第1話 突然の引退宣言
王都の喧騒が遠くに聞こえる王国騎士団の演習場。西日に照らされた石畳の上で、一人の男が深く頭を下げていた。
アルノ・ステルモ、二十九歳。
背中には、王国騎士として、そして選ばれし「竜騎」としての誇りである紋章が刻まれている。しかし、その表情には迷いも、未練もなかった。
「――以上をもちまして、私は王国騎士団を退役させていただきます」
凛とした声が響き渡る。その言葉を受けたのは、現・王国騎士団長……ではなく、当時はまだ次期団長候補の筆頭として頭角を現していたセルマ・アンドルフだった。
整った顔立ちを驚愕に歪め、セルマが一歩前に踏み出す。
「正気か、アルノ! 君はまだ二十代だ。竜騎としても全盛期、これから騎士団の要として国を支えていく立場じゃないか!」
セルマの叫びは、周囲で見守っていた他の騎士たちの心を代弁していた。
アルノとセルマは、十五年前の同じ日にこの門を叩いた同期だ。
共に泥にまみれ、剣を振り、五年前にはアルノが先に「竜騎」という至高の座を掴み取った。セルマはその背中を追い、今や団全体を統べる立場にまで上り詰めた。二人は、これからの王国を担う「両翼」になると誰もが信じて疑わなかったのだ。
「ああ、正気だよ。むしろ、これほど頭が冴え渡っているのは人生で初めてかもしれない」
アルノは顔を上げ、穏やかに笑った。
その瞳には、戦場での鋭さは微塵も残っていない。
「十五年だ。この剣一本で、随分と遠くまで来た。竜の背に乗って雲を突き抜け、王国の守護者として働いてきた自負はある。だがな、セルマ。俺は昨日、ふと気づいてしまったんだ」
「何にだ……?」
「俺は一度も、自分の手で土を耕し、種をまき、それが芽吹くのをじっくりと眺めたことがない。命を守るために戦ってきたが、命を育てる喜びを知らないまま死ぬのは、なんだか損をしている気がしてな」
セルマは絶句した。
最強の竜騎士が語る引退の理由が「畑いじり」だというのだ。冗談にしても笑えない。だが、アルノの目は真剣そのものだった。
「本気……なんだな」
「ああ。もう住む場所も決めてある。王都の郊外、少し歩けば森が見える静かな場所だ。あそこで俺は、剣を鍬に持ち替え、竜の咆哮ではなく小鳥のさえずりで目を覚ます生活を送る。これからはアルノ・ステルモとしてではなく、ただの村人として生きていくよ」
アルノは腰に下げていた、竜騎の証たる輝剣を解き、セルマの手元へと預けた。
金属が触れ合う冷たい音が、一つの時代の終わりを告げる。
「……納得はいかない。だが、君が決めたことだ。止める権利は、今の私にはないのかもしれないな」
セルマは苦々しく剣を握りしめた。
その瞳の奥には、友を失う悲しみと、理解しがたい決断への憤りが混ざり合っていた。
それから数日後。
アルノは宣言通り、わずかな荷物だけを持って王都を後にした。
向かった先は、地図の端にひっそりと記された郊外の土地。そこには古い、しかし手入れの行き届いた一軒家があった。
「よし、今日からここが俺の戦場だ」
アルノは、鎧を脱ぎ捨て、麻のシャツに着替えた。
手にしたのは名工が鍛えた剣ではなく、近所の道具屋で買った安物の鍬だ。
日光を浴びながら土を掘り返すと、鼻腔をくすぐる土の匂いが心地よい。
(ああ、これだ。俺が求めていたのは、この静寂なんだ)
かつて戦場で、火炎を吐く魔物と対峙していた男は、今、一粒の種を丁寧に土の中へと沈めていた。
ナス、ピーマン、トマト。
ありふれた野菜たちが育つ未来を想像するだけで、胸が高鳴る。
数ヶ月が経ち、アルノの生活は理想的な「スローライフ」そのものだった。
朝は太陽と共に起き、午前中は畑の手入れ。
午後は近隣の森へ散策に出かけ、夜は自家製の野菜を使った質素だが贅沢な食事を楽しむ。
たまに訪れる近所の老婆と、天候について語り合う。それだけで十分だった。
しかし、運命は最強の男を放っておいてはくれなかった。
ある晴れた日の午後。
アルノが庭のベンチに座り、収穫したばかりの野菜を眺めていた時のことだ。
遠くから、規則正しい馬蹄の音が聞こえてきた。
それは村人が使う荷馬車の音ではない。鍛え抜かれた軍馬が刻む、重厚なリズム。
アルノの背筋に、かつての勘が走る。
やがて、家の前に一騎の男が現れた。
まばゆいばかりの銀の甲冑を身にまとい、マントを翻すその姿は、この穏やかな農村にはあまりにも不釣り合いだった。
男は馬から降りると、真っ直ぐにアルノの元へと歩み寄る。
そして、堂々たる声で名乗った。
「アルノ・ステルモ。久しぶりだな。」
「セルマ・アンドルフ……いや王国騎士団長セルマ・アンドルフ様というべきか?」
「堅苦しくしなくていい」
アルノは大きくため息をついた。
手元のナスをカゴに置き、重い腰を上げる。
「……団長様がこんな田舎に何の用だ? ここは税金の取り立てに来るような場所じゃないぞ」
「挨拶は抜きだ。単刀直入に言う。アルノ、君に折り入ってお願いしたいことがある」
セルマは真剣な眼差しで、かつての友を見つめた。
その言葉は、アルノの平穏な日常を粉砕するに十分な衝撃を持っていた。
「冒険者になれ。君には、その素質がある」
「お断りだ」
アルノは即答した。
食い気味に放たれた拒絶に、セルマは怯むことなく続ける。
「聞け、アルノ。今の冒険者ギルドは人材不足だ。特に高難度依頼をこなせる実力者が圧倒的に足りない。君のような、竜を駆り戦場を支配した男が、こんな場所で土にまみれているのは国家的な損失なんだ!」
「俺はもう、剣を置いたんだよ。今の俺の関心事は、この畑のトマトが明日どれくらい赤くなるか、それだけだ。冒険者なんて、スローライフの対極にある職業じゃないか」
「だめだ! 君のような素質ある人間は、冒険者になるべきなんだ。世界は君を必要としている!」
二人の会話は、かつての演習場でのやり取りを彷彿とさせた。
変わったのは、場所と、二人の立場だけ。
「とにかく、今日はもう帰ってくれ。日が暮れる前に畑の水をやらなきゃならん」
「……今日は引き下がろう。だが、私は諦めないぞ」
セルマはそう言い残し、嵐のように去っていった。
アルノは一人、静かになった庭で天を仰いだ。
「……スローライフへの道は、思ったより険しいらしいな」
こうして、平穏を愛する元竜騎士と、彼を再び表舞台へ引きずり出そうとする団長の、奇妙な攻防戦が幕を開けたのである。




