第8話 静かなる憤怒と覚醒
夕闇が村を包み込み、刻一刻と運命の刻限が近づいていた。
荒れ果てた畑の真ん中で、アルノ・ステルモは静かに仁王立ちをしていた。腕を組み、微動だにせず、ただ前方の闇を見つめている。
「アルノ……本当に私なしで大丈夫か? 相手の全容も掴めていないのだぞ」
背後から、心配そうにセルマが声をかける。
アルノは視線を動かさず、低く、しかし確かな声で返した。
「ああ。お前は村人を守れ。ここは俺の……いや、農夫たちの戦場だ。騎士団長の手を借りるまでもない」
その言葉に含まれた絶対的な自信と、抑えきれない怒りの熱に、セルマはわずかに気圧された。今のアルノは、かつて竜の背で戦場を俯瞰していた冷徹な騎士ではない。もっと泥臭く、もっと激情的な、命を育む者の守護者となっていた。
「わかった。村人の安全は私が保証しよう。……無茶はするなよ」
セルマが退き、村の広場へと向かう。
一人残されたアルノの周囲を、夜の静寂が支配した。
――ガサッ。
突然、不自然に草木が動き出した。
風はない。にもかかわらず、なぎ倒された樹木の向こう側の闇が、まるで生き物のように蠢いている。
同時に、大気を震わせるほどの重苦しい魔力が、微かに、しかし確実にアルノの肌を刺した。
(来たか……魔物め)
アルノはゆっくりと息を吐き出し、精神を極限まで研ぎ澄ます。
スローライフを送るために封印していた「力」。それを今、この理不尽な破壊者のために解き放つ。
(アタック、ブロー、戦意向上――オン)
身体の奥底で、眠っていた魔力が脈打ち始める。筋肉が収縮し、神経が加速し、視界の隅々にまで意識が行き渡る。
(剣格闘士、魔剣格闘士(魔導格闘術)――オン)
腰の小剣に手が伸びる。かつての愛剣ではないが、今のアルノの技術をもってすれば、枯れ枝ですら神剣に勝る凶器となる。拳と剣を一体化させる独自の戦闘技術が、彼の肉体に宿る。
(――竜騎兵、オン)
最後にその言葉が脳裏に響いた瞬間、アルノの全身から青白い火花のような闘気が噴き上がった。それは竜と共に空を駆けた者だけが纏える、王国の象徴たる輝き。
「グルゥゥゥ……ッ!!」
闇を切り裂き、その巨体が姿を現した。
月光に照らされたのは、岩石のように硬質な皮膚を持ち、四つの歪な瞳を爛々と輝かせる、巨大な猪型の魔物『デモリッシュ・ボア』だった。
その足元には、無惨に踏み潰されたばかりの苗がある。
アルノは静かに、しかし地獄の底から響くような声で告げた。
「おい、害獣。そこは……俺が……じゃない…この村の人々が育てようとしていた野菜たちの、仲間がいた場所だ」
魔物が咆哮を上げ、地面を激しく蹴る。
地響きと共に突進してくる巨体に対し、アルノは逃げるどころか、真っ直ぐに一歩踏み出した。
十五年の経験、そして新たな「農夫」としての情熱。
今、元竜騎士の圧倒的な蹂躙が始まろうとしていた。




