奈落落とし
地上から見る奈落おとしは恐るべき威容を持ってそこに存在していた。
高さ500メートルに及ぶ半球状の穴。それは景色を不気味に切り欠いて、見つめる人々の魂さえも奈落の底へと誘うかのようであった。
とはいえ、調査団の面々も百戦錬磨の強者ぞろいである。客車から降りると同時に、指示される事も無く速やかに各自の仕事に取り掛かった。
カミラは『飛行』で奈落おとしの直前まで近づくと、そこから東へ向かって飛翔しながら、土魔法で幅10センチメートル、長さ3キロメートル程の溝を形成する。
術式自体は単純な『落とし穴』の応用とはいえ、3キロメートルもの長さを単身で形成する魔力と精度は尋常ではない。
加えて溝には10メートルごとに小さな横線が、100メートルごとに大きな横線が入っており、さらに大きな横線の端には数字まで振られている。これにより奈落おとしの膨張速度を観測しようというのだ。
溝の終点では、先に移動していたモニカが、こちらも土魔法で作った簡素ながら堅牢な土台に測量機を設置して、奈落おとしの高さを計測している。奈落おとしが上下方向にも膨張するかどうかは、今後の避難計画に関わってくるだろう。
いっぽう奈落おとしの前では、男3人とレジオナ、そして人化した黄金龍が様々な武器や攻撃を試していた。
現在の奈落おとしの膨張速度は1秒間に3ミリメートルも無い。
しかし相手がただの現象ではなく混沌の使徒である以上、突然膨張速度が速まったり、何らかの攻撃が繰り出されないとも限らない。そういった反応も含めて、あえて身を危険にさらしながらの検証を粛々と行ってゆく。
騎士団長レオンハルトとギルド長ゴットフリートが、それぞれ金剛鋼とエルフ銀製の剣を奈落おとしへと同時に突き入れた。
それらの武器は何の抵抗もなく奈落おとしへと突き刺さる。あまりの手ごたえの無さに拍子抜けしながら、ふたりは剣を引き抜こうとするも、奈落おとしへと突き込んだ部分の刀身は完全に消え失せていた。
レオンハルトとゴットフリートは、ジークハルト王子と共に、鏡のように滑らかな剣の断面を注意深く観察し、突き込んだ際の手ごたえや武器に流した魔力の感触などを話し合う。
黄金龍の息吹が通用しなかった以上、そもそも武器で傷つくとは思っていなかったが、間近で観察すればどのように吸収、あるいは分解されているのか判明するかも知れない。
真剣に議論する男たちの傍らで、レジオナは木の枝に突き刺した動物の糞を奈落おとしに吸収させ、きゃっきゃと手を叩いて笑っていた。そして、何の反応も見せない奈落おとしに、これ幸いと無限収納にため込んだゴミをどんどん投げ入れ始める。
さらにその隣では、人化した黄金龍がなにやらうんうんと唸りながら、時おり思い出したように『万象を滅する全なる光』を放っていた。
円錐状に放たれた息吹は地面をも抉るが、半球の延長線上で息吹は途切れてしまい、地面の下からは奈落おとしの漆黒の表面が現れる。どうやら奈落おとしは半球ではなく球状に出現しているようだ。
やがて、大量のゴミを処分し終わったレジオナが、つい好奇心に負けて人差し指を奈落おとしに突っ込む。
指先が奈落おとしの表面を越える瞬間の感触は、空間転移、あるいは無限収納に入る時のような、ある種次元の壁を越える感覚と共通するものがあった。
外からはうかがい知れぬ奈落おとしの内部をよく観察しようと、レジオナは指先に小さな眼球を形成していた。意外な事にそこは闇ではなく、原初のエネルギーが渦巻くまばゆい空間であった。
レジオナはこの風景に既視感を覚える。その原因はナナシたちと混沌の使徒魂喰らいの戦闘時、赤毛の狼の姿でその様子を見ていたレジオナの記憶によるものであった。
視線の先では、流動するエネルギーが一瞬異形の影を形作り、またエネルギーの奔流の中へと崩れてゆく。渦巻くエネルギーの中では、すべてを焼き焦がすような電光がそこかしこで煌めいている。
奈落おとしの内部に広がっているこの場所は、紛れもなく深淵であった。
◆◆◆◆◆
深淵、それは時に地獄とも同一視される事がある。奈落おとしの内部は、文字通り奈落へとつながっていたのだ。(ただし、これは深淵が地獄とイコールである事を意味しない)
いくら知識の女神の加護を受けていたとしても、常人が生身で深淵に放り出されれば、発狂こそ免れるかも知れないがとても周囲の観察どころの話ではない。神域150の精神力を誇るレジオナでさえ、ぴゃああと奇妙な悲鳴を上げて思わず手を引いてしまった。
奈落おとしの内部からはどんな存在であっても出る事は不可能である。そうでなければ、深淵そのものが現世へとあふれ出してしまうだろう。
とっさに引いたレジオナの指先は、奈落おとしと接していた部分で綺麗に切断されてしまった。一瞬、擬態の完全さ故の出血があったものの、すぐに自分たちの体で指先を再構築する。
いっぽう奈落おとしの内部に取り残された、人差し指を構成するレジオナたちは、ある方向へと落下しながらも観察を続けていた。
落下、あるいは引き寄せられている方向に見えたのは、はるか下方で視界を埋め尽くす程の広さに蠢く、巨大な内臓の群れであった。
彼我の距離はレジオナの主観でおおよそ5000メートルはあろうか。しかし蠢く内臓の巨大さに距離感が狂わされる。ひとつひとつの臓器が数百メートル以上の大きさであり、様々な種類の臓器が無数に絡み合い蠕動し脈動していた。
不意に、レジオナの横をひとすじの光線が通過する。それは直径20センチ程に絞り込まれた『万象を滅する全なる光』であった。
黄金龍の息吹は奔流するエネルギーを貫いて、眼下で蠢く内臓の群れを焼く。恐るべき破壊力に内臓の群れは崩壊、沸騰、爆発し、直撃した周囲の臓器も苦悶するように激しく蠕動する。
しかし局所的な破壊の痕はあっという間に無数の臓器に飲み込まれ、何事も無かったかのように再び内臓の平野が広がるのみであった。
この視界を埋め尽くす内臓の平野こそが、混沌の一柱『貪り尽くす者』である。
奈落おとしから深淵へと落ちてきた物体は、エネルギーの奔流にさらされて崩壊し、最終的には純粋なエネルギーとして下で待ち受ける『貪り尽くす者』へと吸収されてゆくのだ。
たまに落ちてくる固い物質は、臓器の隙間に形成された無数の巨大な口から伸びる長大な舌によって空中で捕獲され、十分に咀嚼されたのち飲み込まれる事となる。
そして、現世においては球として召喚された奈落おとしであるが、その実態はまさしく穴そのものであった。
黄金龍が放った息吹は、地上から見れば水平に打ち込まれたにも関わらず、その軌道は穴から真下へと向かって一直線に伸びていた。次元の相が違うため境界面が球状に展開しているだけであり、深淵側から見れば奈落おとしは平面状に開いた穴として存在している。
落下を続けながらもこれらの状況を観察していたレジオナは、神域まで上げた耐久力によりなんとか崩壊を免れていた。その上、肉体的には切り離されてしまったものの、無限収納を介した他のレジオナとのつながりは依然として維持されている。
故に、奈落おとし内部の情報は全レジオナの共有する所となった。神域150の精神力がなければ数千兆体のレジオナがほとんど発狂していたであろう。
状況の把握を終えた人差し指のレジオナは、無限収納へと避難を開始する。無限収納を展開したままこの場に留まれば、深淵が無限収納内部まで侵食してこないとも限らない。
自分たちを無限収納へと送り込んだ最後の1個体が、無限収納の入口を閉じる。自分たちとのつながりが消え、たったひとりの微小なスライムとなったレジオナの意識は曖昧なものとなり、十数年ぶりの真なる孤独に震えるばかりであった。
あまりの小ささ故か『貪り尽くす者』に捕食されることもなく、深淵の中をエネルギーの奔流に翻弄されながらひらひらと落ちてゆくレジオナ。やがてその姿は内臓の平野へと消えていった。




