剛腕爆裂
ロジーナ姫にこの場所の守護を命じられたナナシは、改めて周りを見回し、オークや冒険者の凄惨な死体と臭いに少し吐き気をもよおす。
転生前は祖父の手伝いで駆除した猪や鹿の解体をしていた経験から、血や臓物には耐性があるものの、やはり人型の生物の死体は別物だった。
それに、さっきは不意打ちでドロップキックが決まったから良かったものの、見れば死体のオークはデカい斧やらメイスやらで武装している。殺るか殺られるかの状況になった時、素っ裸で徒手空拳の自分が果たしてまともに戦えるのか、ナナシは不安を覚えながら周囲をきょろきょろとうかがっていた。
やがて背後で天から光が降り注いだ頃、ナナシの方へ、もう1体のオークキャプテンが戦犀に引かせた荷車と共に近づいてきた。荷車の周りにはオークナイトやオークウォリアー、オークメイジが付き従っている。
その荷車に積まれているのはオークどもの戦利品である冒険者の女たちであった。ある者は茫然とした表情で虚空を見つめ、またある者は苦痛のうめき声を発し、そしてある者はこれからの自分の運命を思いさめざめと涙を流している。
ナナシの不安はその女たちを見た瞬間吹き飛んだ。代わりに猛烈な怒りが湧きあがる。
「その人たちをこっちに渡せ!」
オーク語で怒鳴りながら荷車に近づくナナシに、女たちは恐怖の悲鳴を上げた。周りのオークたちも恐ろしいが、近づいてくる超巨大なオークに比べれば大人と子供、ドラゴンとトカゲの様なものである。数人が恐怖に耐えきれず失禁、失神してしまう。
「なんだてめえ! どこのオークか知らねェがぶっ殺すぞコラァ!」
オークキャプテンがナナシの前に立ちふさがり、怒鳴り返す。一触即発の巨大オーク同士の睨み合い、その恐るべき圧力に空間すら歪んで見える。
「隊長ォ、こんな舐めたフリチン野郎には、ちょっと教育がいるんじゃねえですか」
そう言って、オークキャプテンの横から進み出たのは、身長2メートル半のオークウォリアーであった。その手には、人間の背丈ほどもある巨大な両手用メイスが握られている。
「おう、2・3発叩き込んで身の程ってもんを教えてやれ」
オークキャプテンが答えると、オークウォリアーはニヤニヤ笑いながらナナシに近づき、野球のバットを構えるようにメイスを振り上げた。
しかしいざナナシの前に立ってみると、その小山のような存在感の前に、巨大なメイスも玩具のように頼りない。オークウォリアーは、自分を鼓舞するように大声で叫びながら、メイスをナナシの腹めがけてスイングする。
ナナシの目には、その攻撃が以前のエルフの時と同様にゆっくりと見えていた。
よく見てみると、オークウォリアーの動きには無駄が多い。発生したエネルギーをメイスに充分伝えきれていないし、重心もぶれている。
ナナシは殴り合いを決意した。1発もらって1発返す。その後はなるようになるだろう。多勢に無勢も関係ない。何より自分は今猛烈に腹が立っているのだ。やってやろうじゃないか。
そうこう考えているうちに、メイスが腹へ到達する。ナナシは衝撃に耐えようと、腹筋に力を込めた。その瞬間、ナナシの腹筋の反発力によってメイスが弾き飛ばされ、ゴキッという音と共にオークウォリアーの両手があらぬ方向へと曲がってしまう。
「ぷぎいいいいぃ!」
オークウォリアーは悲鳴を上げてメイスを取り落し、悶絶して倒れ込む。
「野郎! やりやがったな!」
両手斧を持ったオークナイトが、上段に振りかぶってナナシに迫る。ナナシはとっさに落ちたメイスを握って、オークナイトに叩き付けた。
しかし、オークナイトに気を取られていたため、実際にナナシが握ったのはメイスの柄ではなく、倒れていたオークウォリアーの足だった。ナナシの恐るべき膂力でオークナイトに叩き付けられたオークウォリアーは、バチュンという湿った破裂音と共に、オークナイトの上半身もろとも爆散してしまう。
ナナシは唖然として、手元に残ったオークウォリアーの残骸を見つめる。だがそれも一瞬の事だった。もはやナナシを完全に敵とみなしたオークたちの攻撃が殺到する。
後方に控えていたオークメイジの火球がナナシを狙うが、ナナシはそれを難なく手で払い飛ばすと、握っていたオークの残骸をオークメイジに投げつける。
オークメイジは慌てて防御壁を発動しようとするが間に合わない。オークの残骸が直撃したオークメイジの上半身が弾け飛ぶ。
オークたちはナナシを取り囲むと、一斉に槍や剣を突き出す。しかしそれらの武器はぶ厚い皮膚と脂肪に阻まれ、強靭な筋肉にほんの少し食い込んだだけで止まってしまう。
ナナシが全身に力を込めると、武器はすべて筋肉に固定され抜けなくなる。その状態でナナシが体を横に回転させると、得物ごと引っ張られたオークたちは体勢を崩し、その上半身を振り回したナナシの拳が次々に粉砕してゆく。
さらにナナシが力を込めると、体に刺さった武器は圧力に押し出されて落下し、傷口は血が出る暇もなくふさがってしまう。まるでオーク上位種のような、恐るべき再生力である。
ナナシは戦いの興奮に雄叫びをあげると、勢いのままオークキャプテンに殴り掛かった。
◆◆◆◆◆
「さすがはわらわが見込んだオーク? よのう。もはや笑いしか出んわ。ふはは」
ほんの数十秒の間に6体のオークが文字通り粉砕されるのを、そっと馬車の陰から見ていたロジーナ姫は、乾いた笑いを上げながらそう感嘆する。
「いえいえ! タイムなら私も負けてませんから! なんなら全部オークナイトだった私の方が上では!?」
カレンがすかさず対抗する。姫様の評価であんなオークごときに負けるわけにはいかないようだ。当然、ロジーナ姫には華麗にスルーされてしまう。
「カレン、アヤメよ、ナナシとオークキャプテンの戦いに荷車の女たちが巻き込まれては事じゃ。ささっと行ってちょろっとこっちに避難させよ」
ロジーナ姫が指示を出すと、ふたりは音もなく馬車の陰から飛び出し、荷車の方へと回り込んで行った。
◆◆◆◆◆
ナナシの拳を、オークキャプテンが寸前で見切ってかわす。拳に触れてもいないオークキャプテンの皮膚が風圧で裂ける。普通のオークなら、この拳風だけで即死する威力である。
しかし当たれば必殺の威力を秘めた拳を、オークキャプテンはかわし続ける。風圧による怪我程度はキャプテンの再生力をもってすれば全く問題にならない。
ナナシは転生前ほとんど殴り合いをした事がなく、まともに格闘技を習った事もない。せいぜい学校の授業で柔道を少しかじった程度である。そのため、止まっている相手ならともかく、本気でかわそうとする相手に当てられるほどの技量がない。
それでもオークナイト程度が相手ならば、そもそもの身体能力の差から相手が止まって見えるほどで、避ける相手にも追従できるだろう。しかし相手がオークキャプテンともなれば、見えているのに当たらないという状況に陥ってしまう。
オークキャプテンは余裕が出て来たのか、カウンター気味に剣でナナシに攻撃を入れ始める。オークキャプテンの剛力とナナシのパワーを逆利用した斬撃は、強靭なナナシの肉体にさえも傷を負わせる。
しかし、人間が持てば両手剣くらいのサイズはある肉厚の剣も、ナナシの頑丈さの前にたった3合で限界を迎え刀身が折れ飛んでしまった。
「ちっ! なんて頑丈な野郎だ! 殴り合いはシロウトのくせによッ!」
オークキャプテンは折れた剣を投げ捨てると、ナナシに拳を浴びせ始めた。
ナナシは攻撃をやめ、両腕を体の前で合わせて頭部と胸をガードしたまま、オークキャプテンが殴るに任せる。そうしてガードの隙間から落ち着いて観察すると、それまで視界には入っていたものの明確に意識できていなかったエネルギーの流れが、鮮明に感じられるようになった。
そのエネルギーの流れによって、業を煮やしたオークキャプテンが蹴りを放とうとしている事にナナシは気付く。しかも狙いは確実に金的である。生命の危機に玉は縮み上がり、ナナシの知覚がさらに加速してゆく。
加速した感覚の中で、避けるのが間に合わないと悟ったナナシは、起死回生の一手に出る。格闘家ならば膝を締めてガードする事を考え付くだろう。しかしそこは素人の浅はかさ、ナナシが選んだのは、股間にだらりと垂れさがった自分自身による迎撃であった。
迫り来るオークキャプテンの蹴り上げにタイミングを合わせ、大地を踏みしめる両足からのエネルギーを腰に伝え、鋭く一物を振り抜く。ロジーナ姫の胴体ほどもあるそれは、生命の危機に対する爆発的な力の開放も加え、オークキャプテンの脛から先を粉砕、ちぎり飛ばした。
「ぐあああっ!」
さすがのオークキャプテンも苦悶の声を上げ、バランスを崩して倒れこんでしまう。その機を逃さず、仰向けに倒れたオークキャプテンの上にナナシは馬乗りになっていた。もはやオークキャプテンが動こうにもビクともしない。
ナナシが拳を思い切り後ろへ引き絞り、オークキャプテンはとっさに両腕をクロスしてガードを固める。
次の瞬間、轟音が響き渡り、大地が震えた。ナナシの振り下ろした拳を中心に直径20メートル程に渡り地面が陥没し、オークキャプテンの上半身は完全に消滅していた。点々と飛び散る肉片がその名残をとどめるばかりである。
一瞬の静寂。
拳を地面から引き抜き、ナナシがゆらりと立ち上がる。
それを見て、オークたちの士気は瓦解した。我先にと無事なギフルに飛び乗り、2人乗り、3人乗りで逃げ出す。乗り遅れた者も略奪品を投げ出し、必死に遁走を始める。
「ひいいい! 隊長が死んだあああ!」
「逃げろッ! 王に、王に報告だァ!」
「俺のギフルから降りろッ! このクズどもがッ!」
「置いていかないでくれえェ!」
オークたちの無様な壊走に、冒険者から歓声が起こった。血気にはやる者たちが何人か追撃をかけようとするも、特級魔術師のフレディが押しとどめる。
「それよりも怪我人の救助が先だ! 先に逃げた連中にも合図を送れ! 当面はこっちの方が安全だろう」
カレンがロジーナ姫に必要以上に近づいて伺いを立てる。隙あらば姫様成分を補給しているのだ。
「今ならもう10匹くらいいけますがどうしますか」
「放っておけ、わらわに考えがあるゆえ」
ロジーナ姫はそう答えると、護衛騎士たちに冒険者の救助を手伝うよう指示を与える。
「さあて、英雄に褒美でもくれてやろうかの。ふたりともついてまいれ」
◆◆◆◆◆
戦いの熱気が去り、所在なくたたずむナナシへとロジーナ姫が歩み寄る。
「ナナシよ、此度の活躍まことに天晴である。褒美を取らせるゆえ近こう寄れ。……いや、ほどほどにな?」
ロジーナ姫の声にナナシが振り向くと、その股間で勝敗を決した一物がぶるんと揺れた。
「姫様っ! あんなものを見ては目が潰れますっ!」
今更ながら、カレンがロジーナ姫の目を背後から手で覆う。当然カレン本人はガン見である。
「確かにのう。ナナシよ、いくらオークといえどいつまでもブラブラさせておるでないわ。それこそセクハラじゃぞ」
ロジーナ姫に指摘され、すっかり全裸に慣れてしまったナナシも慌てて股間を両手で隠す。
「着るものが欲しいのは山々なんだけど、あいにくサイズが……」
「ふむ、それもそうじゃな。では褒美として良い物をやろう。アヤメよ、おぬしの蜘蛛糸で織った反物があったじゃろ。少し広めで織ったやつを一反持ってまいれ」
「いやです」
アヤメが即座に拒否する。何に使うかわかりきっているからである。ロジーナ姫の命令ならばどんな事も厭わぬアヤメが逆らうほどおぞましい使用法とは、つまり。
「ふんどしに使うくらいええじゃろ。わらわの命の恩人の股間を守るのに、おぬしの蜘蛛糸ほど安心な物もなかろうて。ほれほれ、観念してさっさと持ってまいれ」
ロジーナ姫にそうまで言われては、アヤメも従うしかない。それに、オークといえどロジーナ姫の貞操を、そして恐らく命を救ったことには変わりがない。その褒賞として自分の反物が与えられるのならば、まあ名誉な事かとアヤメは自分を納得させる。
ナナシに与えられた反物は、目にも眩しい純白の、絹をも超える手触りの良い織物だった。それもそのはず、ロジーナ姫の手掛ける下着ブランド『スパイダーシルク』のVIP御用達最高級品のために織られた、アヤメと使い魔渾身の蜘蛛糸織物である。
ナナシは跪いて反物を押し頂くと、いそいそと締め始めた。祖父が六尺ふんどし派だったため、締め方を半ば無理やり教えられたのだ。祖父曰く「長い布はどんな時にも役に立つからな!」との事である。
「ほほう、ふんどしの締め方によどみがないのう。やはりそなた日本人じゃろ」
カレンの手を振りほどき、ナナシの様子を見ていたロジーナ姫が問いかけた。
「日本人を知ってるという事は、貴女もひょっとして転生者とか?」
「ふふっ、これも奇縁よの。あの場には10名の転生者がおった故、おそらくそなたもそのひとりじゃろう」
「10人も居たんだ! 自分が気づいた時は、もう転生していく人がひとり居ただけだったなあ」
「わらわも己のパラメータ設定に夢中じゃったからのう。ざっと10人居る事くらいは確認したが、それ以外は全く気にする暇もなかったんじゃ」
ナナシは自分の他にも転生者がいると知って、いくらか心強く思う。何より、自分がただのオークとして人間に退治される可能性がずいぶん減ったのではないだろうか。
「ところで、ナナシよ」
ロジーナ姫が話を続けようとするのを、ナナシはいったん遮る。
「あの……せっかくつけてもらった名前なんだけど、やっぱりナナシっていうのはちょっと……」
「姫様に賜った名前に文句があるだと!?」
即座にカレンが抜刀の構えに入った。女騎士のたしなみとして(ロジーナ姫による間違った教育の結果)オーク語を習得しているカレンには、ナナシの言葉も筒抜けである。返答次第では血の雨を降らせるもやむなしの所存だ。
「まあまあ、落ち着かんかカレン。わらわもとっさに付けた名じゃ。じっくり考えればもっと格好良い名前が閃くかもしれん」
「あっ、ありがとうございます!」
思わずお礼を言ってしまうナナシ。もはや自分で考えるという選択肢は無い。
「そうさのう……オークの……キング? は確かもう存在しておるか。ならばカイザー……オークのカイザー……」
「オークの……カイザー……?」
ロジーナ姫のつぶやきに、ナナシが反応した。ロジーナ姫はさらに続ける。
「オークの……カイザー……オーカイザー……」
「オーカイザー?」
「オーカイザー!」
「オーカイザー!!」
「「オーカイザー!!」」
ふたりは顔を見合わせ満面の笑みで唱和する。
「「オーカイザー!!」」
ロジーナ姫がナナシを背に、空を指さし叫ぶ。
「剛腕!」
ナナシはその声に合わせ両手を高く掲げる。
「爆裂!」
ロジーナ姫の掛け声に、今度は胸の前で腕を交差させた。
「「オオオオオオオオ!」」
ふたりで声を合わせ、ふたり同時に右手を前に突き出し、左手を腰だめに構える。
「「カイザーァ!!」」
叫びが重なり、左手で虚空に正拳突きを決めた。ふたりは完全にやり切った表情である。
「なるほど、これほど強ければオークの皇帝を名乗っても文句は出ないかと」
アヤメが冷静な声で論評する。カレンはロジーナ姫の可愛さに蕩けてしまいもはや使い物にならない。
皇帝という言葉を第三者に真顔で言われ、ナナシは急に恥ずかしくなってしまう。
「カッコイイんだけど、オーカイザー……さすがに皇帝を名乗るのは……」
「めんどくさい奴じゃのう。これだけ楽しんだんじゃからもう良いではないか。恥ずかしいなら両方くっつけてナナシ・オーカイザーでどうじゃ。状況に応じて好きな方を名乗るがよい」
「ナナシ・オーカイザー……」
ナナシは逡巡するものの、オーカイザーという名前の響きはいたく気に入っている。最終的に自分で命名したのではないという事を免罪符に、ナナシはその名前を受け入れた。
「ではロジーナ姫、自分は今からナナシ・オーカイザーと名乗ります」
「うむ、苦しゅうない。それはそうとナナシよ、おぬしに相談があるのじゃ」
ロジーナ姫は、最近頻発していたオークの集団による被害をかいつまんで説明すると、ナナシにオークの討伐を依頼する。
「おぬしを転生者と見込んで頼む。奴らが逃げる時にわめいていた言葉から察するに、連中の群れ……もはや軍団であろうが、その中にはオークキングがいるじゃろう。オークキングに対抗できる人間なぞ、勇者のパーティか、どこに隠遁したかもわからぬ剣聖か、それこそ数えるほどしか存在せぬ」
「オークキング……」
ナナシは、オークキャプテンより強いであろうオークキングを想像する。戦いが終わってみれば、オークキャプテンはそこまで強いとは思えなかった。それを踏まえれば、オークキングも何とかなるだろうと本能的に感じる。
「壊滅した討伐隊も、おそらく女は何人か生きて慰み者になっておろう。今ならまだ生き残りを救えるやもしれぬ。どうか、オークキングを倒し、虜囚を救い出してはくれぬか」
「わかった、任せて」
ナナシは迷うことなく即答した。
「やはりそう言ってくれるか。わらわが見込んだだけのことはあるのう」
ロジーナ姫は、損得抜きに人のために行動しようとするこの巨大で凶悪な心優しきオークに、改めて好感を抱く。
二人の間に暖かな空気が漂い、それを敏感に察知したカレンがナナシに強烈な殺気を飛ばす。
その空気を裂いて、ナナシの腹が盛大に鳴った。なにしろ産まれてから何ひとつ食べていないのだ。ついに体が抗議の声をあげたのも当然といえる。
「ふははは! 腹が減っては戦が出来ぬか! ならばよい、食い物はたっぷりあるがゆえ、出発前に好きなだけ食ってゆけ!」
恐縮して1メートルは縮んだようなナナシを前に、ロジーナ姫の笑い声が響き渡った。