第9話 逆鱗
月明かりの下、巨獣「デモリッシュ・ボア」がその醜悪な巨体を揺らした。
地響きのような咆哮が村中に響き渡り、大気がビリビリと震える。しかし、アルノ・ステルモは眉ひとつ動かさない。解放された「竜騎兵」の闘気が、彼の周囲で静かに渦巻いていた。
「グルォォォォォッ!!」
デモリッシュ・ボアは、眼前に立つ人間を矮小な障害物と見なし、狙いを定めて突進を開始した。岩石をも砕く猪突猛進。並の騎士であれば、その風圧だけで吹き飛ばされるほどの圧力だ。
だが、その魔物は狡猾だった。
アルノの放つ圧倒的なプレッシャーを本能で察知したのか、突進の直前、わずかにその進路を逸らした。
「……ッ!?」
魔物の狙いは、アルノ本人ではない。
彼のすぐ背後に残されていた、辛うじて踏み荒らされずに残っていた「村一番の良田」――収穫を目前に控えた瑞々しい野菜たちが並ぶエリアだった。
デモリッシュ・ボアは、その巨大な鉤爪を高く振り上げる。
それは敵を殺すための攻撃ではない。ただ目の前の「命」を、快楽のために蹂躙するための暴力。
「させんと言っているだろうが……!!」
アルノの瞳が、漆黒の闇の中で青白く発火した。
一歩。
踏み込んだ足が土を爆ぜさせ、物理法則を無視した加速で魔物の懐へと潜り込む。
(魔剣格闘術:零式――『土穿』)
振り下ろされる巨爪が野菜に届く、その数ミリ秒前。
アルノの拳が、魔物の分厚い顎を下から突き上げた。
衝撃波がデモリッシュ・ボアの巨体を浮かせ、振り下ろされた爪は虚空を裂く。
「お前には、その一株の重みすら理解できないだろうな」
アルノの声は冷徹だった。
空中に浮いた魔物の胴体に、目にも留まらぬ速さで連撃が叩き込まれる。アタック、ブロー、戦意向上のバフが乗った一撃一撃が、魔物の硬質な皮膚を内側から粉砕していく。
ドォォォォォン!!
吹き飛ばされたデモリッシュ・ボアは、畑の「外」にある岩壁に激突し、めり込んだ。
アルノは剣すら抜いていない。ただの拳。しかしそれは、かつて数多の戦場を平定した、竜の咆哮に匹敵する一撃だった。
離れた場所で村人の護衛にあたっていたセルマが、その衝撃音を聞いて目を見開く。
「……馬鹿な。あのアタック音、素手か? 武器も持たずに、あのランクの魔物を……」
アルノは肩を上下させ、ゆっくりと立ち上がる魔物を冷たく見据えた。
「まだ立ち上がるか。いいだろう。お前が踏みにじった土の分だけ、その体に教え込んでやる」
静かな怒りが、真夜中の畑を支配していた。




