第一話 本当の愛情
俺はどこで、どう間違えたんだ。
家路についた上野圭介の背中は、しょぼくれた中年だ。
会社帰りの足取りは一日、一日、重くなっていく。
圭介は、不動産会社の営業係長。取引先の社長令嬢であ理恵に
惹かれて、口説き落とし、結婚した。でも、二人の仲はあまり
うまくはいかなかった。不景気になって、店舗も仲間も減っていった。
給料は減りサービス残業が増えて、益々二人の仲は冷えていった。
裕福でもなく、一家に残される理恵には、我慢ができないのだろう。
最近では、一人息子祐介ともうまくいっていない。
「お父さんのようにならないように」と理恵に言われている。
あそこに俺の居場所はない。
(奈月だったら・・・・・・・馬鹿だな、今さら。
一番思い出したくない奴じゃないか。)
どこかに行ってしまいたい・・
携帯が鳴った。番号に憶えがない。
「もしもし」
「もしもし、圭介?」
「誰だ・・・裕一?」
「ああ」
「どうしたんだ?めずらしいな」
「圭介、坂井が死んだ」
「あ?」
「奈月が亡くなったんだよ」
「な、何で?」
「心臓が悪かったようだ。明日、通夜らしい。お前行くか?」
(奈月が・・死んだ?)
「圭介、圭介、大丈夫か?」
「ん、ああ」
「通夜は、6時から、××寺だ」
「うん」
どうやって帰ったのか憶えていない。何も考えられない。
(あいつは、俺を捨て、裕一に乗りかえた女だ、どうなろうと
知ったことじゃない。俺には関係ない)
それでも心は寺に向かおうとする。
(ただあいつのおばさんになった顔を見てやるだけだ)
寺に着いた。テニス部の連中の顔がちらほら見える。
フッと顔を上げると、崩れ落ちそうになった。
(奈月)
遺影の微笑みが目に入った。
(馬鹿な・・俺はまだ、奈月をふっ切れていないのか)
すぐに引き揚げるつもりだった。でも、奈月から離れられない。
隅の一角に、奈月と仲が良かった麻子、キャプテンの裕一、
三人で陣取る。この際だ、ずっと訊けなかったことを裕一にぶつける。
「裕一、お前奈月とは、どうなったんだ?」
「どうなったって?何もない」
「嘘言うな。奈月は、お前のことが好きだったんだろ?」
「嘘じゃない。そうか、それでお前は俺を避けていたんだな」
「奈月は、好きな人ができたと言って俺を振ったんだ。その後、
あいつはいつも森先輩、森先輩とお前を追いかけてたろ」
「本当に何もなかった。奈月は俺のことなんて、何とも思っていなかったさ」
(じゃあ俺は、一体誰に嫉妬していたというんだ)
ドン! グラスが乱暴に置かれた。
「圭先輩、相変わらず先輩の目は節穴ですね」
麻子はもう酔っている。
「俺の目が何だって?」
「先輩はいつだって奈月だけを見ていたのに、奈月の何をていたんですか」
「俺が、奈月をわかってないと?」
「ええ、わかっていませんね」
「じゃあ教えてくれよ。何故、俺は振られたんだ」
「圭先輩のためですよ」
「えっ?」
「折角、進学校に入ったのに、先輩は奈月と付き合い始めてから、
成績が落ちませんでしたか?追試の日は、部に出られない。
学年が違っていてもそのくらい分るんですよ」
「・・・」
「奈月は心配していた。自分のせいで、圭先輩の将来を台しにして
しまうのではないかって」
飲まずにいられなくなった。
(確かに成績は落ちた。奈月といられるだけで充たされていた。
他の何も目に入らず、何も考えようとしなかった。
奈月が俺の心配を?)
「他にやり方があるだろ。何も別れなくたって」
「奈月は、何度も訊いていたはずです。先輩は(大丈夫、大丈夫、
何とかなる)なんて、はぐらかしていたでしょう?奈月はきっと、
先輩自分の道を見つけて、進んでいくところを見たかったのだと思う。
そんな先輩を応援したかったのだと思う。」
(何だよ、俺のせいなのか?)
「それに、好きな男ができたって・・」
「そうでも言わなきゃ、先輩は諦めなかったでしょう。奈月は、
先輩が発奮してくれないかと願ったのだと思う。いい男になって
見返してやる、って」
「見返すどころか、ずっとどん底さ。奈月にとって俺は、別れても
平気な存在だったってことだろ」
「奈月だって別れを望んだわけじゃない。でも、圭先輩の将来を
考えると、それが一番いい方法だと思ったのでしょう。あの子、
そういうところ不器用で、融通が利かないから。自分の事だけを
考えるような子だったら、別れようなんて思いませんよ」
「・・・」
「先輩、先輩は、奈月を特別扱いすることが、奈月に対する優しさ
だと思っていたでしょう?先輩がそうすることで、奈月は嬉しかった
と思います?そのために奈月は、私達にも申し訳なさそうにして
いたし女子の先輩にはにらまれていた。
前に言っていたことがあるんです。
満員電車に乗っていて、一つの席が空いたら、先輩は私を座らせようと
するだろう。でも、私は、別の人に譲って喜んでもらい、そのことを
二人で喜びたい。座りたい人の前で、居心地の悪い思いをして、
座れることを喜べない。先輩は、私を知らずに、好きだと勘違いして
いるだけかもしれない。って」
「俺の思いは、空回りしていたというわけか。奈月にとっては、
迷惑だったってことか?」もう頭が混乱して、何も考えられない。
何を言っているのかさえわからない。
「先輩は、奈月を喜ばせたいだけだと分かるから、何も言えなかった
のじゃありませんか。特別扱いを喜ぶ女の子はいるでしょう。
そういう子は、自分に何をしてくれるのかを求める。でも、奈月は、
今の自分に何ができるかを精一杯考える。だから、結果がどうなろうと、
後悔はしないでしょう。
でも、周りで見ている方は、歯がゆい」
そう、奈月は何も求めなかった。張り合いがないほど。でも・・
「そんなことあるのか?もし、本当に奈月が俺を思っていたのなら、
別れたくないと思うだろ」
「あるね」
いつの間にか、側に、くたびれた感じの男が座っていた。
「貴方は?」
「済まない。聞くつもりはなかったんだが。私も君と同じなんだ。
彼女を信じられずに、捨てられた男の一人さ。彼女には、自分の気持ちよりも
大切にしたいものがあるんだ。君や私には到底考えつかないないほどに。
話を聞いて、彼女らしいと思ったよ」
圭介はふらふらと、奈月が納められた棺に近づく。
(そうなのか?奈月。教えてくれ。お前は、俺の幸せを考えていたのか?
俺は、お前に何もしてやれていなかったのか?お前は、それで幸せだったのか?)
奈月は安らかな顔をしている。でも頬は、悲しいほど冷たい。
今、圭介の手の中に、小さな瓶に入った奈月の遺灰がある。
告別式にも行った。火葬場にも付いて行った。頼み込んで遺灰を分けてもらった。
家には帰らなかった。実家の部屋に閉じ籠って数日が経つ。
奈月と別れて二十七年。この年月が無為に思えた。
あの頃、奈月は十六、圭介は十七。付き合ったのは、ほんの数ヶ月
だった。手さえ握ったことはない。
でも、あれほど毎日が幸せだったこともなかった
圭介の胸には、長い間棘が刺さっていた。棘を抜こうと、
もがいたこともある。刺さっていることを忘れようとしたことも。
でも、実際抜けてしまうと、血が流れ出て止まらない。
「お兄ちゃん、いい加減にしなよ。そんな抜け殻みたいになって。
奈月先輩が喜ぶと思ってるの?」
(ここにも奈月のファンがいる。俺は、あいつには敵わない)
「頼むから、放っておいてくれ」
「お姉さんどうするの?実家に帰るって言ってたよ」
「いいんだ」
(あいつにも不満はたくさんあるだろう。でも、奈月に比べたら、
ずっと多くのことをしてやれた)
「ちょっと出掛けてくる」
一人になりたかった。通っていた高校は、バスで十五分くらいだ。
(奈月、一緒に学校に行こう)小瓶を握り締めて、一歩一歩踏み
しめるように歩いた。
駅、奈月が汽車通学していた駅だ。この駅前通りを二人で何度
歩けただろう。水曜日は、ピアノの日だったし、普段も汽車の時間に
間に合うように、部活を早めに上がっていたから、早めに上がれた
土曜日くらいしかなかった。結局、数回程度か。
俺が、奈月のカバンを取り上げ、二人分のカバンを持って、
奈月は斜め後ろからついてきた。
駅前通りも随分寂れていた。開いている店は、数えるほど。
他はシャッターが下りている。初めて二人で入ったコーヒーショップも
閉まっていた。
奈月、このコーヒーショップ憶えてるか?あの時、お前初めて
「圭介さん」て呼んだんだよな。照れくさかったぜ。
思わずフッと笑みがでる。俺、よく憶えているじゃないか。
この店でお前にぬいぐるみを買ったんだ。女の子ばっかりで
恥ずかしかったな。俺たち、どうしてもっと話さなかったのだろう。
後悔したんだ。俺は、みんなの前ではよくしゃべるくせに、お前の前
では、ほとんど何も話せなかった。小学生の初恋みたいだな。それでも、
俺は満足だったんだ。毎日学校に行くのが楽しくて、たまに廊下で
お前を見かけると、その日一日がハッピーだった。
お前が付き合ってくれると手紙をくれたときは、信じられないくらい
浮かれたな。眠るのが勿体ないくらいに。世界中に
「奈月は俺の彼女だ、奈月は俺の彼女だ」って触れ回りたいくらいに。
実際、言いふらしたけどな。
駅前通りから、国道を渡り、住宅街へ曲がる。
あの頃は、もっと活気があったな。高速ができてから、すっかり変わって、
あの頃の面影も薄い。
奈月、どうしてお前だったんだろう?俺は、お前が入部してきたときから、
お前しか見えなかった。一目ぼれと言ってもいい。でも、外見にじゃない。
美人なら他にいくらでもいたし、全然グラマーでもなかった。特に、活発で
目立つ方でもなかった。お前を良く知りもしないのに、俺は「こいつが好きだ」
と感じた。あれは、何だったのだろう?
心?精神?魂?全く説明がつかない。それとも、俺の思い込みか?
お前は、男にも、女にも好かれていた。先輩にも後輩にも。
みんな、お前のどこに惹かれるんだろう。
俺は、お前のどこに惚れたんだろう。
学校が見えてきた。校舎も新しくなっている。
みどり食堂、やっぱりもうないか。あの頃も、相当古かったしな。
夏の練習の後、よくみんなでカキ氷食ったな。
コートの方に行ってみるか。まだ、授業中だな、誰もいない。
芝生に横になる。ベルが鳴った。
ああ、この柔らかい音は、あの頃と同じだ。
若者の快活な声とざわめきがする。
あの中に俺たちもいたんだな。俺の思い出の場所は、やっぱり教室よりも
このコートだ。
ボールの音が心地よい。いつの間にか、放課後になっていた。
白いシャツ姿の若者達が、自分達に重なる。
今日は、ダブルスの練習らしい。
俺は、部でも大したことなかったな。団体戦でかろうじて出してもらえる
程度だった。それに比べて、奈月と麻子のダブルスは、一年で県大会まで
行ったし、俺は情けない先輩だったな。俺たちは、ミックスも組ませて
もらえなかった。息が合わないというより、俺が下手だったせいだ。
そうだ。俺はいつも奈月に劣等感を感じていた。勉強もスポーツも、
俺には取り柄が見つからなかった。奈月が、付き合ってくれると言って
くれて、嬉しかったが、いつも本当に俺でいいのか、奈月とはつり合わない
気がした。いつか、奈月に愛想つかされるのではないかとビクビクしていた。
だからなんだ、お前とちゃんと話ができなかったのは。本当の俺を
知られるのが、怖かった。
奈月は、何で俺と付き合おうと思ったんだ?
学校祭のとき、初めて俺本来の姿を見せた気がする。クラスの出し物で俺は、
男三人女装して、キャンディーズの歌を歌った。
お前は、ビックリしていたけど、けらけら笑っていた。何だか、嬉しかったな。
俺には、二枚目は務まらないけど、三枚目でもお前は、受け入れてくれた気が
した。
いつも真面目なお前が、時々俺を困惑させることもあったな。そんなときの
お前は、いたずらっ子の目をして、俺は、今度は何が出てくるのか、ハラハラ、
ドキドキした。お前といると、いつも新しい発見があった。
そうさ、あの頃だって俺たちは、うまくいっていた。別れの手紙でさえ、
ウキウキしながら読んだくらいだ。
青天の霹靂とはあのことさ。何の前触れもなかったのだから。
もう帰ろうか。
もっと思い出の場所があったらな。
そうだ、今度あの街に行くか?県大会で行った港町。
宿から二人で抜け出して散歩したろう。
奈月との思い出にどっぷり浸かった。もうここから一歩たりとも動きたくない。
「お兄ちゃん、いつまでそうしてるつもり?いい加減、いい大人なんだから、
現実逃避するのやめたら?」一通の封筒を差し出す。「お姉さんから」
「見たくない」
「これからどうするにしても、このままっていう訳にはいかないでしょう?
お兄ちゃん、離婚するつもり?祐介はどうするの?」
「あいつは、俺にはついてこないだろう。理恵とは、もうやっていけない」
妻の名前も、もはや他人の響きだ。
「お兄ちゃん、祐介を父親のいない子にするの?父さんが早くに亡くなって、
お兄ちゃんはいつも私に優しくしてくれたけど、私はやっぱり父さんに甘えた
かったよ。そりゃあ祐介は、もう十八だけど。でも、これから男同士話せる
時期なんじゃない?」
「祐介には済まないと思う。でも、俺たちの結婚は、始めから間違っていた。
お互いの心の隙間を埋めるためにしたようなものだ。俺は、今まで奈月に捨て
られたと思っていた。ずっと忘れようとしてきた。それでもその痛みはずっと
消えなかった。でも、通夜の時、奈月の本心を聞かされた。まだ、
信じられないが、俺は捨てられた訳じゃなかったんだ・・・」
「奈月先輩らしいかも。私も奈月先輩好きだったよ。でも、もう先輩は
いないんだよ」
「そうか、お前も、あいつらしいと思うんだな。あいつのこと、わかって
いなかったのは、俺だけだったんだな。俺は、大バカ野郎だ。俺には
あいつは勿体ない、いつか捨てられると自分で思い込んでいた」
「私は、お兄ちゃん好きだよ。人を好きになるのって、理屈じゃ
ないんじゃない?気が付いたら、好きになっていた。みたいな」
「お前、うまいこと言うな。じゃあ、奈月が俺を好きになるのも有りか?」
「有り、有り」
「サンキュー、令子。ちょっと一人にしてくれるか」
「お兄ちゃん、お姉さんとのこと、はっきりさせた方がいいよ。それから、
ゆっくり自分の事考えたら?」
「そうだな」
じゃあ俺たちは、あのときも両思いだったってことじゃないか。
何でこんな遠回りしなきゃならなかったんだよ。
あんまりじゃないか・・
今までの想いが、涙に替わっていく・・




