宇宙のふたり
フリーダによる奈落おとし対策とは、ナナシをエルフの秘儀により巨大化し、その空間干渉能力により空間ごと奈落おとしを移動させ、南極にある巨大な穴『虚無』へと放逐するというものだった。
この世界には、北極と南極の上空1万メートルにそれぞれ巨大な穴が存在している。
この世界に遍在する魔素と密接に関わっているこの穴は、その性質から深淵へつながっていると推測されていた。この世界の魔素は北極の穴から流れ出し、ゆっくりとこの星を循環したのち、やがて南極の穴へと吸い込まれてゆく。
奈落おとしを宇宙や太陽に放逐した所で、この世界に存在している限りは奈落おとしが広がるのを止められないだろう。
当面の時間は稼げるかもしれないが、次は完全に対処不能な大きさに広がった奈落おとしの脅威に直面する事になる。それならば、いっそ深淵へ送り返してしまうのが最も有効な手段だと考えられた。
フリーダの説明を受け、キーラが反論する。
「ナナシを巨大化させんなら、別にエルフの秘儀じゃなくてもいいだろ。あたいだけじゃなくて秋の女神の大司教とか連れてくればいいんじゃねーのか」
「無理ね。今回の作戦に必要なサイズを神聖干渉で実現したら、この星が滅びかねないわ。だからその祈念に神は応えない」
この作戦に必要とされるナナシの大きさは身長1万キロメートル以上。この星の直径にも匹敵するサイズである。もしもこの大きさの物体が、エネルギー体ではなく実体を伴って惑星上に出現した場合、足下でどれ程の災害が起きるか想像に難くない。
まだ何か言いたげなキーラの肩に、ナナシの手がそっと置かれた。睨みつける様に振り向いたキーラに、ナナシは優しく微笑みかける。
「大丈夫、心配しなくていいから。きっと世界を救ってみせるよ!」
「あのな、おめーが世界を救えるかどうかなんて誰も心配してねーんだよ! こっちはおめーをどうやって救うかの話してんだろうが!」
「アッハイ」
「まったくおめーはよ、ちったあ自分の心配もしろっての。まあ奈落おとしを何とかした後の事はウチらに任せとけ」
「うん……ありがとうキーラ」
「ウチらはチームだろ。おめーからしたら頼りないかも知れないけどよ」
「そんな事ないよ! いつも助けてもらってるのはこっちの方だし」
「そだにょ〜、チームレジオナのモットーは助け合いのせ〜しんだかんね〜。今回も大船に乗った気分でおまかせあれ〜」
レジオナがふにゃふにゃと請け負うと、フリーダも肩をすくめて笑う。
「チーム名には異議ありだけど、ともかく作戦の提案者として、あなたが消滅する前に何とか回収する方法は考えてあるから。失敗してもキーラが泣くだけだしね」
「まあそんときゃおめーの墓の前で泣いてやるよ、ナナシ」
言葉とは裏腹に、絶対に成功させるという決意がこもったキーラの眼差しを受け、ナナシの胸に温かいものが広がってゆく。周りを見回せば、モニカと黄金龍もナナシを見つめ力強く頷き返す。美強はニヤリと笑って片眉を上げた。
それから数時間、チームレジオナは作戦の詳細を詰め、練習と実験を何度か繰り返し、翌日の本番へと臨む事となる。
◆◆◆◆◆
翌日の早朝、ついに奈落おとし追放作戦の幕が切って落とされた。この作戦の成否によって、ジルバラント王国が西方諸国へ協力を呼びかけるかどうかも決まる事となる。
ナナシたちは奈落おとしから100キロメートル以上南下した場所で、作戦の下準備を始めていた。美強が刀の柄に手を添えながらナナシを見る。
「おい坊、もうちっと気楽に構えなって。痛みを感じる暇もねえくらいささっと切ってやっからよ」
言われたナナシは固く目をつぶって、右手を横に差し出していた。まるで注射針から目をそらす子供のようである。斬り落とされる右手を受け止めようと待機しているキーラが同情するように言う。
「まあ、怪我は慣れててもこういうのはまた別なんだよな。わかるぜナナシ」
「なるべく優しくお願いします……っ」
絞り出すように覚悟を決めるナナシに、美強が笑って答える。
「ほうら、気が付かなかったろ? まだまだ俺も捨てたもんじゃねえな」
その言葉が終わると同時に、ナナシの右手がぽとりと落ちた。断面から吹き出した血をキーラが慌てて避ける。
美強の剣筋を捉えた者は、この場には誰もいなかった。ただフリーダと黄金龍だけが、糸の様に微かな斬撃の軌跡をエネルギーの残滓として見るばかりであった。
血が止まったナナシの右腕の先には、エネルギー体の右手が淡く光っている。この調子でナナシの全身を切り刻み、エネルギー体を露出させるのが美強の役目であった。
「さあ、残りはまとめて一気にいくぜ。喰らいな! 羽生心影流ナナシ賽の目斬り!」
その場のノリで適当な技名をでっち上げながら、楽しそうに攻撃する美強。
4メートルあるナナシの体をふわりと巨大な蜘蛛の巣が覆う。魔破の里で位階を上げた侍女長アヤメ・ツチグモから入手していた、灼熱魔熊をも両断する蜘蛛糸で織り上げた蜘蛛の巣状の網である。
蜘蛛糸には、羽生心影流『無影刃』によって形成された微細な刃が無数に並び高速振動していた。エネルギー体を切断してしまわないよう、神気ではなく魔力によって構成されているその刃は、美強の技と相まってナナシの肉体を瞬時に切断する。
哀れナナシの肉体は細かな肉片となってエネルギー体を残したまま足元へと崩れ落ちた。
淡く光るエネルギー体となったナナシは全身を襲う激痛にのたうち回る。切断こそされなかったものの、美強の魔力による斬撃はナナシのエネルギー体にもダメージを与えてしまったようだ。
「いだだだだだだ! ちょっとまって今の攻撃痛すぎるんだけど! これ魔力の刃いりました!? ねえ!?」
ナナシの抗議に苦笑いを返す美強。
「いやあ、アヤメの蜘蛛糸だけでもいけるとは思ったんだがよ、坊の頑丈さを考えてついつい保険をかけちまった。すまねえすまねえ」
そんなやり取りをしている間にもナナシの輪郭はみるみるぼやけてゆく。この作戦は時間との勝負でもあるのだ。
「頑張れよナナシ! 後の事は任せとけ!」
キーラはそう叫ぶと、ナナシの右手を抱きしめて黄金龍へと走り出した。
「おっと、こいつを忘れんなよ!」
美強が内部拡張収納袋から狼を模した兜を取り出してキーラに放る。
キーラはこれから高度5千キロメートルまで上昇する必要があるため、呼吸の確保が必要だった。面頬の内部に循環呼吸の呪符を備えた兜を装着したキーラは、人化を解いた黄金龍に抱えられ上空へと飛び立つ。
肉体を失ったナナシは周囲の魔素を取り込みながら加速度的に広がり始めた。ちょっとでも気を抜くと意識が薄れてしまいそうになる。
さらに、世界の魔素とつながる事によってもたらされる、大いなるエネルギーの流れに対するある種の明確な理解が、ナナシの精神を徐々に蝕んでゆく。事前にモニカとフリーダによって精神強化の祝福と魔法を施されていなければ、狂気と正気の彼岸へ容易く到達していたであろう。
「これがエルフの秘儀……最高に興味深い! 門外不出の口伝がいま白日の下にさらされているのね。ああ! またひとつ世界の神秘が明らかになったわ!」
周囲の魔素がナナシと同化してゆく様子を、モニカが嬉々として記録している。
空間そのものがナナシに置き換わる感覚は、何とも言えぬ違和感があった。特に圧力や温度が変わる訳では無いものの、何者かかが傍に居るという実感が確かにある。
しかし、モニカにとってそれは嫌な感覚では無かった。それがナナシをよく知っているからなのか、それともナナシ自身の性格によるものかはわからない。
きょろきょろと周囲の様子をうかがう兵士たちが平静を保っている事を考えれば、やはりナナシの性格が反映されているのだろうとモニカは結論づける。
やがて身長200キロメートルに達したナナシは、淡く光る半透明の両手で地面とその周囲の空間ごと奈落おとしをすくい取った。上空から見下ろすと平たい円盤状に広がる奈落おとしは、ナナシの空間干渉能力の前になすすべもなく運ばれてゆく。
この、干渉すべき場所だけに影響を及ぼせる状態こそ、単純な巨大化では成しえないエルフの秘儀の真骨頂であった。とはいえ、あらゆるものの干渉を受けない奈落おとしを運べるのは、神域をさらに超える筋力151を誇るナナシただひとりであろう。
その後も加速的に広がってゆくナナシの体は、ついに身長1万キロメートルに達する。もはや地上からはその全容をうかがい知る事は出来ない。高度5千キロメートルを飛ぶ黄金龍とキーラだけが、地表から宇宙空間までそびえ立つナナシを視界にとらえるのみであった。
ナナシは、主観的にはもはや砂粒のような奈落おとしを、そっと南極の『虚無』へと運ぶ。キーラたちにはゆっくりと見えるその動作であるが、手のひらの速度は実に秒速230キロメートルを超えている。宇宙空間である事と、ナナシの空間干渉能力があればこその移動速度であった。
『虚無』は上空から見下ろすと何も存在していないように見える。ナナシは穴のある位置の真上から、さらにゆっくりと手を下ろしてゆく。今のナナシは世界の全てを知覚しているため、穴の位置も、手のひらの奈落おとしとの位置関係も全て正確に把握できていた。
ナナシは地表から8千メートルの高さまで手を下ろすと、今度は奈落おとしを『虚無』へ投げ入れる様に上昇させる。南極の上空に開いた深淵へとつながる虚無の穴へと、奈落おとしは何の抵抗もなく吸い込まれていった。
◆◆◆◆◆
奈落おとしが『虚無』へと追放されるのを見届けたキーラは、黄金龍の手から宇宙空間へと飛び出した。
『力場形成』に包まれた肉体は、全身を覆う皮鎧と魔力による身体強化のおかげで真空をものともしない。呼吸も兜の呪符によりしばらくの間は何の問題も無いだろう。
空中に漂いながら、キーラは右腕の義手を外して内部拡張収納袋へと収納した。そして魔力を右腕に集中し、銀色に輝くエネルギーの右手を形成する。
あらかじめモニカに『思考加速』の加護を付与されているキーラは、自身の感覚を極限まで研ぎ澄ませた。黄金龍が十分な距離を取るまで30秒。その間に仕事を終えたナナシがこちらに向かって手を伸ばして来る。
既にナナシの意識はいつ霧散してもおかしくない状態であった。淡く光る輪郭は不鮮明であり、エネルギー体はもはや目視が困難なほどに薄れている。
実際の速度とは裏腹に、ゆっくりと差し出されるように見える手の動きがキーラにはもどかしい。切り取られたナナシの右手を抱える腕に思わず力がこもる。
しかし彼女とナナシに与えられたチャンスは、わずか2千分の1秒であった。どれほど焦燥に焼かれようが、タイミングを違える事だけは避けねばならない。
そしてついに永遠とも思えた30秒が過ぎ去り、ナナシが何度も練習した体勢を取る。黄金龍の正確な飛翔により、キーラとの相対位置も想定通りであった。
キーラはスカイダイビングのような腹ばいの姿勢で、秋の女神に巨大化を祈念する。その比率、実に2,097,152倍。
次の瞬間、遥か天空を覆い尽くす身長4千キロメートルを超えるキーラの姿があった。
キーラが恩寵として賜った巨大化は、倍率が自由な事を除けば神聖干渉の巨大化と同じ奇蹟である。この奇蹟による巨大化は単純な肉体の膨張ではなく、高位次元からの投影によるものであった。そのため、肉体のみならず装備品等も同時に巨大化する事が可能なのだ。
しかし、たとえ空中とはいえ大気圏内にこれだけの質量が出現した場合、大気の圧力変動による暴風や津波は想像を絶する規模で引き起こされるだろう。そのような祈念に女神が応える事はありえない。
地上への影響を可能な限り排した、宇宙空間で2千分の1秒の実体化。この祈念に女神が応えてくれるかどうかが、この作戦最大の賭けであった。
そして、奇蹟は成された。
巨大化したキーラが伸ばしたエネルギーの右手は、ナナシが伸ばしたエネルギーの右手にぴたりと重なり合う。2千分の1秒、それで充分だった。
握り合ったふたりの手は、まるで同化したかのごとく強固に結びついていた。巨大化が解けたキーラの右手には、強い輝きを放ついつもの大きさのナナシの右手が握られている。ほとんど実体を持つかのような存在感のあるエネルギー体の右手は、肘の辺りから先が揺らめいて虚空へと消えていた。
キーラはナナシのエネルギー体の右手を、胸に抱えた肉体の右手へと重ね合わせる。そして、ささやくように語りかけた。
「魂喰らいと戦った時におめーが握ってくれた右手覚えてっか? 今度はあたいが握っててやっから、さっさと帰ってこいよ。聞こえてんだろ、なあナナシ」
密閉された兜の中の声は、キーラの魂を通じてナナシの右手へと伝わってゆく。それは世界に溶けてゆくナナシの意識を優しく刺激して、ふと幼い頃に手を引かれて家路についた記憶を呼び起こす。
さあ、帰ろう。ナナシは転生したこの世界に、帰るべき拠り所がある事を嬉しく思う。
そこから先は、何も難しい事は無かった。ナナシはしっかりと握られた右手を頼りに、自分だったものを引き寄せてゆく。ナナシのエネルギー体は世界中の魔素の一部を取り込みながら収束し、切り落とされた右手から爆発的な再生が始まった。
ほんの数秒で全身の再生を終えたナナシは、キーラと手を取り合ったまま暫し無言で見つめ合う。
やがて何か言おうと口を開いた瞬間、ナナシはここが宇宙空間だという事に初めて気がついた。慌てて両手で口元を押さえジタバタともがくナナシを見て、キーラの顔にも笑みが広がる。
「まったく、世界の救世主も締まらねえな」
キーラは密閉された兜の中で大きく息を吸い込むと、狼の吻を模した面頬を跳ね上げ、ナナシに唇を重ねた。
身長197センチメートルを誇る元特級冒険者の肺活量とはいえ、ナナシにとってはほんの軽いひと呼吸に過ぎない。しかしその吐息は甘くナナシの肺を満たし、その体に再び活力を与えた。
声の届かぬ真空中で、微笑むキーラの口が「バーカ」の形に動き、面頬が閉じられる。照れ隠しのように背中を向けて膝を抱えるキーラを、ナナシはそっと後ろから抱きしめた。
ナナシがキーラの兜に額を押し当てると、中から少し怒った様なキーラの声が響いて来る。
「言っとくけど今のはそういうんじゃねえからな! 救命措置だっつーの、勘違いすんなよ!」
そう言って、後ろから回したナナシの腕に顔をうずめるキーラ。ひとつの塊となったふたりは、ゆっくりと重力に引かれるまま落ちてゆく。
「あらあら、お邪魔だったかしら、ごめんなさいねぇキーラちゃん。うふふふふ」
突然、真空中に流麗な西方共通語が流れ、煌めく巨体が飛来する。極限まで威力を落とした光の息吹によって、防具や骨に直接振動を与えて音を伝える黄金龍の荒技であった。あえて念話ではない所に何やら配慮が感じられる。
黄金龍はふたりをそっと手で受け止めると、『力場形成』を展開して一気に降下を始めた。
地上ではきっと仲間たちの歓待が待っているだろう。しかしここは高度5千キロメートル。大気圏への突入を考えれば、黄金龍の速度をもってしても地上まではまだまだ時間の余裕がある。
ナナシとキーラは黄金龍の手のひらに包まれて、今ひとときの安らぎを噛み締めるのだった。
【第二部 激闘編 完】
これにて第二部、激闘編の完結です。
次回からは第三部、戦乱編の開始となります。
更新は毎週金曜の17時を予定しています。
これからもよろしくお願いします。




