第7話 国内産韓国美女
自分のアパートに着くと、部屋の明かりはまだついていなかった。
「よかった、まだ間に合うか」
玄関で靴を脱ぎ、ダウンをハンガーに掛けてから、洗面所で手を洗い、顔を上げる。
鏡の中の自分は、少し疲れていて、目の下がほんのり暗い。
頭の中は、まだ池袋の裏通りに置き去りのままだ。
母親から借りた五万と前払いの三万四千円は、あの女との、安っぽい石鹸とタバコの匂いが混ざった一時間で霧散した。
手元に残ったのは、四万九千円。
「あんなに必死に、震える手で掻き集めた軍資金の半分が。俺が抱いていた理想は、なんだったんだ……」
普通なら、ここで足がすくみ、己の愚かさに絶望するはずだ。だが、俺の脳はすでに、この惨敗を「勝利のために不可欠な授業料」として都合よく変換する回路を完成させていたかもしれない。
「……まぁ、なんとかなるだろ」
すべてを思い出さないように、俺はいつも通り夕飯の支度をした。
しかし、包丁で長ネギを切りながら、ふと現実に戻る。
(……残り、四万九千円)
次の給料日まで、まだ二週間以上ある。しかも、前払いしているから、給料も多くはならない。普通なら、焦る。でも、そのとき頭に浮かんだのは母親だった。
また頼めばいい。怒られるだろうけど、貸してくれる。
最低だなと思う。でも俺は”思うだけ”で、終わるんだ。
*
休日の午後。静まり返ったアパートの自室で、俺はスマホの光に吸い込まれていた。検索窓には、自分が使ったアプリの名称を入れて口コミなどを調べてみた。
そこで上位トップのなかで気になるタイトルが目に入った『マッチングアプリ徹底比較』というブログだ。すぐにタップした。
「海外勢が跋扈する大手アプリは、今や詐欺師の狩場だ。本気で出会いたいなら、日本国内で運営され、公的身分証による厳格な審査があるアプリを選べ」
ブログの著者は、いかに自分が過去に騙され、そしてこの「国内産」で救われたかを雄弁に語っていた。
『実体験あり:〇〇アプリはやめたほうがいい理由』
そこには、まるで俺の体験を書いたかのような文章が並んでいた。
・写真と別人が来る
・インスタに誘導される
・条件提示される
・国内ユーザーが少ない
・海外業者が多い
(……俺じゃん)
その整然としたレイアウトと断定的な口調は、迷える俺にとって聖書の文言よりも輝いて見えた。
胸の奥が、少しだけスッとする。
「そうか、俺が馬鹿だったんじゃない。俺が選んだ場所が、最初から「詰んでいた」だけだ」
この歪んだ「正当化」が脳に浸透した瞬間「新しい投資」「輝かしい高揚感」へとすり替わった。
ブログの下の方には「国内でおすすめのマッチングアプリ5選」という見出しが、評価と口コミと一緒にランキング形式で載っていた。
・本人確認が厳しい
・業者が少ない
・恋活向け
・遊び目的も一定数いる
ひとつずつ、読んでいく。
(……こっちの方が良さそう)
いままで使っていたやつより地味で、アイコンも色味も派手じゃない。
(派手なのがダメなんだよな)
妙に納得し、俺は迷わず推奨されていたアプリの一つをインストールした。
*
新しく開いた画面は、驚くほど清潔だった。そこで出会ったのが、ジユだった。
透き通るような肌に、レースアップされた水着のような衣装から溢れんばかりの、爆発的な肉感。甘い顔立ちと抜群のスタイルのギャップはまさに、若さと肉感の暴力。さらにこの少し小悪魔的なウィンク……。
「やばっ……めっちゃ可愛いい」
俺の脳がまた沸騰するような興奮を更新してしまった。
ジユとのやりとりは驚くほどスムーズだった。すぐにLINEへ移行し、既読がつくたびに、俺の承認欲求が安っぽく震える。
『いまどこ住んでる?』
その一言に「所沢」と返した瞬間、運命の歯車が狂ったような音がした。
『 私も所沢だ。いま航空公園の近くに住んでる。』
脳内で、見慣れた風景がフラッシュバックする。航空公園駅。
「マジかよ……あんな辺鄙なところに、あんな美女がいるのか?一気に注目の的じゃん」
しかし、池袋という「異界」ではなく、俺が日々泥のように這いつくばっているこの「生活圏内」に、こんな美女が息づいている。そのリアリティが、俺の警戒心を完膚なきまでに叩き潰した。
ジユの住所は、航空公園駅西口を出てすぐのセブンイレブン。普段なら散歩にすら行かない場所が、ジユというフィルターを通した瞬間に、祝福された聖地へと変貌した。
「……近いな。歩いてでも行ける」
ジユとの会話は甘美で、そして執拗なまでにローカルだった。航空公園の飛行機の模型の話、西口の静かな雰囲気。それらの取るに足らない話題が、俺の「信じたい心」を丁寧に愛撫する。
これまでの失敗は、すべてこの「偶然」に出会うための伏線だったのだと、本気で思い始めていた。
*
約束の時間に向け、俺が駅に向かおうとした時、彼女の文字が形を変えた。
『最近、ドタキャンする人が多くて……。会うための「誓い」として、一万五千円を送ってほしい』
「っは?」
心臓がキューっと縮こまる。
(一万五千円……)
今の俺にとっては、生活のライフラインを削り取るに等しい重みがある。池袋での敗北が、胃の奥をチリチリと焼いた。
(てか、どういうことだ?)
『一万五千円って部屋に行ったら渡すってこと?』
『違う。コンビニでVプリカを一万五千円分買って。買ったら連絡して』
「はぁ……」
スマホの画面に踊る文字を見つめ、どうするべきか考えた。
『それを送ったら、今日、本当にできるの?』
『はい。そのあとは、あなたの好きなようにしていい』
あなたの好きなように。その一行が、脳内で熱を帯びて膨れ上がる。
再びジユの写真を見返した。ウィンクする艶やかな瞳。彼女を押し倒し、あの白い肌に自分の痕跡を刻み込む――。
「何しても、怒らない」という言葉は、もはや性欲を通り越し、俺の人生を全肯定してくれる福音のように聞こえた。一万五千円で、この地獄のような日常から、あの美しい肉体の楽園へ逃げ込める。
『わかった。今すぐ買ってくる』
三万円の現金手渡しに比べれば、その半分だ。むしろ、この「本物の美女」の部屋に入れる権利を買えるなら、破格。
俺は迷わず、目の前のセブンイレブンへ入り、ジユにLINEした。
『いまセブンイレブンにいるよ。どうすればいい?』
『マルチコピー機で「プリペイド」を選んで』
ジユの指示通りに指を動かす。
画面に表示される「Vプリカ」のロゴ。慣れない手つきで一万五千円のボタンを押す。吐き出された一枚の受付票を握りしめ、レジへ向かった。
レジには、若くもないがベテラン風でもない、微妙な年齢の男が立っていた。俺が震える手で票を差し出し、一万五千円を支払おうとしたその時だ。店員のその瞳には、明らかな「困惑」と、そして「同情」に似た色が混ざっていた。
高額なプリペイド決済、そしてどこか浮き足立った俺の挙動。レジ周りの空気が、妙に重く停滞していた。
結局、彼は何も聞かず、事務的に会計を済ませた。引き換えに渡されたのは、一枚の薄いレシートのような紙切れだった。
すると、ジユからLINEが。
『買ったか?』
『うん。このあとどうすればいい?』
『そのレシートを撮って見せて』
(撮るのか?いちいち面倒だな)
寒空の中、コンビニの入り口付近で素直に指示に従い、写真を撮って送信した。その一万五千円は、電子の海へと消え、後戻りのできない「誓い」へと変わることに。
すぐにジユから返信が。
『確認できた。以前、エッチした男が激しい行為をしたせいで、家具が壊れたことがある。「家具破損の保証金」も込みで、二万円追加で送金して』
「……は?」
思わず声が出た。二万。一万五千円を払った直後の俺には、それはあまりに重い追撃だった。
『家具破損って、俺はそんな乱暴なことしないし、信じてよ。絶対に壊さないから』
必死に文字を叩く。だが、ジユは『お願い。送ってくれたらなんでもしていいから』と、一歩も引かない。
『無理だよ、二万なんて。もし俺が何か壊したら、その場で警察呼んでいいから! 逃げたりしないし、身分証も見せる』
警察。自分からその言葉を出した時、俺は自分が「いかに潔白で、誠実な人間か」を証明できたような全能感に包まれていた。警察を呼んでいいと言える俺は、決して悪人ではない。だからジユも、俺を信じてくれるはずだ――。
だが、ジユの返信は、そんな俺の「誠実さの安売り」をあざ笑うかのように、甘く、残酷だった。
『だめ。じゃないと部屋に入れない。会った時に現金ですぐ返すから』
俺は思考を「期待」へと無理やり捻じ曲げた。
『本当にこれで最後?二万送金したら会える?』
『送ってくれたら会える。これで最後』
『わかった。いまコンビニで買うから待ってて』
(……まあ、警察沙汰になるより、二万円払って穏便に済ませる方がスマートだよな。どうせ後で返ってくる金なんだし)
俺は目の前にあるセブンには戻れなかった。あの店員に接客されるのは気まずい。
面倒ではあるが、航空公園駅の東口側市役所方面にある別のセブンイレブンへ、冷たい北風に抗いながら小走りで向かった。
わざわざ場所を変えるという「手間」をかけることで、俺は自分がまだ冷静に状況をコントロールしているのだと思い込もうとしていた。
店に入り、マルチコピー機を操作する。二度目の、受付票。一万五千円、二万円。 俺の指先が画面を叩くたび、汗水垂らしてうどんを茹でて稼いだ金が、実体のない記号として虚空へ溶けていく。
財布からさらに二万円が消える。残高は、一万四千円。
『送ったよ。確認できた?』
だが、彼女の暴走は止まらなかった。
『確認できた。あと、身元確認としてその手数料分が必要だった。これで本当に最後。そしたら部屋へ来ていい』
その瞬間、俺の頭の中で張り詰めていた何かが「パチン」と、音を立てて弾け飛んだ。そして、視界が真っ赤に染まった。
俺はセブンイレブンの前で、狂ったように画面をタップした。
『ふざけんな 日本人を騙しやがって お前らみたいなクズは結局捕まるんだよ! 地獄に落ちろ』
ありったけの怒りを文章にしてぶちまけた。
だが、返信は『これで本当に最後』の決まり文句だけだった。
(……終わった)
財布を開く。そこには、使い古された免許証と、次の給料日まで凌ぐための全財産の一万四千円だけ。
「歩いて帰ろう」
時刻は十八時。
俺は自宅まで、凍てつく冬の夜道を歩き始めた。
(……なんだこの気持ち。清々しいというか)
そのとき、スマホが震えた。
『あと二十分で所沢着くー』
久美からのLINEだった。
「そっか、晩御飯どうしよ……」
俺は、かじかむ指で返信を打つ。
『ごめん、今日は簡単な湯豆腐にするね』
一時間前まで、俺は画面の向こうの幽霊に三万五千円もの金を捧げていた。
いままでのホテル代や交通費など合わせると、被害総額は十二万は超えただろう。
母親からの借金、バイトの前払い、預金残高のすべて。俺が積み上げてきた「生活」は、一瞬にして電子の海の藻屑と化した。
そう考えると、さっきの清々しい気持ちは消え、一歩歩くたびに、絶望が重くのしかかる。
横を通る車のヘッドライトが、俺の影を長く、醜く引き延ばした。
(ん?……)
俺はそのとき、瞬時に思考が働いた。
十二万という巨額の授業料を払って、俺は気づいてしまったのだ。奴らの「手口」を。奴らがどうやって、俺のような男の心を弄び、所沢という地名一つで踊らせてきたのかを。




