第50話 嵐のあとの静けさと、農夫の日常
嵐(魔王)が去ったあとの家の中は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
ついさっきまで、このリビングには騎士団長の声と、魔王のわがままな甘え声が響いていたはずなのだが。
エトリエルがソファに深く沈み込み、長い溜め息を吐き出した。
「はあ……。まあ、楽しいことは楽しいけど……。一国の主が公務を放り出して抜け出すのは、ちょっと考えものだよね」
「全くだ。あいつの行動力には、昔から振り回されっぱなしだよ」
アルノも同意して、台所の椅子に腰を下ろす。
「でも、魔王様がアルノにくびったけなのは、よーく分かったわ」
ルファスが窓際で髪を整えながら、くすくすと笑う。
「そうだね。僕たちも割り込む隙がないくらいだったもん」
「…………。まあな。あいつ(ユーミちゃん)は、昔からああなんだ」
アルノは少しだけ照れ臭そうに視線を逸らすと、膝を叩いて立ち上がった。
「さて、いつまでも休んでられない。畑の手入れをやりに行くぞ」
「おっけー!」
アルノの家の裏手に広がる広大な畑。
ここ数日の不在で、雑草たちが我が物顔で芽を伸ばしていた。
アルノは使い古された鍬を手に取ると、一気に「農夫の顔」になる。
ザクッ、ザクッ、と小気味よい音を立てて土を耕し、雑草を丁寧に抜き取っていく。
「エトリエル、そっちの畝の石を拾っておいてくれ」
「はーい! 任せて!」
「ルファス、少しだけ地脈を整えてくれるか? 植物たちが喉を渇かせているようだ」
「ええ、風と水の精霊に囁いてあげるわ」
エトリエルが石を運び、ルファスが杖をかざして柔らかな霧雨を降らせる。
アルノはそれを見守りながら、自らも土の感触を確かめ、栄養の状態を肌で感じ取っていく。
元竜騎士の超感覚は、今や「作物の声」を聞くために使われていた。
太陽が真上を通り過ぎ、心地よい汗が額を伝う。
土をいじっている時だけは、煩悩も、魔王のわがままも、ギルドの面倒な依頼も忘れることができた。
やがて、昼頃になる。
「よし、そろそろ今日の作業はやめにするぞ」
「はーい! ちょうどお腹空いた!」
アルノは泥を払い、収穫したばかりの野菜をカゴに詰め込んだ。
「市場へ納品しに行くついでに、今日は市場で飯にするか」
「やった! 市場のご飯、大好きなの!」
三人は連れ立って王都の市場へと向かった。
馴染みの八百屋への納品は、相変わらず「アルノさんの野菜は質が良い」と絶賛され、無事に終わる。
その後、活気あふれる市場の屋台を巡り、串焼きの肉と揚げパンを買い込んだ。
「これ、美味しい!」
エトリエルが熱々の串焼きを頬張り、目を輝かせる。
「そうね。大地のエネルギーがそのまま料理になっているわ」
ルファスも上品に、だがしっかりと揚げパンを口に運んでいた。
市場の喧騒、人々の笑い声、焼ける肉の匂い。
これが、アルノが守りたかった平和な日常の光景だった。
家に戻ると、夕方の影が長く伸び始めていた。
「さて、明日はギルドに行かなきゃならんからな。早めに準備を済ませるぞ」
アルノは手際よく夕飯の支度を始め、同時にお風呂の火を焚きに走る。
明日の「ボリスの用件」が何であれ、今の彼には、この賑やかで静かな家での時間が、何よりも大切な守るべきものになっていた。




