第44話 湯煙に揺れる恋心と、静まらないアルノ
月光が岩肌を白く照らし、立ち上る湯煙が幻想的なカーテンとなって四人を包み込む。
リーディア村の奥地にひっそりと佇むこの秘湯。本来なら旅の疲れを癒やす静寂の場であるはずだが、今のここは、世界の勢力図を塗り替えかねない「規格外」たちが集う、カオスな空間と化していた。
「ひゃっはー! このお湯、最高に気持ちいいよ!」
静寂を真っ先に切り裂いたのは、上位魔族のエトリエルだった。彼はタオルを頭に乗せたまま、広い湯船の端から端まで、まるで子供のようにバシャバシャと豪快に泳ぎ回っている。
「こらぁ! エトリエル! 温泉はプールじゃないんだぞ! バシャバシャ泳ぐな、お湯が飛び散るだろうが!」
アルノが、湯船の隅で小さくなりながら怒鳴る。二日酔いの頭痛がようやく引いてきたというのに、今度は胃がキリキリと痛み始めていた。
「えぇー? いいじゃん、アルノ。こんなに広いんだからさ。姫様も一緒に泳ごうよ!」
エトリエルが水飛沫を上げながら、現魔王であるユーミを誘う。しかし、ユーミは濡れた黒髪をかき上げながら、不敵な、そしてどこか乙女チックな微笑みを浮かべて首を振った。
「私は泳ぐよりも……こうしてアルノに引っ付いている方が、ずっと楽しいもの」
そう言うや否や、ユーミはアルノの左腕をガシッと抱え込んだ。
温泉の熱気とは別の、ユーミの体温がダイレクトに伝わってくる。タオル越しとはいえ、彼女の柔らかな感触と、わずかに漂う甘い香りが、アルノの理性を容赦なく削っていく。
「ちょ……ユーミちゃん、近いって! 離れろ!」
「やだ。戦時中はいつも私から逃げてたでしょ? 今はもう平和なんだから、捕まえておかないとまたどこかへ隠居しちゃうもん」
「隠居はもうしてるんだよ! 俺は今、ただの農夫なんだ!」
「ふふ、最強の農夫ね」
ユーミは楽しそうにクスクスと笑い、さらに力を込めてアルノの腕に頬を寄せた。その様子を泳ぎながら眺めていたエトリエルは、くるりと水中で一回転して鼻を鳴らす。
(へぇ……姫様、あんなに楽しそうなんだ。いつも玉座で退屈そうにしてる姿とは大違いだなぁ。……いいなぁ、僕もアルノに引っ付こうかな?)
エトリエルは悪戯っ子のような瞳を輝かせ、アルノの右側へとスルスルと泳ぎ寄る。
一方、少し離れた岩場に背を預けていたルファスは、静かに湯に浸かりながらその光景を見つめていた。
高位精霊である彼女は、周囲の空気が甘く、そして激しく波立っているのを感じ取っていた。
(アルノには……やはりユーミ姫様という方がいたのね。昔からの絆、魂の結びつき……。精霊の私から見ても、二人の波長は驚くほど重なり合っているわ)
ルファスは自分の指先を見つめる。
アルノの家での暮らし。彼の作る不器用ながらも温かい料理。そして、先ほど自分たちを助けるために見せた、圧倒的な強さと優しさ。
(でも……私も、彼のことが好きだわ。精霊として、一人の女性として。……姫様が相手でも、この心地よさを譲るつもりはないわよ?)
ルファスは不敵な笑みを口元に浮かべると、ゆらりと立ち上がった。薄いタオルが肌に張り付き、その完璧なシルエットが露わになる。彼女はそのまま、アルノの正面へと進み出た。
「アルノ、お湯の温度はどう? 熱すぎたら、私が風の精霊を呼んで冷ましてあげましょうか?」
「い、いや、大丈夫だ! 適温だ、完璧だ! だから……お願いだから、これ以上近づかないでくれ!」
正面に絶世の美女精霊、左腕に愛くるしい魔王、そして右側からは無邪気な上位魔族が。
四方を「欲望」と「好意」に囲まれたアルノは、湯船の中で完全に袋の鼠となっていた。
(……神様。俺、何か悪いことしましたか? 静かに土をいじって、ナスとかピーマンとか育てて、たまにラッドを撫で回す……そんなささやかな幸せを願っただけなのに!)
アルノの悲鳴に近い自問自答は、温泉の心地よい水音にかき消されていく。
「アルノ、顔が真っ赤。のぼせちゃった?」
「私が仰いで差し上げるわ、アルノ」
「ねえねえ、アルノ、背中流しっこしようよ!」
「や・め・ろぉぉぉ!!」
夜の秘湯に、元竜騎士の絶叫がこだまする。
魔王、精霊、魔族。人外の美女(と美少年)に翻弄される彼のスローライフは、リーディアの温泉のように、熱く、そしてどこまでも濁ることなく(?)波乱に満ちていくのであった。




