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亜人

 フレッチーリ王国において、亜人は基本的に奴隷である。


 奴隷の証ともいえる、魔法のかかった首輪を付けていない亜人は、よほどの身分証でも所持していない限り町に入ることはできない。冒険者やその他ギルドの所属証程度では、まず門前払いされてしまう。


 また人間であっても、ヒューマン以外はあからさまに冷遇されていた。ティビは言うに及ばず、エルフですら未開の蛮族扱いである。魚人(マーマン)に至っては魔物という認識であった。なお、ドワーフはそもそも地上にはほとんど存在しない。


 奴隷の首輪には特殊な付与魔法(エンチャント)が施されており、主人の命令に背くと激痛が走るようになっていた。また、この魔法は主人が任意で発動する事も可能で、仕置きなどにも使われる。幼い頃からこの首輪を付けて育った奴隷は、従順にならざるを得ない。


 フレッチーリ王国の奴隷は、獣人がほとんどを占めるが、まれにオークやオーガなどもいる。しかし、町中でオークなどを使役するのはあまり良い顔をされない。それらの奴隷は主に剣闘士などの見世物用であった。


 オークやオーガといった奴隷は、冒険者などが生け捕りにしたものだが、獣人奴隷に関しては繁殖業者が存在していた。フレッチーリ王国の領土内で捕獲するだけでは、総人口の約2割を占める獣人奴隷の需要に追い付かないからだ。


 そもそも、フレッチーリ王国には()()()()()はもはや存在しないに等しい。王国における獣人の扱いを考えれば、あえてフレッチーリ王国に近づこうとする獣人がいないのは当然と言えよう。


 そこで、獣人奴隷の需要を賄うために、繁殖を担う業者が現れた。奴隷商ギルドの繁殖業者は、今や単なる繁殖のみならず、ある程度の品種改良と呼べる掛け合わせまで行っている。フレッチーリ王国にとって、獣人奴隷は社会を維持するための重要な財産なのだ。


     ◆◆◆◆◆


 トトット・エルヴール・ライラ・ロバート・ハータツネは、リュテスで3代続く繁殖業者の長である。奴隷市場において裏方ともいえる繁殖業であればこそ、ティビである彼らもこうして仕事を続けて来られた。


 しかし、経営者がティビというだけで他の繁殖業者よりも1割から2割は安く買い叩かれてしまう。そのため経営は常に苦しいものがあった。


 そんなトトットの店が、今年に入ってから積極的に奴隷を買い始めた。資金の出所も不明なこの動きを同業者も(いぶか)しんでいたが、魔王領の不穏な動きが噂になるにつれ、戦後の需要を見込んだ買占めであろうという結論に至った。


 繁殖業者はその経営形態から、広大な厩舎を所持している。そのため一時的に所有できる奴隷の数は、普通の奴隷商とは比較にならない。集めた奴隷を売り捌く算段があるなら、買占めをするには適した業態である。


 この動きに触発され、他の奴隷商も奴隷の確保を始めてしまい、奴隷の市場価格は急激に上昇する事となった。ここに至り、トトットの狙いは奴隷価格の引き上げにあったのかと同業者たちは悔しがる。しかし実際に魔王軍が動きを見せた今、戦後を見据えて各業者とも奴隷を売りに出せずにいた。


 人は、他者の行動に意味が見出せると、それで安心してしまう。ましてやそれが金銭や欲得がらみならばなおさらである。


 トトットの真の目的は、実は他にあった。奴隷の買い集めは、魔王ロックからの指令によるものである。繁殖業に見切りを付けようとしていたトトットに、占領後の人員派遣業を任せる事を交換条件として、魔王が提案したのだ。


 そもそも繁殖業者は、奴隷の育成費用を捻出するため、種牡獣人や妊娠初期の雌の貸出しも行っていた。派遣や請負のノウハウは十分に持っている。


 この申し出に、トトットは渡りに船と乗る事にした。亜人にも風当たりの強いこの都市には何の未練もない。その上、買い集める費用は魔王持ちである。これほど楽な商売があろうか。どのみち、リュテスが魔王軍の手に落ちれば、奴隷は解放されてしまい奴隷商は廃業なのだ。


 詳細な作戦などは知らされていないし、トトットとしては知りたくもなかった。ただ、リュテスへの攻撃が始まった時、手持ち全ての奴隷を開放して街の外へ逃がす事。指示はそれだけであった。


 元々所持していた奴隷も魔王が買い上げているため、トトットの厩舎にいる奴隷は全て魔王の所有物である。奴隷を解放とはいっても、トトットの懐は全く痛まない。


 いざリュテスが陥落し奴隷が解放される事となった時の、奴隷商ギルドの阿鼻叫喚の様を想像して、トトットの口元に暗い笑みが広がった。


     ◆◆◆◆◆


 ヴァンサン・ビュッフェは醜男(ぶおとこ)であった。フレッチーリ王国で20の村を管轄するビュッフェ男爵の長男に男児が産まれた時、5男であるヴァンサンはリュテスにて兵士となる道を選んだ。


 剣の才覚があったヴァンサンはめきめきと腕を上げ、リュテスにおいては十傑に数えられるほどとなる。その腕前を見込まれ、彼は最も危険と言われる魔王領方面の北西門へと配備された。


 しかし、北西門の部隊長は名門貴族の子息が務めており、ヴァンサンは3交代制の門番を構成する5人組の班長にしかなれなかった。北西門に常駐する兵士の数は約300人であり、60組存在する5人組の班長は役職として最も低い。


 ヴァンサンの家柄はともかく、剣の腕を考えれば不当ともいえる役職ではあったが、一部の噂ではその腕前に対する隊長の嫉妬があるとも言われていた。当のヴァンサンも苦々しく思ってはいたものの、貴族の力関係を思えばどうしようもないと諦めるしかない。


 醜男とはいえ、地位さえあればそれすら魅力的に感じる女性は多い。また圧倒的な暴力性はそれだけで女性を引き付けるものである。読者諸兄も強面のアウトローが美女を侍らせている様子をいちどは御覧になった事があるだろう。


 しかし、生来の優しさが災いし、ヴァンサンには地位も表出する暴力性も無かった。三十路を迎えても浮いた話ひとつなく、性欲は苛烈な稽古と娼館で紛らわせる日々であった。


 そんなヴァンサンがバルバラに出会ったのは、ある夜の飯屋だった。そこはいわゆる飯盛女(給仕と売春を行う女性)がいる食堂であり、ヴァンサンは数年ぶりにふと立ち寄ったのだ。


 一目惚れだった。とりたてて美女というわけではなかったが、何とも言えぬ愛嬌が感じられ、何より笑顔が可愛らしかった。食事もそこそこに体を重ね、その日のうちに身請けを申し出た。


 家を出るときに持たされた僅かばかりの餞別と、十年以上何に使うでもなく貯めた貯金を全て費やす事となったが、後悔はなかった。バルバラは優しく微笑み、よろしくお願いしますと言ってくれた。


 ヴァンサンの人生は一変した。幸せな日々はまるで夢の様であった。3年前に長女ヴァネッサが産まれ、今年の春には長男ヤンが生まれた。ふたりともヴァンサンの黒い癖っ毛と丈夫な体、バルバラの愛嬌のある容姿を受け継ぎ、周囲の皆に愛された。


 時にバルバラが長女を連れて、ヴァンサンに弁当を届けに来る事があった。よちよちと歩く子供に屈強な兵士たちも相好を崩し、夜食やおやつに忍ばせていたドライフルーツや菓子を与え、帰る頃には荷物が倍に膨らむ始末であった。


 そんなヴァンサンの暮らしに、戦争の気配が影を差す。緩衝地帯の村が焼き払われたのだ。


 長く門番を務めていれば、リュテスに出入りする村人とも顔見知りになる。厳密には自国民ではないとはいえ、この焦土作戦はヴァンサンに激しい動揺を与えた。


 そして、ある日の事。ヴァンサンの荷物に1枚の紙切れが挟まれていた。


「お前の妻は魔族」


 乱雑な字でそう書き殴られた紙切れを見た瞬間、ヴァンサンの全身にどっと冷や汗が吹き出した。足元が崩れ落ちるような感覚に、思わずその場にうずくまる。それはずっとヴァンサンが考えないようにしてきた根源的な恐怖だった。


 自分のような男に、あれほど良く出来た女がなぜ尽くしてくれるのか。兵士の妻という立場だけを目当てに、本当は別の男がいるのかと疑った事もある。


 しかしバルバラはいつも優しく、素直で、(ほが)らかだった。たまに喧嘩をしても翌日まで引きずる事はいちどもなかった。ヴァンサンはそれだけで満足だった。それだけで満足しようとしていた。


 だが、もしも、バルバラが、魔族だったら。


 人間と見分けがつかず、その社会にひっそりと潜り込み獲物を狙う魔族といえば、吸血鬼や淫魔(サキュバス)が有名である。ヴァンサンも兵士として知識だけは持っていた。


 確かに、バルバラは性に貪欲である。体を重ねていると、ふとした瞬間に恐ろしいまでの淫靡(いんび)さを感じる事もあった。事後にまさしく生命力を吸い取られたかのような脱力感を感じる事も、月にいちどくらいはある。


 しかし、この数年ヴァンサンは風邪ひとつ引かず、まさしく健康そのものであった。独り身の頃に比べると食事が改善され、以前よりも精強になったくらいである。話に聞くサキュバスに魅入られた男たちとは全く状況が違う。


 だからこそ、ヴァンサンはバルバラが人間であると信じた。行為の最中に自分を見るあの目。淫靡(いんび)さの奥に潜む、獲物を見るかのようなあの視線も、情の深さゆえのものだと思い込もうとしたのだ。


 そんな、心の奥にしまい込んだ疑念を、この紙切れは再び目の前に突き付けた。


 ただでさえ亜人の扱いには厳しいフレッチーリ王国である。ましてや魔族など、たとえ人間に危害を加えていないとしても、隠れ潜んでいただけで討伐対象であろう。


 そして、バルバラが魔族であると知っている、あるいは疑念を抱いている人間がどこかにいる。もしもヴァンサンが正体を知っていて隠しているならば同罪だし、知らなかったとしてもバルバラはおろか子供たちもただでは済むまい。


 何よりも、サキュバスは人間と見分けがつかないと言われている。ならばどうやって疑いを晴らせばよいのか。疑われた時点で終わりではないのか。ヴァンサンに恨みを持つ人間などは、ここぞとばかりに糾弾を始めるだろう。


 実際に告発がなされる前に、何らかの手を打たねばならない。バルバラが人間ならば、ヴァンサンは王国を敵に回そうとも家族を守る覚悟だった。


 今はとにかくバルバラの答えが欲しい。ヴァンサンは動揺が態度に出ないよう気を付けながら、足早に家路を急ぐ。通い慣れた道が、今日は万里にも感じられた。


     ◆◆◆◆◆


 夕食の準備を終えたバルバラは、帰宅したヴァンサンの表情に全てを察した。


 魔王領から進軍が始まった時、この事態が訪れる事は覚悟していた。そもそも告発の紙を置いたのは、弁当を届けに行ったバルバラである。ヴァンサンがそのままバルバラを軍に差し出すか、あえて帰宅するかは賭けであった。


 バルバラたちサキュバス部隊がリュテスに潜入したのは、(きた)るリュテス攻城戦において、衛兵(警備兵・門兵・憲兵)を篭絡(ろうらく)し内部より撹乱(かくらん)するためである。篭絡と撹乱の方法は各自に任されていたため、仲間たちの相手や手管(てくだ)までは把握していない。これはもしも正体が暴かれた時、仲間を守るためでもあった。


 バルバラは飯屋で兵士の所属を調べつつ、適当な相手を物色していた。娼婦として関係を持ちながら、複数を魅了する手もあったが、操る範囲が広くなればそれだけ計画が露見する可能性も高くなる。


 理想としては、そこそこ地位が高い独身者の妻になり、時間をかけて魅了したかった。しかし軍での地位が高いという事はそれ相応の身分がある。立場として娼婦を身請けして妻にする事は難しいだろう。良くて精々が(めかけ)であろうが、それでは正妻に気付かれる可能性が上がってしまう。


 そんな時、バルバラの前に現れたのがヴァンサンである。この精強な(オス)は、軍での地位こそ低いものの、それを補って余りある強さがあった。バルバラは一瞬にしてこの牡を愛した。この牡ならば、あらゆる障害をはね除けて城門を開くだろう。


 その夜、バルバラは思うさまヴァンサンを貪った。並の牡ならば3日は足腰立たなくなるであろう吸精にもヴァンサンは涼しい顔であった。バルバラにとってヴァンサンは最高の牡だった。


 魅了するまでもなく、ヴァンサンはバルバラを妻に望んだ。バルバラは迷うことなくそれを受け入れ、計画は次の段階へと進むこととなった。後はその日までにどれだけヴァンサンを魅了できるか、計画の成否はそこにかかっている。


 ヴァンサンとの日々は、バルバラにとっても新鮮なものだった。相手の牡を長持ちさせるために、他の牡から吸精する必要のない、真の意味での()()()になるのは初めての事である。


 サキュバスにとって牡の精は必須の栄養素であり、摂取がままならなければ衰弱してしまう。ところがヴァンサンは通常程度の吸精ならば何の問題もなく、月にいちど行う最大限の吸精ですら、翌日少し疲れが残る程度であった。


 恐らく、ヴァンサンの肉体は人間として最上級であろう。バルバラは心置きなくヴァンサンを愛し、またヴァンサンもそんなバルバラを心から愛した。もはやバルバラに、ヴァンサンを魅了しようという気持ちは微塵もなかった。


 子供も産まれ、忙しくも穏やかで幸福な日々がふたりの絆を深めてゆく。いずれ訪れる決断の日まで、バルバラは精一杯この幸せを味わおうと決めた。


 そして、ついにその日が訪れたのだ。


     ◆◆◆◆◆


「知ったのね、私の正体を」


 バルバラは、今にも泣きだしそうな表情でヴァンサンに告げた。実際、この幸せを手放さなければならない事を思えば、胸が張り裂けそうだった。


「なぜだ……なぜ俺を騙した」


 地の底から響くような、怒りに震える声でヴァンサンが問う。


「なぜ? なぜですって? この国で魔族が正体を明かして生きていけるとでも?」


 正論だった。もしも同僚が魔族に魅入られていたと分かったら、ヴァンサンは迷わずその魔族を討伐しただろう。その同僚がどれほど魔族を(かば)おうとも。


 結局、自分のような男を真に愛してくれる女などいなかったのだ。ヴァンサンにとってそれが一番の絶望だった。ヴァンサンは、バルバラを殺して自分も死のうと剣の柄に手をかける。


 その時、父の帰りに気付いた長女ヴァネッサが、隣の部屋から居間へと入って来た。剣呑(けんのん)な父の様子に気付く様子もなく、無邪気に足元へと歩み寄るのを、バルバラが慌てて抱き寄せる。


 きょとんとした表情の愛娘(まなむすめ)を見て、ヴァンサンの決心が揺らいだ。この子たちが自分の子ではないなどと疑った事は無い。それだけはヴァンサンの中で確信があった。こうまでして自分に取り入ったのはいったいなぜか。ヴァンサンはどうしてもそれが聞きたかった。


「何が……いったい、何が目的だったんだ?」


 バルバラは悲し気な瞳でヴァンサンを見つめ、かすれた声で答える。


「何が目的か、この子を前に聞くの? 私が欲しかったのはほんのささやかな幸せよ。あなたと、この子たちと、温かな家庭」

「嘘だ! 俺のような男に、何の目的もなく近づく女がいるか! 本当の目的を言え!」

「魔族がこの国で幸せに暮らす事がどれだけ困難か、わからないとは言わせないわ」

「だったら、男なら誰でも良かったんだろ! 何で俺だったんだ! 俺は……俺はずっとお前に愛されてると……思って……思いたかった……のに……」

「愛しているわヴァンサン。あなたには、わかってるはずよ」


 ヴァンサンの脳裏に幸せな日々が去来する。温かなふれあいや穏やかなひととき、その全てが偽りだったのか。やさしく触れる指先に感じた慈しみは、己の思い込みに過ぎなかったのだろうか。


 両親のただならぬ様子に、バルバラの腕の中で幼子が泣き出してしまう。その声が、ヴァンサンの意識を自己憐憫(じこれんびん)から現実へと引き戻した。


「ヴァネッサ……大丈夫、大丈夫だよ」


 ヴァンサンは剣の柄から手を放し、愛娘の前に屈みこむ。ヴァネッサは両手を広げたヴァンサンの胸へと飛び込み、泣きながら首筋に(すが)り付く。温かな幼子の体温を感じながら、ヴァンサンは絶対に揺るがぬ愛を得た。子から親への愛。無償の愛。これだけは何があろうとも信じられる。


 今考えるべきはこの子たちの安全だった。己の身を嘆いている場合ではない。ヴァンサンは覚悟を決めた。


「バルバラ、俺と逃げよう。もうリュテスにはいられない」


 ヴァンサンの言葉に、しかしバルバラは(うなず)こうとしない。ヴァンサンを見据えるその視線には、あの夜の獲物を見るかのような怪しい輝きがあった。ヴァンサンの背筋に冷たい汗が流れる。


「リュテスが魔王の手に落ちれば、私たちは逃げる必要がなくなるわ」


 バルバラの言葉には確信めいたものがあった。ヴァンサンは喘ぐように声を絞り出す。


「無理だ。いくら魔王とはいえ、リュテスの守りを突破できるものか」

「できるわ。城門が開いてしまえば」

「……そうか、それが目的か」


 どうしても知りたかった、そして最も聞きたくなかった答えに、ヴァンサンの心は急激に冷えていった。出会ったあの日から、バルバラは全てこの目的のために行動していたのだろう。


 しかし、ヴァンサンには疑問もあった。どう考えても今の自分は魅了されているとは言い難い。


「教えてくれ、バルバラ。お前がサキュバスなら、俺を魅了して好きに言う事を聞かせられるんじゃないのか?」

「やろうと思えば。でも、やりたくなかった」

「なぜだ? そうすればもっと簡単だったろう。俺もこんなに苦しまなくて良かったのに」

「サキュバスが愛を欲したらおかしい?」

「愛が欲しければ魅了すればいいじゃないか」

「魅了は支配なの、愛とは違う。私はあなたに愛されたかった。たとえ危険を冒してでもね」

「どうしてそこまで愛されることにこだわるんだ」

「私があなたを愛してるからよ! いいかげんわかってよこの唐変木(とうへんぼく)!」


 バルバラの罵倒に、ヴァンサンはいつもの夫婦喧嘩を思い出す。バルバラはなぜか馬鹿や阿呆といった直接的な罵倒ではなく、ちょっと芝居がかった言い回しを好んだ。それさえもヴァンサンにとっては甘い思い出だった。


「俺がお前を軍に突き出すと思わなかったのか? 帰って来た時だって、もう少しでお前を斬り殺す所だったんだぞ」

「さあね。私は信じていたわ。それだけよ」


 プイっと横を向くバルバラの仕草に、ヴァンサンは心が(ほぐ)れていくのを感じた。愛を利用されていたことは間違いない。これが魔王のやり口ならば最悪である。しかしバルバラは、確実な支配よりも不確かな愛を選んだのだ。


 確かに誰でも良かったのかもしれない。出会いが数日ずれていれば、ここにいるのは自分ではなかった可能性もある。腕の中でしゃくりあげている愛娘をあやすように揺らしながら、ヴァンサンは思う。幼き命のなんと愛しい事か。この得難き宝を与えてくれた運命に感謝を。


 そしてバルバラ、俺もお前を、お前との日々を信じよう。


     ◆◆◆◆◆


 魔王ロックの撹乱・離反工作は多岐に渡っていた。魔族を忌避するフレッチーリ王国と、必要ならば人間をも利用する魔王軍とでは、敵地での工作活動において圧倒的な差がある。


 開戦前からすでにリュテスでは数多くの火種が(くすぶ)り続けているのだ。戦いの火蓋が切られるその時を待ちながら。

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