ノック
その日は、汚れたボールを洗った。
硬式球は皮でできている。ゴム製の軟式球みたいに水につけてタワシでゴシゴシこするわけにもゆかない。いちいち雑巾で、こびりついた土を拭いとる。野球ボールは「白球」なんてよく言われるけれど、練習で使うボールに白はない。土と汗にまみれて表面は擦り切れ、どれも土色になっている。
さくらさんの透明感のある声がグラウンドに響いている。
「30、31、32、33、34,35」
部員が塁間を駆けている。全員が時間内に走りきらないと、もう一回走らなければならない。
「あと15秒! ほら、頑張って頑張って! 最後の力! 10、9、8、7」
最後の一人が必死の形相でゴールに駆け込んできた。部員たちも全員がわあわあ言ってる。
「5、4、3、 はいっ、全員、完走!」
「おっしゃあ!」
ボールと雑巾を握りしめながら、こっちまでほっとする。
「メシ済んだら、次ィ守備いくぞお、守備ィ!」
主将の神崎が吠えた。部員たちが、わたしたちが握ったおにぎりに群がる。
「メシ、いただきます!」
先輩含めて、ひとりひとりが、脱帽して女子に深々と坊主頭を下げてくれる。ちょっと嬉しい。
けれど、握るのにあんな苦労したメシは、あっという間になくなってしまう。先日、わたしにユニフォームの綻びを縫わせた羽衣なんて、ふた口ほどで飲み込んでる。あんたねえ、ヘビじゃないんだから、もうちっと味わってくんない?
戎監督のノックが始まった。
ノックは、すへてゲーム形式で行われる。ノーアウトランナー無しから始まって、打球が抜ければ、ランナーが出塁する。
ノックの打球がやさしいのは二巡目までで、そこから先は、捕れるか捕れないかのギリギリのところを打ってくる。
「こりゃ大変だ」
正直、そう思った。
全力で追わねば捕れないし、しばしば崩れた体勢から送球しなければならない。しかも、送球が相手の胸あたりにゆかねば、捕球してはならないルールになってる。なんとか捕ったタマを、テキトーに投げるわけにはゆかないわけだ。打つとともにホームから一塁へ駆けるランナーがいるから、ゆっくり投げてては出塁を許してしまう。ファーストは無理な捕球をしないから、交錯プレーも起こらない。
この練習を最初に見たとき、このチームのファーストは横着なのが揃ってるなと思った。
けれど、技術向上と、練習時のケガ防止を考えたものたと感心した。
その一方で、ファーストは難しいバウンドの捕球練習をみっちり行なっていた。三遊間や二遊間の深いところからツーバウンドで投げてもらう。体を目いっぱい伸ばして、ギリギリのところで捕球する。
ファーストには、キャプテンの神垣もいた。グラブ捌きが、ぎこちない。この人、いつも一生懸命なんたけど、どうも不器用だ。
それにしても。
「てめぇ、加古川の打球もっと速いぞ、それ捕れんでどーすんだよっ!」
「そこ、セカンに任せろって! ファースト出ちゃオールセーフじゃんかよっ!」
「ファーストぉ、おまえが出なかったら、誰が捕るんだよっ! なんでも人に任せてんじゃねーよっ!」
「おいおい、レフトぉ、なにボケーっとつっ立ってんだよ! ショート危なっかしいんだから、ちゃんとカバー入れぇ!」
「キャッチよぉ、捕ってやれよ、それぐらい。ピッチまたトイレで泣くぞぉ、どーすんだよ」
ちっとでも、バタついた動きや鈍い動きが出ると、監督から遠慮のない、それでいてユーモアたっぷりの声が飛ぶ。言われた当人は大変だし、みな真剣そのものだけど、とても和やかな雰囲気で、笑いが絶えない。
ああ、野球部だあ。わたしは今、野球部にいるんだあ。この雰囲気、この雰囲気だあ。
「名塩、水っ」
神垣が、ゼーハー言いながら、守備練習から戻ってきた。
さくらさんがコップを手渡しながら、「純ちゃん、うまくなったじゃん」と言うと、汗だらけの焼けた顔をいくぶん緩めながらも、「まだまだぁ」と応えた。
「だよね~」
さくらさんがおどけると、飲んだコップをつきかえして、「次ィ、打撃練習行くぞぉ」とグラウンドへ出ていった。なんとなく、かわいい。