第20話 北へ
午前の空はどこまでも薄く、白い。雲という言い訳がないぶん、明るさは頼りない。校門の前にはバスが三台、鼻先を北に向けて並んでいた。白い車体の側面に泥の線が縞のように走り、窓の下は固まった雨跡でざらついている。エンジンはかすかに震えて、止まっているのにどこかへ動いている音を出していた。
体育館では、燈が長机に広げた乗車名簿に目を落としていた。名簿の白い欄に、空白が点々とある。行かない人。行けない人。行きたくない人。鉛筆の先で一つひとつの空白をなぞると、紙の繊維が指にささってくる感じがした。名前がない場所は軽いはずなのに、目の奥には重さとして残る。
「配列、あと五分で確定する」
御影が報告し、配電のメモを名簿の隅に滑らせた。バスの内部電源、酸素ボンベの予備、救護箱の位置。彼の文字は細く、紙の上で迷いがない。迷いがない字は、頼りにできる。頼りにできる字があると、息が少し深くなる。
「先頭車に救護を集約。二台目に子ども。三台目は残留物資。大人は一と二に分散」
燈は短く指示を出しながら、名簿の空白に視界が吸い込まれるのを何度も戻した。空白の横に、小さな丸が並ぶ。丸は保留の印だ。保留は悪くない。悪いのは曖昧にしたまま進むことだ。彼女は丸のいくつかを線で結び、角にメモを書いた。
「迎え班が再訪問」
宙は体育館の裏でダンボールを切っていた。マジックで大きく「行き先:北」と書き、矢印を太く塗って、持ち手の穴の角を布テープで補強する。強い色の矢印は、見ているだけで肩が上がる。嘘ではない。行くのだ。北へ。
凪は無線のチャンネルを合わせ、北側の中継所の周波数を一度だけ叩いた。応答はない。ないことは知っている。それでも叩く。叩くことが、行く前の礼儀だ。海斗は校庭の隅で荷物の仕分けをして、子どもにリュックの背負い方を教える。肩と腰で持つ。肩だけだと疲れる。腰で受けると長く歩ける。長く歩ける人が多いほど、途中で止まる人は堂々と止まれる。
茉莉は木箱から便箋を取り出し、短い本文を書いた。宛先、明日の私たちへ。差出人、今日の私たちより。最後の集団移転の日。バスは三台。行かない人、行けない人、行きたくない人。輪は二つに分かれる。残る班と、先に行って迎える班。どちらも同じ名前。どちらも校舎。読み上げて、角を折る。
柊は体育館の入口の柱に寄りかかって、欠けたレンズを親指でそっと撫でた。今日は撮るべきか、置くべきか。躊躇の居場所を、まだ決めかねている。レンズの縁の欠けは、指先に触れると冷たく、真ん中は体温でぬるい。外のバスのドアが開く音がして、薄いゴムの匂いが流れ込んできた。
苑は譜面台のない場所で紙を胸に当て、指で空中に小さな合図を書いた。声は出ない。でも、二つの輪が同じ高さで息を合わせるための最初の印は、手で作れる。彼女は指を丸め、ほどき、また丸めて、短くうなずいた。
出発の直前、体育館の奥で小さな騒ぎがあった。母親が腕に小さな子を抱え、もう片方の手で飼い犬の首輪を掴んでいる。子は熱があり、犬は小刻みに震えている。名簿の「動物」は一番下に書かれ、欄外に矢印でつながれていた。欄外にあるからといって、軽いわけではない。
「犬は——」
御影が口を開き、言葉を選んで止まる。衛生のこと、車内のこと、ルール。ルールは人を守るためにある。けれど、今この手にかかっているものを丸ごと切るためのものではない。
海斗が走った。倉庫の奥から古いキャリーを見つけ、扉の金具を布テープで補強して持ってくる。犬は見知らぬ箱に入るのを嫌がり、母親の腕に爪を立てる。凪がしゃがんで目線を合わせ、首輪に指をかけた。指先の力は強くなく、声も出さない。ただ、目を閉じた時に見える暗さと同じ濃さで見つめる。犬は凪の匂いをひとつ嗅いで、鼻を鳴らし、キャリーに入った。
「迎え班で様子を見る。最初の休憩で水を」
燈が短く言い、名簿の欄外に小さな丸を描く。犬の名前の代わりに、丸。丸はここにいる印だ。
出発の時刻は腕時計の文字盤よりも、空の色で決まった。白い空の奥がわずかに青くなった。バスのドアが一斉に開き、ステップが低くなる。人の流れは速くない。急ぐとこぼれる。こぼれると戻れない。列の途中に、踊り場の印がいくつか置かれている。宙が書いた丸の紙、茉莉の折った角、海斗が砂に描いた小さな弧。そこで一度振り返り、荷物の重さを肩から腰に移し、息を合わせる。
燈は最後尾で名簿を持ち、各列の終わりに短い線を引いた。線は「ここで切れる」の合図。切ることで繋がる。切らないで繋げようとすると、どこかで裂ける。
「先行は一台目。戻って迎えるまで、二十四時間予定」
御影がバスの運転手に配電表を手渡し、内蔵電源の取り扱いを説明する。運転手は黙って頷き、片手でハンドルを叩いて癖を確かめる。癖は人にも車にもある。癖が分かれば、無理をかけずに済む。
宙がダンボールの看板を掲げた。行き先:北。矢印は真っ直ぐ。矢印が真っ直ぐでも、道が真っ直ぐとは限らない。限らないことを知っているから、矢印は太い。
「分ける。残る班は物資と名簿、無線。先行班は交渉と電源、案内。集合の合図は——」
燈が言いかけ、言葉を選び直す。風鈴。風鈴は今、校舎の軒にない。音のない風鈴を合図にするわけにいかない。
「合図は、手。右手を二回」
宙が言って、二度、空を軽く叩いた。叩いた空気がほとんど音にならない。そのほとんど、が今はちょうどいい。
分かれる瞬間は、予告なしでやってきた。バスのドアが半分閉まり、半分開いたまま止まる。まだ乗れる。まだ降りられる。まだ選べる。選び直す猶予があるうちは、足が重くなる。重くなると、列が止まる。止まると、後ろの人の息が揃わなくなる。
柊は一台目のドアの前で一度立ち止まり、ステップに片足をかけてから足を下ろした。エンジンの振動が足の裏から膝まで上がってくる。乗ってこの振動の上で夜を過ごすのか、降りてこの砂の上で夜を過ごすのか。砂の上のほうが、今はまっすぐに感じる。
「俺、残る」
誰に言うでもなく言った。近くにいた凪がうなずき、海斗がほとんど同時にうなずいた。茉莉は箱を抱え直し、名簿の燈は何も言わずに柊の名前の右に小さな丸を付けた。丸は輪の中に残る人の印だ。
「先行は、燈、御影、宙、苑」
凪が確認する。自分の声が少しだけ高くなっているのを、彼女は耳の奥で気づく。気づいて、一拍置いて抑える。抑えることは弱さではない。抑えたぶん、遠くへ届く。
「迎え、任せる」
柊が言う。言葉は短く、乾いている。乾いているのに、喉の奥はしっとりしている気がした。湿っているのは、いちいち言葉にしないほうがいい種類の温度だ。
「残り、頼む」
燈が返す。どちらにも「さよなら」は含まれていない。「またあとで」だけが、同じ高さで往復する。
苑は柊の前に立ち、紙を胸に押し当てたまま、手を軽く上げた。二度、空を叩く。柊も真似をする。指先の骨が細く当たる。その短い合図だけが、握手の代わりになった。握ると離れる。離れると寂しさが手に残る。手に残る寂しさは悪くないが、今は指先に印だけを残すほうがいい。
宙は笑って片手をひらひらさせ、御影は工具袋の口をもう一度確かめ、燈は名簿を抱え、苑は紙を胸に置いたまま、階段を上がるみたいにバスに乗った。車内の匂いはゴムと埃と、人の汗が薄く混ざっている匂い。外の匂いよりも少しだけ暗い。
「行って、必ず戻る」
御影が運転手に配電表の最終確認をして戻り際に言った。それは誰に向けた言葉でもなく、自分の足に向けた言葉だった。言い聞かせるのは、信じることの準備だ。
ドアが閉まる。窓ガラスに外の輪が写る。輪が二つになった。バスの内部の狭い空間で、四人は座席の背に手を当て、互いの顔を見る。喋らない。喋らないことで、言葉を使わずに済む。言葉は大切だ。大切なものは使い過ぎない。必要なときに届くように残しておく。
エンジンが唸り、前のめりに少しだけ揺れて、バスはゆっくりと動き始めた。校門の前で右に切れ、校舎の影を長く引きながら、北に鼻先を向ける。二台目、三台目も続く。残る班の人たちは並んで道の端に立ち、手を上げる。二度。二度、空を叩く。バスの中で宙が同じリズムで座席の背を二度軽く叩く。空の代わりに、ここでは椅子を叩く。
角を曲がるとき、風鈴が一度だけ鳴った。校舎の軒には風鈴はもうない。それでも鳴った音は確かだった。誰かが息で短く触れたみたいに、澄んで、すぐ消えた。消えたあと、手のひらの真ん中が少しだけ温かくなった。
バスの窓から見える町は、いつもの色と違っていた。見慣れた店の看板は斜めになり、空き地の草は倒れ、電柱の上の配線は弛んでいる。けれど、道はまだ道だ。左右に歩道があり、横断歩道の白線が薄く残り、角を曲がるときの視界の開け方が、身体の記憶と一致する。それが救いだった。
車内では、苑が窓に額を少しだけ近づけ、紙を膝に置いて指で折り目をつけていた。声は出ない。でも、歌はそこにいる人の心臓に合わせて形を変えることができる。紙に小さな音符を描き、角をほんの少し折る。折ったところが、次に声が出そうな場所の目印になる。
宙は座席の背にマジックで小さな矢印を描いた。前へ、と。矢印は小さい。小さいほうが、手のひらで隠せる。隠せるものは、自分で出せる。出すタイミングを選べる。
御影は窓の縁のゴムを指で押して、わずかな隙間風の具合を確かめた。空調は弱く、電源は節約。人の熱は上に溜まる。上に溜まった熱を逃がす方法を、数式ではなく手の感じで決める。数式はいつでも後で追いつく。今は、指先の判断が先だ。
燈は名簿を膝の上で閉じ、短く目を閉じた。名前の列は紙の上に残っている。空白の列も残っている。空白の横に丸がある。丸はここにいる印。空白に丸が付く日も、たぶん来る。迎えに戻る班の丸だ。その日までは、空白は空白のままでいい。余白があるほうが、書き足せる。書き足せると、呼びやすい。
残る班は、砂の上に輪を作り直した。バスの埃が落ち着くまで、誰も動かない。動かないとき、風だけが動く。風の輪郭が見えるくらい、静かだった。やがて、柊がカメラを上げた。あの瞬間を、たぶん一枚だけ撮るべきだ。レンズの欠けた縁に光が集まり、砂の上の小さな丸と、人の足の影と、体育館の扉の黒が一枚の中で均衡を取る。シャッターを切る音は小さくて、すぐに砂の音に混ざった。
凪は無線を肩に掛け直し、北の周波数に耳を傾けた。ノイズの粒が今日は少し細かい。細かい粒の間に、氷のような薄い音が混ざる。遠い。遠いけれど、方向がある。方向があると、待つことができる。待つことは、何もしないことではない。待つ間に、息を整える。息が整うと、言葉が短くなる。短い言葉は落ちない。落ちない言葉は、届く。
海斗は校門の前に砂で長い矢印を描き、矢印の途中に小さな丸をいくつか置いた。丸は踊り場。踊り場は増やしていい。増やしたぶん、速く走れる。速く走れる人ほど多く止まれる。止まれる人が増えると、渡る人の数が増える。
茉莉は木箱の上に便箋を置き、声に出さずに読む練習をした。バスが行ったこと。行かなかった人がいること。残った人がいること。どちらも同じ言葉で呼べること。ここは教室で、向こうも教室。輪の形が違うだけ。読み終えて、角を折る。折った角は、今日一日の目印だ。目印が多い日は、迷わない。
午後、風が変わった。北から乾いた匂いが落ちてくる。山の向こうで降った雨の匂いかもしれない。雲は薄く伸び、光は水平に近づいた。残る班は体育館の前に風よけを作り、砂の上に広げた地図に小さな石を置いて、迎えのルートを確認した。迎えは行くほど難しくなる。戻るためには、行くより多くの印がいる。印は紙にも砂にも、人の手にも置ける。置いた数だけ、待てる。
夕暮れ、無線が短く鳴った。凪が身を起こし、ダイヤルを微調整する。御影の声だ。車の振動の薄い響きと、窓の隙間風の音と、人の座る気配を背に乗せた声。
「北、見えてきた。高台に白い建物。電源、いける。水、確認中。宙が入口の看板を描いてる。燈が交渉、順調。苑が、手で歌ってる」
言葉が短く、必要なものだけ並んでいる。並んだ言葉の端に、宙の笑いが薄く混ざった。
「迎えルート、東側、一本開いてる。坂、滑りやすい。夜は休んで、朝、迎えに戻る」
凪は「了解」を短く返し、砂の上の地図の東側に指を置いた。そこに丸を増やす。踊り場を一つ増やす。待つ場所が増えると、迎える足が軽くなる。
夜は、思ったより早く落ちた。校舎の影は一つにまとまり、体育館の前では毛布がいくつかの山を作った。残る班の輪は小さく、濃い。濃い輪の中で、柊は暗室で束ねた写真を一枚ずつ広げ、乾いたことを確かめた。乾いた紙は軽い。軽いのに、視線はそちらに引かれる。引かれるものがあると、夜は短くなる。
茉莉は便箋を読んだ。宛先、明日の私たちへ。差出人、今日の私たちより。バスが北へ行った。風鈴が一度鳴った。鳴った音は短く、深かった。鳴らないはずのものが鳴る日がある。その日を思い出すために、角を折る。折った角の数は、迎えに出るときの目印になる。読み終えて、箱に戻す。箱は今夜も教室の真ん中にある。
凪は無線を肩から下ろし、アンテナを窓の外へ斜めに向けた。電波は目に見えない。見えないけれど、方向がある。方向があるものは、祈りと同じ形をしている。祈りは輸送方法を選ばない。電波も選ばない。選ばないもの同士は、よく混ざる。
海斗は砂の矢印の先に座り、靴紐をほどいて結び直した。明日、迎えに走る。走る距離は祈りの行の数。行が増えるほど、距離は伸びる。伸びても、踊り場が増えているから大丈夫だ。踊り場は自分だけのためにあるわけではない。先に着いた人が、息を整えて「こっち」と言うためにある。言葉が短くても、息が揃っていれば届く。
柊は最後に空を見た。光条は数えない。数えないかわりに、今日ここに残った丸の数を指で数えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。数えながら、撮らなかった写真の枠が胸の中でくっきりしていく。撮らない枠も記録だ。枠の中に入らなかったものが、今夜は側にいる。側にいるものが、明日は枠の中へ入る。入れ替わる。その行き来を、二つの輪で受け渡す。
北へ向かったバスの中で、苑は窓に額を寄せたまま、指で空を叩いた。二度。隣の席の背を、宙も二度叩く。前の座席の背で、燈も二度。御影は運転手の横の手すりを二度。軽く、確かに。合図は届く。届いた合図は、返せる。
やがて車内の灯りが一度だけ明滅し、御影が配電ボックスに手を添えて、電流の流れを整えた。外には、白い建物の輪郭が見える。窓の位置が斜めに並び、屋根の上に古いアンテナが一本、斜めに突き出ている。近づくにつれて、そこに人の気配があることが分かった。扉の前に、誰かの影が立つ。宙がダンボールの看板を掲げる。行き先:北。矢印はまっすぐ。矢印の先に、今度は扉があった。
「着いた」
燈が言った。言葉は短かったが、その短さの中に長い距離が畳まれているように感じた。畳まれた距離は、開けば広がる。広がった先に、迎えの輪ができる。輪ができたら、戻る準備をする。戻るために、今夜はここを校舎にする。見えない校舎の一部を、ここに立てる。
「またあとで」
御影が誰にともなく言った。車内の空気が、静かにうなずいた気がした。宙は笑って、座席の背を一度だけ叩いた。苑は指で小さな音符を描き、燈は名簿の新しい欄に丸を一つ付けた。丸はここに着いた印。同じ丸を、明日の紙にも付ける。丸は輪になる。輪は道になる。道は北へ続く。北から、戻る。
その夜、校舎の軒先がないはずの風鈴が、もう一度だけ鳴った。残る輪と、先に行った輪が、同じ高さでその音を受けた。鳴った音は短く、深かった。短さが約束の形で、深さが距離の短縮だった。誰も「さよなら」を使わなかった。使わないで、眠った。眠って、朝のための息を貯めた。朝、迎えに行く。迎えに行って、また輪になる。輪になって、また教室になる。それだけを、静かに決めて、夜は北へ傾いた。




