第3話 不可抗力の登録
静まり返ったギルド内に、若者が床に転がる乾いた音だけが響いていた。
アルノ・ステルモは、無意識に動いてしまった自分の右手を恨めしく見つめた。
十五年という月日は、頭では引退したつもりでも、肉体には消えない刻印を残していたのだ。
「さあ、そうと決まれば話は早いです。こちらへどうぞ。早く登録をしてくださいませ」
受付のカウンターから身を乗り出したのは、柔和な笑みを浮かべた女性職員だった。
その目は笑っているが、獲物を逃さない捕食者のような鋭さが宿っている。
彼女の目の前には、すでに冒険者登録用の羊皮紙と羽根ペンが用意されていた。
「いや……あの、俺は見学に。そう、あくまで社会科見学のようなもので……」
アルノは後ずさりしながら弁明するが、背後には岩のような壁が立ちはだかった。
先ほど部屋から出てきた強面の大男――このギルドのマスターであるボリスが、筋骨隆々の腕を組んでガハハと笑う。
「ガッハッハ! 何を言ってるんだ、おめーさん! 今の凄いことをやったのを、まだ隠すつもりか? あんな綺麗な『返し』、並の修練じゃあ一生かかっても拝めねえぞ!」
(やばいな……『返し手』をしたことがこんなにも騒ぎになるとは)
アルノは内心で顔を覆った。
竜騎時代、彼は空中戦だけでなく、落竜した際の護身としてあらゆる対人技術を叩き込まれていた。
王国騎士団の正統な組手、東方の島国に伝わる合気、そして辺境の聖域で学んだ修道拳法。
それら一通りの技術をマスターしていた彼にとって、先ほどの若者の突進をいなすなど、畑の虫を払うよりも容易なことだった。
しかし、ここは海千山千の冒険者が集う場所だ。
その「容易な動作」に含まれる絶大な実力の差を、彼らは見逃さなかった。
「……はぁ」
隣では、この事態を招いた張本人であるはずのセルマが、わざとらしく手を額に当てて溜め息をついていた。
彼はわざとアルノの耳元に顔を寄せ、小さな声で囁く。
「やっちまったな、アルノ。あれだけ大勢の前で実力を見せつければ、もう『ただの農夫』という言い訳は通用しないぞ」
(くっそー、全部お前の計算通りなんじゃないのか……!)
アルノはセルマを睨みつけるが、騎士団長はどこ吹く風で「やれやれ」といったポーズを崩さない。
周囲の冒険者たちからも、「おい、あのおっさん何者だ?」「さっきの動き、見えたか?」と、好奇の視線が突き刺さる。
「ほら、アルノさん。名前と年齢、それから簡単な経歴を書くだけでいいんです。今なら特別に、登録料もセルマ団長のツケにしておきますから」
「私のツケか……。まあいいだろう、未来の英雄への投資だ」
受付嬢とセルマの息の合った連携に、アルノは逃げ場を失った。
ここで拒否し続けて騒ぎを大きくすれば、ますます目立ってしまう。
逆に、名前だけ貸して適当な依頼を一つ二つこなして、「やっぱり才能がありませんでした」と引退する方が、平和なスローライフへの近道かもしれない。
(……一度だけだ。一度登録して、形だけ実績を作って、それで終わりにする)
アルノは諦めたように溜め息をつき、羽根ペンを手に取った。
羊皮紙に「アルノ・ステルモ」と、十五年間書き続けてきた署名を記す。
「……書いたぞ。これで満足か?」
「はい、完璧です! ようこそ、冒険者ギルドへ! あなたの等級は、特例により……」
「特例?」
アルノが眉をひそめる。
通常、新人は最下級のランクから始まるはずだ。
「ええ。王国騎士団長殿の推薦状と、今のデモンストレーションを加味しまして……いきなり『銀等級』からのスタートです!」
ギルド内がどよめきに包まれる。
銀等級。それは中規模の街一つを救えるほどの実力者に与えられる称号だ。
「ちょっと待て! 話が違う! 俺はスローライフを送るために……!」
「ガッハッハ! 銀等級なら指名依頼も来るぞ! 早速だが、アルノ。ちょうど困っていた件があるんだ。おめーさんにしか頼めねえような、厄介な奴がな」
ギルドマスターのボリスが、不敵な笑みを浮かべて一枚の依頼書を叩きつけた。
アルノの視界が、さらにスローライフから遠ざかっていく。
背後でセルマが「頑張れよ、銀級冒険者どの」と楽しげに笑う声が、一番の騒音だった。




