることを願っていると思います」


「君は、私を怒っていないのかい?」


「悔しいですよ。僕は、彼女の手を握ったこともないん

だから。でもそれは、ただの嫉妬です。あなたが、

奈月を心から愛して、あいつと心が通じ合ったとしたら、

僕は立ち直れないほど、苦しかったでしょう。だから、

ほっとしているのかもしれない」


「君は、彼女に似ているね。警戒心もなく、自分を実際以上

に見せようとしない。自分の弱みも隠さない。真っ直ぐで、

羨ましいよ」


「単細胞なだけですが、褒め言葉として受け取っておきます」


「いや、本心からそう思うのだ。世の中には、自分を実際

以上に見せたい人間が多い。だから、人の能力を恐れ、

その能力を心から認めることが難しい。君は、彼女を

すばらしい人間だと認めているだろう。彼女を、誇りにさえ

思っている。君のように、真っ直ぐに相手を認めることができる

ということは、簡単なようで、なかなかできないことなんだ。

自分を大きく見せようとする必要がない。君のような人間が、

一番強いのだと思う。君の宝だね。彼女は、君の中にそれを

見つけたのだろうか」


「・・・そんなことを言われたのは、初めてです。奈月は、

あなたの中にもいるのですね。あなたは、相手を認めることは

難しいと言った。でも、僕のことを認めてくれましたよ」


「そういえば、そうだね。昔の私なら、自分の方が上だと、

人を押さえつけようとしていた。君よりも彼女を知っていると

鼻を高くしていたかもしれない。彼女の影響かもしれないね」


「お話してくださって、ありがとうございました。どうか、

幸せに暮らしていってください。彼女もそう望んでいます」


「ありがとう。君も」




 奈月、お前の知られたくない過去を暴いてしまったかも

しれない。ごめん。でも、俺の気持ちは変わらない。


 なあ奈月、人に与え続けて本当に幸せだったのか。

お前に関わった人たちの中には、お前が生き続けている。

生きている間に、お前は何かを受け取れたのか?

俺だって、お前を誤解したままで、何もしてやれなかった。

きっとお前は、自分の生き方を貫こうとしただけだろう。

でも、俺はお前に、何かを受け取って欲しかった。

できることなら、俺がお前を喜ばせたかった。


 やっぱり、ショックだったよ。あの人とのこと。

そんないい加減な気持ちでお前を抱いたかと思うと、

殴りたいほど。でも俺は、心が狭いよな。お前の幸せを

願うよりも、お前の心と通じ合わなかったと聞いて、

ホッとしたんだから。もしも、あの人とお前が心を通わせて

いたら、俺は、これからどう生きていけばいいのか分からなく

なっていただろう。今の俺は、またお前に会うことが、

希望なのだから。


 お前の言う、体を重ねると、心と心の隔たりがより感じる

というのは分かる気がする。今になってみると、あの山本と

いう奴が、体を求めたがったことも。

 そうだ、俺も結婚当初、理恵の体に溺れた。それが愛情だと

思っていた。いつからだろう、充たされなくなったのは。

心が通い合っていたのかさえ分からない。段々、溝が深まって、

虚しく感じた。愛していたはずなのに。

こうして考えると、性欲というのは、曲者だな。愛するから

こそ全てが欲しくなる。でも、愛情と錯覚してしまうことも

ある。山本という奴は、他の女を好きになったかもしれないが、

きっと奈月を奪おうと思えばできただろう。奈月を大事に

思っていたから、できなかったのかもしれない。

 俺は、理恵に悪いことをしたな。


 でもあの人は、お前を抱いても感動できなかったんだな。

きっと俺なら、お前に会えるだけで、あの人よりも感動できた

だろう。


 なあ奈月、もしかしたら感動って、どれだけ気持ちを込め

られたかに比例するんじゃないか?

お前が、妹や弟のことを大事に思ってきたから、姪や甥を

愛せたように。お前は、いつも心を込めて生きてきたから、

感動できるのかもしれない。周りの人間には、あんな男に

どうしてそこまでしてやるのだと見えても、お前にはきっと

感動があったんだろう。

あの人は、お前に気持ちを込めていなかったから、

お前を抱いても感動できなかった。だとすると、俺がお前と

一緒にいて、感動できたのも、お前を恨むほど苦しんだのも、

方法は間違ったにせよ、俺はお前を心から愛していたという

ことだよな。

お前の友達が、今の子供達は感動しないと言っていたけれど、

それは、心を込めて生きていないからということか?

うん、そうかもしれない。


 奈月、俺あの人に褒められたよ。意外だった。

俺は、何をやってもお前に適わないと思っていた。俺に取柄は

あるのか分からなかった。確かに、昔からお前には適わないと

思っていたし、男に対しても、能力を素直に認めることはできた。

自分の恥を晒したって別に何とも思わなかった。それが普通だと

思っていた。

 でも、あの人の生き方を聞いたら、あの人が可哀想に思えた。

何故、人とそれほど張り合わなければならないのか。

虚勢を張らなければならないのか。あの人の生き方も、

不自由だったろうな。

 俺は、単細胞でよかったよ。お前の妹が言っていたように、

それが俺の取柄かもしれない。








「久しぶり」

「呼び出して、すまん。元気だったか?」

「ええ。丁度良かったわ。私も話があったから」

「祐介は、どうしてる?」

「元気よ。経営学を勉強してるわ。卒業したら、父の会社に

入れるつもり」

「親父さん元気か?」

「ええ、変わりないわ」

「理恵、お前には本当に申し訳なかった。俺には、何もして

やれなくて、ごめんな」

「どうしたの?急に。いいわよ、今更。私、再婚することに

したの。相手も再婚だけど、子供もいないし、私にもよくして

くれる人よ」

「そうか。よかったな。今度は、幸せにしてもらえよ」

「ええ、そのつもり」

「今度、祐介にも会わせてくれないか?」

「そうね。もう祐介も二十歳だし、一度会ってみたら?」

「ありがとう。理恵、俺には、もうお前達に何もしてやれない

のだろうか?」

「私のことは、別にいいわ。経済的にもあなたよりマシだと

思うし。祐介には、自分で訊いてみたら?」

「すまん。そうするよ。なあ理恵、お前は結婚して良かった

ときはあったか?」

「あなた変わったわね。そんなこと訊くなんて。そうね、

どうだったかしら?私は一人残されて、あなたは私のことなんて

ほったらかし。私には、祐介しかいなかった。

他は、思い出せないわ」

「悪かった」

「いいわよ、もう。私も、見る目がなかったんだわ。

じゃあ私、もう行くわね」

「ああ。ありがとう。理恵、幸せになれよ」





「上野さん」

「はい」パートのおばちゃんだ。

「手洗い場の石鹸、上野さんが作ったの?」

「ええ、どうでした?」

「とてもいいわ。男の人が石鹸作るなんて思わなかったわよ。

でも、手荒れも良くなったし。作るのって面倒?」

「いいえ。慣れましたし、待ってくれている人もいるので」

「うちにも作ってもらえない?」

「いいですよ。どんなのがいいですか?」

「種類があるの?」

「しっとりしたのがいいとか、さっぱりしたのがいいとか、

ニキビ肌とか、シャンプーにもできるものとか」

「色々できるのね。うちは、夫婦二人だから、しっとり

タイプがいいかしら」

「確か、まだ残っていると思いますから、持ってきますよ」

「ありがとう。助かるわ」


 パートのおばちゃんの情報網はすごい。あっと言う間に、

噂が広まる。お陰で、圭介は、毎週のように石鹸を作るハメに

なった。奈月、お前の石鹸、評判になっちまった。

みんな喜んでくれてるんだ、まあいいか。

 材料代としてお金を払ってくれたり、畑で採れた野菜を

もらったり、圭介のアパートは、人の出入りが多くなった。




「祐介、ここだ」久しぶりに会う息子は、大人びて見える。

「・・・」

「元気だったか」

「まあね」

「大学は、楽しいか?」

「別に・・」

「お前、酒は飲めるようになったのか?」

「まあね」

「祐介、お前にも悪かったと思ってるよ。父さんは、お前達を

幸せにしてやれなかった。別れることになって、お前も

傷つけただろう。この通りだ」

「いいよ。別に」

「祐介、お前、何か言いたいことはないか?悩んでることは?」

「別に、ないったら」

「子供の頃から、俺はいい父親じゃなかったな。母さんに

任せっきりで。お前を愛してないわけじゃない。でも、

俺は母さんから逃げていた。その分、お前にしわ寄せが

いっただろう。すまなかった」

「今更、どうなるっていうんだよ。あんたは、ほとんど家にいない。

母さんは、口を開けばあんたの悪口だ。今更、遅いんだよ」

「そうだな。悪いのは、俺だ。でも祐介、遅いわけじゃない。

もしも、お前がやってみたかったこと、我慢していたことが

あるなら、今からでもやろう。俺は、息子とこうして飲むことが

できて嬉しいんだ。できないと思っていたからな」

「・・・」

「今、俺は物流会社で働いている。高給取りじゃないが、

ほとんど定時で帰れる。郊外に住んでいて、近所の人が

野菜を届けてくれたりするんだ。心に余裕ができて、お前と、

母さんに申し訳ないと思った。母さんにも謝ったよ」

「母さんは、再婚する」

「ああ、聞いた。お前はどう思った?」

「どっちでもいい」

「祐介、普通はな、母親の再婚は、男なら嫌なものだぞ。

でも、やっぱり母親の幸せを願う。でも、今は本音で話せ。

いつも、自分の感情を押し殺すことはない。いや、お前は今まで、

押し殺してきたんだ。だから、吐き出す必要があるんだ。

格好がいいとか、悪いとか、周りなんて気にするな。俺が、

もっとお前に吐き出してもらいたいんだよ」

「そんなことをして、何になるって言うんだよ」

「お前の心が救われる。自分の感情を押し殺すなんて、

不健康だからな」

「そりゃあ、いい気はしない。でも、母さんには、守って

くれる人が必要だ」

「そうだな。俺が、そうできなかったのが悪い。俺を恨んでも

いいぞ。俺たちの結婚は、間違っていたのかもしれない。でもな、

必要があったんだ」

「必要?」

「そうさ、お前に会うためにな。お前がいてくれたから、

頑張れた。途中で切れてしまったけどな。息子と一緒に飲めるのは、

父親にとっては夢なんだ。お前の心配もすることができる。

母さんに、父さんみたいになるなと言われていただろう?俺は、

必要のない父親だと思って、お前から遠ざかっていた。

でも、最近思うんだ。ダメな父親でも、お前にしてやれる

ことがあるんじゃないかって。できることなら、何でも

したいんだよ。そうだ、これ」

「何さ、これ」

「父さんが作った石鹸だ。お前くらいの頃は、脂っぽい

からな、さっぱりするぞ」

「わざわざこんなもの作ってるの?」

「今は、何でも買えばいいと思ってるだろう?でもな、昔は、

色んな物を手作りしていたんだ。手作りのものには、思いが

込められる。使う人を思い、どんなものが合っているか。

どんなものが、喜ばれるか。店で売っている、どれもみんな

同じというものには、何も込められていないんだよ。

父さんの石鹸は、評判いいんだぞ」

「父さん、変わったね。こんなもの作るなんて」

「そうだな。前は、ずっと追い詰められていて、心に余裕など

なかった。やっと、自分らしく生きられるようになったんだな」

「表情も明るくなった。前は、いつも暗い顔してたよ」

「すまん・・・なあ祐介、母さんは、お祖父さんの会社に入れる

と言っていたけど、そうしたいのか?他に、やりたいことは

ないのか?」

「別に・・就職難だし、それでもいいかって」

「お前が、それでいいというならいい。その中で、お前の興味の

あること、やりたいことを見つけるのも一つの方法だ。でも、

もしお前が、他にやってみたいことがある。興味のあることが

あるというなら、やってみたらいいと俺は思うぞ。好きなことを

やってみる、失敗してみる、遠回りしてみるのも、色んな勉強が

できるからな。若いときの特権だ。何かあるなら、言って来いよ。

俺は、お前の見方だからな」

「・・・」

「俺な、最近学んだことがあるんだ。祐介、お前は、

感動したことはあるか?」

「あんまりないな」

「憶えておいてくれ。その時、その時、心を込めて生きろ。

自分にできる精一杯を注げ。きっと、感動できるようになる」

「何だか、良く分からん」

「今は、分からなくてもいい。ただ、心を込めて生きろ、

自分の精一杯を注いで生きろと俺が言っていたこと、

憶えていろよ」

「・・・」

「今までも、お前とこうして話すことはなかったんだ。お前が、

すぐに話してくれる訳ないよな。まあいいさ。俺は、満足だ。

なあ、祐介、何かあったら連絡して来いよ。何でも、聞くからな。

お前さえ良ければ、遊びにきてもいいぞ。待ってるから。いいな?」

「・・・分かった」




 奈月、俺の気持ち、少しはあいつに伝わったかな。

あいつを守ってやってくれ。あいつに罪はないのに、

俺が、あいつを苦しめていたんだよな。


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