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起:見える色

 土曜の昼前。

 六畳半の事務所に、プリンターの待機音が低く鳴っていた。スチール棚のA4バインダーは背表紙をそろえ、ホワイトボードには前回の「酔い路地」の進行表が薄く残っている。

 僕——水野桂一は、L字デスクの前でメールソフトを開いた。黒のパーカー、色落ちしたチノ。向かいに相沢由希。ベージュのカーディガンに黒のテーパード、白スニーカー。マグの湯気はもう目に見えない。


 画面右上が、青く光った。未読(1)。


「今回の件、来た?」


「来た。件名は……【相談】【見える色】【落書き】」


 クリック。本文は端的だった。

 ——奈良県生駒市の辻と申します。子どものころから、街の壁や歩道橋に文字や記号が薄く見えます。スマホで撮ると写りません。誰に話しても信じてもらえず、ずっと黙っていました。ブログを見つけ、連絡しました。もし可能なら、見える仕組みを確かめてください——。


「生駒、行ける?」

「行ける。まずは同意書返送と、聞き取り票だね」


 相沢がA4の同意書テンプレを開き、控えの複写式受付票に番号を振る。僕は返信を書きながら、観測キットのメモを作る。

 ——365nmの微弱UVライト。

 ——黄色バリアグラス(UVAカット)。

——偏光フィルタ(回転枠)。

——色票と観測記録シート(A4)。

 プリンターが動き、紙が温かく排出された。


「“見える仕組み”、か。ざっくり先に話しておく?」


「うん。ホワイトボードで三分講義、お願い」


 ペンを取る。青で目の断面図、黒で光の帯、オレンジで可視域を描く。

 400—700nmの帯に横線。左へ紫外(UV)、右へ**赤外(IR)**と小さく注記。次に、目の前側(角膜)→水晶体→網膜(視細胞:S/M/L)と箱を並べる。


「そんなことってあるの?」

「瞳が見える仕組みって、案外単純だからな」


 青ペンで水晶体のところに「フィルター」と書いた。


「ポイントは三つ。①光の波長、②目のフィルタ、③インクの性質。

 ①は、紫外〜可視〜赤外の“どの色”か。

 ②は、人の水晶体がどれだけ青〜紫側をカットするか。これ、個人差がある。年齢でも変わる。子どもの水晶体は透明寄りで青紫が通りやすい傾向があるし、手術で水晶体を交換した人(無水晶体に近い状態)だと、紫外が青っぽく見える報告がある。

 ③は、インク側。UV(紫外)を吸って可視で光る“蛍光”や、偏光で見え方が変わる偏光性ニスなんかを上から薄く塗っておくと、特定の光と角度でだけ“うっすら”出現する」


 紫の線で、壁の断面に薄い層を描く。そこへ→「蛍光インク(UV吸収→青緑に発光)」「偏光ニス(角度依存)」とメモ。


「つまり、水晶体の透過率が違えば、十分可能性はある。」


 相沢が目を丸くする。


「よく知ってるね」

「中学校で習わなかったか? 色彩を少しでもカジったやつなら説明できる。俺も色彩検定はもってるしな」

「なんに使うのよ、そんな資格」

「ただの趣味。知れば、知らない人よりは人生楽しく生きられる」


 相沢が笑って、板書の隅に安全マークを描いた。


「安全面、もう一行」

「そうだな。UVA(365nm)でも、直視や長時間照射は避ける。観測は黄色のバリアグラス越し、短時間、皮膚に当てない。あと、スマホが映らない理由——カメラにはUV/IRカットフィルタが入ってるから、吸収→発光が弱いと感度が足りない。偏光はフィルタを回すだけで変わる。見えたらA4の記録シートに条件を書く」


 ホワイトボードの右下に、観測手順を四行でまとめた。

 ——(1)照明:常夜灯→防犯灯→微弱UV(10秒以内)。

 ——(2)視聴:黄色バリアグラス着用、偏光角を0→90°回転。

 ——(3)記録:色票で近い色、濃さ(1〜5)、角度、距離。

 ——(4)写真:スマホは露出固定→失敗でもOK。紙に言葉で残す。


「紙、ね」

「紙は噂より重い」


 そこへ、受信箱がもう一度光った。辻さんから同意書(署名済み)と、見えている場所の地図と時刻のメモ。

 駅裏の白壁、歩道橋の側板、駐車場の柱。多くはLED防犯灯の近く。時刻は夕方から夜。曇天の日は見えやすい、とある。


「照明スペクトルが青紫寄りだと、蛍光インクは活発になる。偏光ニスは表面反射の偏光成分に乗るから、角度も効く」

「やっぱり仕組みで説明できそうだね」


 生駒へ向かう前に、最低限の実験材料を揃える。量販店のレジで——UVインクペン、舞台用の蛍光塗料、透明の偏光ニス。レシートはA4台紙に貼る。安全データシート(SDS)はメーカーHPからA4印刷。

 帰社後、薄い画用紙に試し書き。部屋を暗くし、黄色バリアグラスをかけて、365nmライトを3秒だけ当てる。灰色の線が、青緑にわずかに浮き、フィルタを45°回すと消える/また出る。


「出た」

「うっすら。でも、出る」


 A4の観測記録シートに書き込む。

 ——光源:365nm(3秒)、距離50cm。

 ——フィルタ角:45°で最強、0°/90°で減衰。

 ——見え方:濃さ2/5。

 ——色票:5BG 8/2(近似)。

 傍らで相沢も同じ条件を覗く。「見える」。成瀬は「自分は弱い」と言う。個人差が、紙に一行増える。


「機材の準備はOK。あとは現地」

「辻さんの“見える場所”の座標、L判の地図プリントに落としておく」

「案内カードも刷っとく。管理会社に声を掛けられたら、すぐ撤収する」


 夕方、近鉄の駅を降り、生駒の空気を吸う。湿度は低め。

 最初のポイントは駅裏の白壁。LED防犯灯の真下。辻さんは静かな目の人だった。高校生のころからずっと、ここに文字が見える、と言う。


「ありがとうございます。今日は“見える仕組み”を、紙に残すところまでやります。無理はしません。顔は映しません」


 A4のチェックリストをクリップボードへ。

 □ 同意書/受領 □ 現場の許可範囲確認 □ 安全バリアグラス

 □ 光源(常/防犯灯/微弱UV) □ 偏光角 □ 記録(色票・濃さ)


「じゃあ、常夜灯だけでまず」

「はい」


 距離をとり、目を慣らす。数十秒、呼吸だけ整える。

 ——最初に見えるのは、壁の微細な凹凸の影。

 ——その影の中に、揺れない濃淡の帯。

 辻さんの指が、そっとその帯の上をなぞる。


「ここ、言葉です。『みえるひとへ』って」

「僕は、帯までは見える。文字になる直前って感じ」


 偏光フィルタを回す。30°、45°、60°。45°で帯が締まる。

 さらに黄色バリアグラスを掛け、365nmを2秒だけ当てる。

 青緑が、一筆ぶん濃くなる。読み切れる直前で止める。


「うっすら、『みえるひとへ』。次の語は——」

「『こころ』。あとは、へんな記号が続きます」


 記録シートに書く。

 ——防犯灯下/偏光45°/UVA 2秒/距離60cm。

 ——見え方:濃さ3/5。

 ——読めた語:『みえるひとへ』『こころ』。

 ——安全:直視なし、皮膚照射なし。

 相沢がL判の壁面写真を撮り、写真貼付台紙に貼る。スマホの写真にはほとんど写っていない。だが紙の言葉と条件が、“あった”側へ寄せる。


「二カ所目、歩道橋」

「はい」


 歩道橋の側板。こっちは曇天に近い夕空で、青紫が強い。偏光0°では何もないのに、90°に回すと線が出る。

 UVA 3秒。黄色バリア越しに、細い矢印と数字が浮く。

 ——『#k4-13』『→』。

 タグらしい列だ。


「#タグ。共通タグの可能性、出てきた」

「ブログで呼びかける?」

「後で。今は紙だ」


 観測記録が三枚、四枚と増えるたび、辻さんの肩の力が抜けていくのがわかる。

 「見える」は独り言ではなく、条件になって紙に残る。

 駐車場の柱では、管理会社の人に声を掛けられた。


「すみません、何を?」

「夜に光を当てる実験は控えてください」

「はい。案内カードです。顔は映しません。今は撤収します」


 軽く会釈して離れる。小競り合いは作らない。

 辻さんは小さく息を吐く。


「ありがとうございます。ずっと、嘘つきみたいで」

「嘘じゃない。蛍光と偏光、それと個人差。仕組みの足場はある」


 駅のベンチで最後の確認。

 A4の観測記録は七枚。色票の番号、偏光角、光の時間、距離。読めた語は三つと、タグが二つ。

 僕はホワイトボード用の小パネルに、“今日の要旨”を三行でまとめた。

 ——人の目はフィルタ(特に水晶体)で個人差。

 ——蛍光インクはUVで可視に光る/偏光ニスは角度で変わる。

 ——だから**“見える人”**がいても不思議ではない。紙で条件を持ち帰る。


 辻さんが、観測記録の控えを両手で受け取る。複写式の下紙に、筆圧の跡がきれいに残った。


「次は、書いた側の意図も探る。#タグが鍵だ。安全に、ゆっくり」

「はい」


 帰社後、A4のまとめシートを作る。

 左に目の断面図(水晶体=フィルタ)、右にインクの仕組み(UV→蛍光、偏光)。

 下段に観測条件の表(光源/角度/距離/濃さ/読めた語)。

 プリンターから出た紙は、湯気こそないが、触るとまだわずかに温かい。


 相沢がマグを置く。


「——仕組みの説明、読みやすかったよ。中学理科+色彩の話で、難しい単語は短く」

「専門は浅く広くでいい。紙が太っていけば、信じる人は増える」


 受信箱が光った。辻さんから一行。


「見えるのは、ただの個性だと、今日初めて思えました」


 それをA6の単票メモに移し書いて、バインダーの表紙裏へ差した。

 次に会うのは、#タグを書いた**“見える人へ”の書き手**だろう。

 ——起は、ここまで。

 紙は噂より重い。次の紙の束へ、手を伸ばす。

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