第35話 最強の敵は己の内にあり
翌朝、アルノは微かな寝不足と、拭いきれない敗北感を抱えて目を覚ました。
かつて戦場で対峙した巨大な飛竜や、数多の伏兵を退けてきたアルノにとって、リーディアへの道中そのものは、本来なら朝飯前の仕事に過ぎない。街道の起伏も、時折現れる程度の低ランクの魔物も、今の彼にとっては「単純」な障害でしかなかった。
しかし。
(……煩悩に打ち勝つ方が、竜を討つより何倍も難しいとはな)
アルノは、前を歩くエトリエルとルファスの後ろ姿を見つめながら、心中で深く溜め息をついた。
昨夜の温泉、そしてテントでの悶々とした時間。
脳裏に焼き付いた二人の無防備な姿や、記憶に新しいセルマの肉体美、さらにはラッドのあのもふもふとした毛並みの感触が、代わる代わるアルノの精神を揺さぶりにくる。
「ねえアルノ、顔色が悪いよ? さっきからずっと難しい顔して、地面の蟻でも数えてるの?」
エトリエルがひょいと顔を覗き込んできた。その屈託のない笑顔が、今は最大の攻撃呪文のようにアルノの理性を削る。
「……放っておけ。今後の農業計画について考えていただけだ」
「あら、それは素敵ね。でも、あまり考えすぎると地脈の気が乱れるわよ。ほら、深呼吸して」
ルファスがそっと背中に手を添える。精霊特有の心地よい魔力が流れ込んでくるが、その手の温もりが、またしても昨夜の「密着状態」を思い出させてしまう。
(いかん。意識するな。俺は銀等級の冒険者だ。新人二人の引率役だ。……そうだ、俺は今、崇高な義務を果たしている最中なんだ!)
アルノは心の中で「無」を唱え、必死に欲望の火種を鎮火しようと試みる。
しかし、隠居して農夫となり、平穏な生活を送るはずだった彼にとって、この「人外」たちの放つ天然の誘惑は、あまりにも刺激が強すぎた。
かつて「不屈の騎士」と呼ばれた男は、今、人生で最も過酷な修行に直面していた。煩悩という名の魔物は、剣では斬れず、魔法でも払えない。
「よし……。あと少しでリーディアだ。……仕事に集中するぞ。仕事だ、仕事!」
自分自身を鼓舞するように声を張り上げたアルノに、二人は顔を見合わせて「急にどうしたんだろうね?」と不思議そうに首を傾げるのだった。




