最終話 所沢に雪は降らない
煮え切れない。
部屋の天井を見上げながら、俺はスマホを指先で転がしていた。
あの夜から、完全に懲りたはずだが、まだ終わっていない気もする。
情けない気持ち。でも怒りはあった。悔しさもあった。
でも、それ以上に強いのは、一二万という大金を失ったことだ。
(……おかしい。何かが、致命的におかしいんだ)
消去したはずのアプリを再びインストールした。未練ではない。これは「検分」だ。
すぐに別の韓国人美女とマッチングした。名は「ソア」。ジユに負けず劣らずの、透き通るような肌と、人工的なまでの肉体美を誇る女だ。やり取りを始めてわずか数通。デジャヴのような返信が来た。
『いまどこ住んでる?』
俺が「所沢」と打つ前に、向こうから先回りするように言葉が飛んできた。
『近い。私は新所沢に住んでる』
——同じだ。
ジユのときと、まったく同じ流れ。
胸の奥で、何かがカチッと噛み合う音がした。
「……そういうことか」
俺は、試してみることにした。口角が歪むのを自覚しながら、スマホのキーボードを叩いた。今度は、ジユの時のような震えはない。
『あ、ごめん。言い忘れてた。俺が住んでるのは埼玉の所沢じゃなくて、豊島区の所沢なんだ』
豊島区にそんな地名は存在しない。俺が瞬時に捏造した、この世にない「所沢」。 普通、近くに住んでいると言い張る相手なら「え、豊島区?」「そんなとこあるの?」と戸惑うはずだ。
だが、ソアからの返信は、一秒の迷いもなく届いた。
『うん。私もそこだよ』
画面を見つめたまま、俺は「ははっ」と短く乾いた笑い声を漏らした。
存在しない地域を肯定する、完璧にプログラムされた肯定。
俺はとどめのメッセージを送った。
『豊島区に、所沢なんて場所はない。お前ら詐欺師のところに警察を送り込んだからな』
俺はすぐにトークルームを削除した。
「……クソ詐欺集団め」
確信が、熱を帯びて背筋を駆け上がる。俺はさらに別の韓国人美女にもマッチングを仕掛けた。
今度はGoogleマップを開き、人里離れた、絶対に人が住めないような深い山奥の座標を探し出した。
『俺の住まいはここ、〇〇(奥多摩のさらに奥の、廃村になった山域)だよ』
すると、すぐに返信が来た。
『近い。私もその辺りに住んでる』
——やっぱりだ
「……はは、……ははははは!」自室で一人、俺は声を上げて笑った。
一二万。
上野、池袋、セブンイレブンで感じた絶望も、怒りも、徒歩帰宅の寒さも、すべてはこの「無機質な真理」に辿り着くための、あまりに滑稽な儀式だった。
アプリの中の「幽霊」たちは、もう俺を踊らせることはできない。だが、笑いが止まった後、静寂の中にポツンと残ったのは、勝利感ではなかった。
一二万を失っても埋まらなかった、あの底知れない「空虚」だ。
結局、誰もいなかったんだ。俺の求めていた「リアリティ」は、どこにも存在しなかった。
*
翌日、アイドルタイムの厨房。俺は黙々と明日の為の仕込みと発注をしていた。
「榎本さん、今日暇だから早く上がってもらってもいいですか?」
店長が優しく声をかけてくる。この人の穏やかな口調が、今の俺には逆に鋭く刺さる。
「あぁ、、、大丈夫ですよ」
店長と二人きりの厨房。しばらくお客もいない中、外の駐車場に一台の車が入ってきた。ふと見てみると、三人の家族連れの客だった。
その娘らしき女性の派手な装いを見て、店長が麺を伸ばしながら、ふと呟いた。
「マッチングアプリやってそうな女だなー」
ドクン、と心臓が跳ねた。
俺は顔を伏せ、発注に集中するように、あえて聞こえないふりをした。
「いらっしゃいませー、焼きたて豚肉うどんと、豚ちゃんぽんうどんおすすめでーす」
*
バイト帰り、俺はいつものスーパーへ寄った。
野菜コーナーを抜け、そして、無意識のまま精肉コーナーへ。
豚肉。豚しゃぶ用。見慣れたパック。
俺は、それに手を伸ばした瞬間。
『えっちゃんの好きにしていいよ』
『そのあとは、あなたの好きなようにしていい』
詐欺師たちの、あの嘘まみれの文面が脳内でフラッシュバックした。肉の脂身が、急に生々しい内臓の一部のように見えて、猛烈な吐き気が込み上げる。
俺は、豚肉を素早く戻した。代わりに、隣にあった鶏胸肉を手に取る。
「だめだ……豚肉は食える気がしない」
レジに向かい、並びながら無意識に店員の顔を探す。
——いない。
あの美人店員はいなかった。
*
一九時。自宅のテーブルには、今日も湯気が立ち上る鍋がある。
「いただきます」
久美が笑顔で箸を伸ばす。俺は徹底して「いつも通り」を演じた。アプリは消去し、履歴も削除した。スマホは静かに熱を持っているが、通知が鳴ることはもうない。
「あ、これは鶏肉?」鍋の中身を見て、久美が少し意外そうに言った。
豚肉を受け付けなくなった俺の体が、無意識に選んだのは真っ白な鶏胸肉だった。
「……うん。物価高だしね。それに、鶏胸肉は疲労回復にいいし、睡眠の質も良くなるから」
もっともらしい理屈。俺が得意な、自分を守るための正当化。
「鶏肉も美味いからいいね」久美は何も疑わず、美味しそうに肉を口に運ぶ。
バレていない。何も失っていない。そう自分に言い聞かせながら、俺は味のしないスープを啜る。
ただ、その純粋な笑顔を見るたび、俺の内側が黒く腐り落ちていく音が聞こえるような気がした。
日常は続く。詐欺師に金を奪われ、嘘で彼女を欺き、母親の金を食いつぶしながら。
(母さん、ごめん。でも、俺は今日も生き延びた)
湯気だけが、白く、静かに立ち上っていた。
*
所沢市内の、あるマンションの一室。そこには、夕食を終えた後の、夫婦の穏やかそうな時間が流れていた。
妻は手際よく食器を洗い、ふきんでテーブルを隅々まで拭き上げた。完璧な家事。完璧な「日常」のしつらえ。
「風呂入るね」と、ソファでくつろいでいた旦那が立ち上がり、浴室の方へと消えていく。
一段落した彼女は、「ふぅ」と、小さく息を吐き、ソファに深く腰を下ろしてからスマホを手に取った。彼女は流れるような手つきで、マッチングアプリ開き、軽やかな鼻歌が漏れていた。
街ですれ違う男たちが彼女に声をかけていくが、それを無表情で躱すようにスワイプしていく。欲望と嘘が渦巻くその戦場を、彼女は高みの見物でもするかのように眺めていた。
だが、ある男のプロフィールが表示された瞬間、彼女の鼻歌が止まった。
画面に映っているのは、どこにでもいそうな顔。
特別イケメンというわけでもない。
しかし、見つめたまましばらく動かず、彼女の呼吸が、ほんの少しだけ深くなる。
ソファに深く座り直し、プロフィールにある写真、自己紹介、居住地を見た後、少しだけ、口角が上がる。
そして、彼女は左手を見つめた。細く白い指に光る、結婚指輪。
それをゆっくりと引き抜き、無造作にテーブルへと置いた。カチリ、と硬質な音が響く。
再びスマホを握りしめ、男の顔を喰い入るように見つめながら、ゆっくりと人差し指を右にスワイプ。
——マッチ。
彼女の表情は穏やかだが、目だけが妙に熱を帯びている。
そして、無意識のうちに、太ももをすり合わせる。
小さく、小さく息を吐き、目を細め、熱を帯びた吐息を漏らしながら、画面の中のを「獲物」として妄想の中に引きずり込んでいく。
*
スマホをテーブルに置き、そこにあった結婚指輪を再び左手の薬指に戻す。
何事もなかったかのように。彼女は再び、ご機嫌な鼻歌を口ずさみながら、目を閉じた。
自分がパート先のレジで、バーコードを打つたびに、この男の人生が削れていく。その支配感が、彼女を何よりも昂ぶらせた。




