第2話 慣れた手つき
朝、目が覚めた瞬間に、俺の体はもう起きていた。
しかもいつもと違ってかなりうずく。
(……なんだこれ)
眠気より先に、そっちが来る。
それが気持ち悪く、でも、どこかで気持ちいい。
最悪だ。
隣では久美が寝ている。
薄い布団の上で、いつも通りいびきをかいている。
俺は、彼女に興奮しない。
もちろん、触れることはよくするが性行為までしようとは思わない。
久美の身体は「抱きたい」とは別だった。
“性欲のスイッチ”が、久美では入らない。
だからレスになった。
そして、久美が起きる前に、このモヤモヤをトイレで済ますのがルーティンにもなっていた。
*
「いってきまーす」
久美が出ていき、ベランダから彼女の姿を見送ると、一目散にトイレに入った。
(……朝イチで一回、済ませたのに)
最近、このパターンが多く、自分でも嫌になってきたがどうにも、性欲には勝てない自分がいる。なので、性欲があるうちは元気な証拠だと言い聞かせてもいる。
済ませた後は、二日酔いのような感じでペットボトルの水を一気飲みする。
だが、下半身は冷める気配はない。
俺はスマホを開いた。
一秒で分かった。
俺は今、“弱い”。
副業だの、未来だの、どうでもいい。
今欲しいのは、頭じゃない。体だ。
画面を指でスクロールするだけで、じわっと汗が出る。
(また時間の無駄な……いまやめれば楽になるのに)
と、自問自答するがやめられない。
俺は、俺の人生でいちばんどうでもいいことに、いちばん必死になってる。
自転車で職場へ向かう途中も、ずっとおかしかった。
ペダルを漕ぎながら、ズボンの布が擦れる。
その摩擦が、神経を拾う。
(……はぁ)
止まれ、と思うほど止まらない。
“勝手に火がついてる”みたいな感覚。
信号待ち。
周りの人間は普通の顔で立っている。
俺だけが異常。
俺だけが、世界の見え方が違う。
いや、世界が違うんじゃない。
俺の中の何かが、勝手に色をつけてる。
*
昼のピーク。
厨房は湯気だらけだ。
湯気が目にしみて、顔が熱い。
それも全部、勘違いの熱に見えてくるような。
「榎本くん、元気ないね?」
パートのおばちゃんが言った。
「うーん、寝不足かなぁ」
俺は笑って返した。
笑えたのが、自分で怖い。
俺、いま、普通を演じられる。
普通の顔を作れる。
でも体の奥は、ずっと濡れた火種みたいに熱い。
*
十三時を回り、昼のピークはまだまだ続くが、この辺で休憩に入らないと回らなくなる。そうなると、店長が何か言いたげな雰囲気があり俺はそれを察する。
(そろそろか……)
「榎本さーん。休憩入っちゃいましょうか」
いつも通り店長からの指示で俺は休憩時間に入った。
「お疲れ様です。それじゃ、休憩入りまーす」
俺はいつも通り控え室に行き、パソコンで休憩打刻を打つ。そして制服を脱ぎ、ラフな格好に着替えると、すかさず自分のロッカーからスマホとイヤホンを取り出して、トイレに駆け込んだ。
いつもだったら、ホールに出て賄いを食べるが、今日はそれどころではなかった。
トイレの鍵をかけ、個室に座る。
その瞬間――体より、頭がほっとした気持ちになった。
(やっと、できる)
俺は慣れた手つきで、スマホのブラウザからAVサイトに飛び、両手フリックで女優とタイトル名を瞬時に入力し、左にあるトイレットペーパーホルダーの上に置いた。
そして再生し、いつものポイントのシーンまで飛ばしてから行為をする。こんな自宅ルーティンをまさか職場のトイレでもするなんて。
画面には女優と、男優が風呂場でイチャイチャしているシーン。
俺は夢中になりながら、我慢し、さっきまでうどんを延ばしていた手を、今度は自分の性液を出すために使っていた。
目の端に入る唇。
少し濡れた感じの舌先。
豊満な胸元。
それを“情報”として拾った瞬間、俺の中が一気に濃くなる。
(……すごい)
たまに、厨房の方で聞こえてくる「いらっしゃいませー」の声が耳元に入ると、申し訳ない気持ちにもなるが、俺の欲求は止まらない。
(ごめんなさい、でも休憩だからね)
終わったあとの虚しさも、早かった。俺は最低だ。
最低だけど、頭をスッキリさせたかった。
鏡を見ると、なぜか微笑んでいる自分が、そこにいた。
(……俺、何やってんだろ)
そう思った。
でも、答えは出てる。
やってんだよ。
*
仕事が終わって、俺はいつも通りスーパーに寄った。
いつも通りの地域密着型。
いつも通りの棚。
いつも通りの値札。
豆腐。
ネギ。
えのき。
鍋が頭にある。
晩飯が先に決まってる生活。
最後に精肉コーナーへ行った。
豚肉が並んでいる。
脂の白さ。
赤身の色。
加工日。
俺はいつも通り、肩ロースを吟味する。
「今日も最高の豚しゃぶと共に、酒を飲んで、テレビを見て、ぐっすり寝ると」
豚しゃぶは、生活をちゃんとさせる。
しかも、思ったより節約できる。
「いいこと」しかない。
だから俺は今日も買う。
俺は、日常を守りたい。
壊したくない。
そのくせ、昼のトイレで、あんなことをした。
不釣り合いすぎて、笑える。
――笑えない。
俺はレジへ会計をしに行くと、見たことのない店員がそこに、いた。
(いつもの婆さん店員はいないのか)
見た感じ二十代後半といったところか。
細身で少し影のあるような感じ。長い髪で少し顔が隠れてるが、よく見ると鼻も高く、唇もグロスで艶があり、美人だ。
「いらっしゃいませ」
見た目同様、声も綺麗で思わずハッとしてしまった。
「あっ、お願いします」
その店員さんが商品を次々にスキャンしているのをいいことに、俺は首元から鎖骨、薄いニットの下の線。鼻、目、口、指先の爪の色までを舐め回すように見ていた。
(……だめだ、こんな見てたら変質者も同然だ)
財布を握りしめる。
そのとき、左手が目に入った。
――薬指に指輪。
そんな細部に目が止まった瞬間、俺の中の熱が、また跳ねた。
すぐに会計を済ませ、急いで商品を袋に入れ、なぜか逃げるように店を出た。
冬の空気が冷たい。
息が白い。
でも下腹は冷えない。
俺は、理由も分からないまま、
ただ確信だけを持ってしまった。
この感じは、
今日で終わらない。
むしろ――
明日の方がもっとひどくなる。そんな、予感がした。




