承:仕組みの輪郭
日曜の午前。
事務所のテーブルに白い紙の山ができた。同意書(A4)、観測記録シート(A4)、聞き取り票(複写式A5)。昨日の生駒での記録は七枚。角はそろっていて、受領印の朱が小さく光る。
「まずは材料の正体から。市販のもので再現できるかどうか」
「UVインクと偏光ニスだね。安全の紙も用意しよう」
相沢がSDS(安全データシート)を二部印刷し、右下に日付を書いた。僕は量販店でもらった購入レシートをA4台紙に貼る。メーカー名、品番、色番。紙にすると、途端に落ち着く。
簡易実験は事務所でやる。
厚手の画用紙に三種類の線を引いた。①普通の油性ペン、②UV蛍光インクの細線、③UV蛍光の上に偏光ニスを薄く。乾くまで五分。
部屋を暗くして、黄色バリアグラスをかける。365nmライトは距離50センチ、照射は3秒まで。タイマーも紙に書いておく。
「いくよ。まず普通のペン」
「変化なし」
「次、UV蛍光のみ」
「青緑でふわっと。濃さは2/5」
「最後、偏光ニス付き」
「……角度で濃さが変わる。45°で最強、0°と90°で弱い」
観測記録シートに条件を書き込む。光源・距離・偏光角・濃さスコア・色票。
成瀬はA4横の表にまとめ、L判で手元写真をプリントした。
「これなら、現地の『うっすら』を説明できる」
「うん。**“光+角度+個人差”**の三点セット。言葉は短く、紙は分厚く」
次は、現地で見つけたタグをたどる。歩道橋で拾えた『#k4-13』。
僕はブログ「市影譚ラボ」に協力フォームを設置した。件名は【#隠色】、記入欄は「見えた場所/時間/近くの照明の色/読めた記号」。個人特定はしないと太字で入れる。
「公開。——お、反応早い」
受信箱が小さく光る。大阪府枚方市の高校生から。「夕方、陸橋の内側で『#k4-13』と矢印。友だちには見えない」。
さらに愛知県一宮市から。「駐車場の柱で『#k4-14』」。
地図をA3で印刷し、ピンを打つ。関西〜東海に細い帯ができ始める。
「タグが連番で伸びてる可能性がある」
「書いた人が継ぎ番号で管理してる?」
「かも。同じペン先の癖があるか、次で見たい」
夕方、もう一度生駒へ。昨日の白壁に新しい気配はない。だが歩道橋の側板、照明の下で微弱UVを2秒だけ当てると、昨日は見えなかった細い点線が出た。
偏光を45°に合わせる。矢印と『#k4-12』。歩道橋の反対側には『#k4-13』。序列が合う。
「連番だ。番号は増加方向で並んでる」
相沢がL判写真を二枚撮り、貼付台紙に並べた。下に手書きで「45°/UVA2秒/距離60cm」。
そこへ、作業着の男性が近づく。管理会社だ。
「すみません、夜に光を当てるのはやめてもらえますか」
「すぐに撤収します。案内カードです。顔は映しません。可視化テストだけで、上塗りは一切しません」
「……危ないことはしないでください。ここ、通学路ですから」
「承知しました。今日はこれで終わりにします。ご不安があれば、こちらへ」
案内カードのQRを指差し、A4の予定表に「歩道橋テスト中止」の朱書きを入れた。無理はしない。紙は味方でも、場所は借り物だ。
帰社。
ホワイトボードに簡単なフローを書く。
——情報募集→マップ更新→許可が取れる場所で公開テスト→記録を配布。
成瀬は周知ポスター(A4)の草案を作る。「黄色バリアグラス/短時間/直視禁止」を大きく。
僕は「#隠色」タグの文字形を拡大し、画素のフチを見た。ペン先の痩せ方が特徴的だ。毎回、縦線の終わりが少し欠ける。
「ペン先、0.5mmの丸芯で、先がわずかに潰れてる。指の癖で、右上がりの終筆が薄い」
「同じ書き手の可能性が高い、ってことだね」
ちょうどそのとき、フォームに一件の長文が入った。差出人は兵庫県西宮市の“紙名:サトシ”。
——見える人へ向けて地図を作る遊びをやっていました。市販のUVペンと偏光ニス。安全データも読みました。
——迷惑をかけるつもりはなく、同じ景色が見える人を探していました。
——もし良ければ、可視化のやり方を正しくまとめてください。違法な落書きはやめます。展示の形を考えたい——。
「……書いた側から来た」
「会えますか、って聞いてる。場所は西宮の歩道橋、昼間」
「夜はやめよう。昼に言葉で話す。紙だけ持っていく」
翌日、明るい時間に現地。
サトシは二十代前半に見えた。眼鏡。落書きの道具は持っていない。首から下げた名札だけ。
彼は、ゆっくり話した。
「小学生のときから、青紫が強いと薄い文字が見えることがあるんです。誰にも信じてもらえなかった。だから、見える人へって、書きました。夜の光に頼ったのは、よくなかったです」
「偏光ニスを上掛けした理由は?」
「見えない人には完全に見せないためです。角度が合わなければただの壁。見える人には**“あ、ある”**ってわかるくらいに」
「インクはどこで?」
「ネット通販のUVペンと、模型用の透明ニスです。SDSは読みました。皮膚には触れないように、薄く。上塗りは夜じゃなくてもできたのに、目立つ時間を選んだのは、僕の短慮でした。謝ります」
相沢が聞き取り票(複写式)に要点を写す。成瀬はA5の謝罪文テンプレを差し出し、「展示化する提案」を口頭で説明した。
「歩道橋じゃなくて、地域センターの壁を借りる。許可を取って、黄色バリアグラスと微弱UVを準備。時間は5分単位。偏光角の体験を含めて、A4の結果票に『見えた/見えない』を本人の言葉で書いてもらう」
「その紙を小展示にすれば、**“見える人がいる”**って示せます」
サトシは深く頭を下げた。
「それなら、やります。落書きはやめます。かわりに展示をやらせてください」
打ち合わせの帰り道、僕らは公開テストの段取りを紙に落とした。
——会場:地域センター 会議室B(壁一面・要養生)。
——備品:バリアグラス×10、UVライト(弱)×2、偏光フィルタ×10、タイマー。
——紙:A4結果票×100、写真貼付台紙×30、周知ポスター×6。
——安全:直視禁止、皮膚照射禁止、未成年は同意書。
——記録:色票、濃さスコア、偏光角、距離、感想(自由記述)。
成瀬が役割表を作り、相沢が受付カードを名刺サイズで刷った。
その夜、ブログに追加記事を出した。
タイトル:【参加募集】隠色の可視化テスト(短時間・安全管理あり)
本文は短く、安全手順を先に置く。バリアグラス必須、直視禁止、未成年は保護者同伴。SDS抜粋と同意書PDFへのリンク。
公開から一時間で、参加申込みが十五件。「見えない側」も歓迎と書いたのが効いたのか、感想欄に「家族は見えないけど知りたい」が並ぶ。
「明日、養生テープと養生シートを買ってくる。壁を汚さないのが大事」
「僕は結果票の文言を詰める。『見える/見えない』だけじゃなくて、『どんなふうに』も書けるように」
「“きらきら”“もや”“帯”みたいな語彙リストを用意しよう」
受信箱がまた光った。辻さんからだ。
——見える仕組みが紙になって、安心しました。参加します。——
僕はA6の単票メモに一行足した。
——「見える」は孤立ではなく、条件と個性。紙で共有。
翌日、会場。
白い壁を前に、周知ポスター(A4)を掲示する。「安全な可視化のやり方」。
受付で名刺サイズのカードを渡し、黄色バリアグラスを手渡す。結果票(A4)はボールペンで。
開始。
弱いUVを2秒、偏光を0→45→90°。距離は50〜70cm。
最初の参加者は「見えない側」だった。「何も見えませんでした」と正直に書いてくれた。次の人は「細い帯が出ました」。辻さんは「『みえるひとへ』が1/5の濃さで」と具体的に。
紙が一枚、また一枚と増える。
“見える”と“見えない”が同じ台紙に並ぶ。どちらも、正しい。
午後、サトシが一歩前に出て、A5の謝罪文を読み上げた。
「歩道橋などへの書き込みはやめます。これからは許可場所で、安全な展示として行います」
拍手は小さいが、確かな音だった。
終了後、机の上に結果票の束が残った。濃さスコア、角度、距離、自由記述。
相沢がL判で数枚をプリントし、写真貼付台紙に貼る。成瀬は**集計表(A4横)**を作り、**偏光45°**での反応が最多だったことを丸で囲んだ。
「仕組みは簡単、運用は丁寧。これでいける」
「うん。“見える”は個性。“見せる”は手順」
最後に、壁の前でサトシと辻さんの名刺交換。名刺の余白に、小さく「#隠色」と手書きした。
僕はA4のレポート叩きを開き、見出しを三つ置く。
【仕組み】水晶体のフィルタ差/UV蛍光/偏光
【記録】結果票の集計と語彙
【運用】展示化と周知、SDS、同意書
それから、いつもの合言葉を末尾に打つ。
——紙は噂より重い。
受信箱がまた、静かに青く光った。
「参加してよかった」「見えない自分も混じってよかった」
どちらの声も、紙の上で同じ重さになっていく。
転では、タグの広がりと、サトシ以外の書き手の存在が浮かぶかもしれない。
でも今は、ここで一息。在ったことが共有になった。
紙の束は、静かで、頼もしい。