第6話 頼みの綱は母親のお金
「……そう。じゃあ明日午前中には振り込んでおくから」
スマホの向こうで、母親の溜め息混じりの声がした。
前回の出会いで、預金残高はほぼゼロ。
バイトの前払いを試みたが、三万四千円しか申請できなかった。
(まずいな……)
金額的に不足はなさそうだが、この先の固定費の支払いができなくなる。そこで、俺は母親に頼ることにした。
罪悪感はあった。しかし、そんな母親の存在が、今の俺には救いの綱に見えた。親の情けまで前借り、そこに保険としてアルバイトの前払いを申請してどんどん補う。
──すべては、あの子のために
「あっ、もしもし母ちゃん……」
「もしもし?どうしたの?」
「ごめん。お金貸してほしんだけど……」
「えー?……新一。いいんだけど、そんなギリギリで生活してるの?」
「うん、まぁ。急な出費があって……来月には必ず返すから」
「体は大丈夫なんだね?インフルエンザには注意してよ」
「うん、大丈夫」
「で、いくらなの?」
「五万……」
*
職場でも、うどんを茹でるタイマーの音が遠くの雑音にしか聞こえなかった。 頭にあるのは、千川に住んでいるという「彼女」のことだけだ。
低身長。
顔が小さい。
写真は一枚じゃない。
何枚もある。
部屋。
鏡。
外。
友達と撮ったっぽいのもある。
ディズニーで撮った写真まである。
(これは……さすがに本物だろ)
一人目とは、明らかに違う。
あっちは顔だけだった。
しかも一枚。
こっちは生活が写っている。
信じる理由は、十分だ。
そして「早く会いたいね」そのラインの一行が、俺の「投資」を「正解」だと錯覚させた。
次の子は本当だ。ここで諦めるわけにはいかない。
(……次こそ)
*
当日。十五時前に池袋駅北口を出ると、冬の湿った風が排気ガスの匂いを連れて顔にへばりついた。 待ち合わせ場所は北口出てすぐの「おかしのまちおか」の前。色とりどりの安売り菓子のパッケージが、今の俺にはひどく毒々しく見える。
(三万円、三万円……)財布を再度確認し、指でなぞる。なんとなくスマホの向こうで聞いた、母親の心配そうな声が耳の奥でリフレインしていた。「来月には必ず返すから」という嘘の味は、喉の奥に苦くこびりついて離れない。
シンデレラ城の前で無垢な笑顔を浮かべているロリ系女子。この「夢の国」の断片だけが、今の俺の救いだった。
*
待ち合わせ時刻の十五時になったとき、LINEの通知が鳴った。
「いま池袋の東口。もうすぐ着くよ」
(よかった)
正直俺は、本当に来てくれるのか?と半信半疑ではあった。「はぁ……もうすぐだ」自然と空を仰ぎ、笑みが溢れてしまう。
「……えっちゃん?」 と誰かが声をかけてきた瞬間、俺は事故にでもあったかのように全体がスローに感じた。
その「えっちゃん?」と、横から聞こえた声は、インスタに載っているキラキラしたあの容姿とは真逆の、ハスキーで濁った響きだった。
(見たくない、見たくない。俺はえっちゃんじゃない、えっちゃんじゃない)
しかし、もう一人の自分が覚悟を決めたのか、自然と首が右を向いた。そこにいたのは、俺と同じくらいの背丈がある、肩幅の広い女だった。
厚塗りされたファンデーションの隙間に、隠しきれない生活の疲れが。派手な色のコートからは、甘ったるいココナッツの匂いがする香水とタバコの匂いが混ざって漂ってくる。
「えっちゃんだよね?お待たせ」
「うん……」
俺は反射的に、自分でも驚くほど卑屈な笑顔を作った。騙された。完膚なきまでに。 今すぐ踵を返して、雑踏に紛れればいい。だが、池袋までの電車賃、親から借りた金、そして「えっちゃん」という甘い毒に浮かされたこの数日間が、俺の足を地面に縫い付けていた。ここでやめたら、俺のこの「期待」はどこへ捨てればいい。
「向こう行こう」
その女性は無料案内人のように慣れた感じで、俺を細い通りへと案内した。
(帰りたい……)俺はそれしか考えられなかった。
「ここでいっかなぁ……」
立ち止まったところは漫喫のような細い雑居ビルのようなところ。
「ここのホテルにしよう」
「うん、いいよ」
入ってみると、ホテルは前回よりは幾分広かった。だが、壁の薄さや、廊下の隅に溜まった埃は、ここが「愛」ではなく「処理」の場所であることを無慈悲に告げている。前回の老婆のいる受付とは違い、若い男が受付をしていたが、そんなところもいまはどうでもいい。
料金を払い、部屋へ入ると、お決まりの注意事項を言われた。
だが、俺は前回のように終わらせたくなく、なけなしの勇気を振り絞った。
「交通費?……交通費代まではないな」震える声を抑え、しっかりと演技をした。
すると、相手は「そっか。じゃあ次会った時に」と無表情に返したが、内心は怒り狂ってるかと思うと、この先不安に駆られた。
とはいえ、三千円分だけの小さな勝利。
シャワーを先に浴び、ベッドで待つ。(久美、ごめん)罪悪感が一瞬、胸を掠める。
やがて戻ってきた相手は、無造作にタオルを脱ぎ捨てた。シックスナインの形になる。鼻を突くのは、女の体臭と、安っぽい石鹸の匂い。俺は、せめてこの三万円分の「元」を取ろうと必死だった。もう二度と拝めないかもしれない「本物の女性器」を、この指に、この記憶に刻み込みたかった。
俺は指先を、ゆっくり中へと捩じ込んだ。
「えっ!? なに?」不快そうな声を上げた。俺の指が空を切る。
「ん?いや……ごめん」謝る自分の声が、部屋の四隅に冷たく跳ね返る。オナホで何度もシミュレーションしたあの角度、あの深さ。だが、現実はゴムの塊のように思い通りにはいかない。
やがて、相手が俺の上に跨った。騎乗位。その巨体は、いままで感じたことのない重量感があり、少し怖さも感じた。
俺は相手の顔も見たくないので、天井にある小さな染みを見つめる。
(気持ちよくない)脳が拒絶している。あんなに欲しくて堪らなかったはずなのに。
体位をバックに変える。俺は、縋り付くように女の腰を掴んだ。その時、ふと横にある鏡が、俺の視界に入った。そこに映っていたのは、猫背で、見ず知らずの女のケツにぎこちないリズムで突いている一人の男の成れの果てだった。
所沢の25平米のアパートで、豚しゃぶをつついているはずの俺。鏡の中の俺が、泣きそうな顔をしている。その自分を殺したくて、俺は無我夢中で腰を突き上げた。
「……っ!」
やり遂げた、というよりは、体内の「熱」を無理やり吐き出したようなフィニッシュだった。
女はさっさとベッドを下り、鏡の前で着替え始めた。「彼女はいるの?」背中で聞いてくる。
「……いないよ」俺は、抜け殻のような声で笑った。
「まぁ、いたらこんなところ来ないか」
女の吐き捨てた言葉は、どんな説教よりも正論だった。
「また連絡してね」という社交辞令を背中に受けながら、俺は部屋に残された。
*
時刻:十六時四十分
冷めた空気の中で、俺は急いで服を着る。早く帰らなきゃ。所沢の、あの狭くて、温かくて、逃げ場のない部屋へ。久美が来る前に、鍋を作らないと。
「豚肉、どこで買おう……」




