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深淵より

 ナナシの拳によって粉砕された死霊王は、薄れゆく意識の中、ナナシから吸い取った膨大な生命エネルギーを魔力に変換し辛うじて霊体を修復する。


 頭蓋骨だけの姿になってしまった死霊王バイロンは、空中からナナシたちを見下ろし怨嗟の声を上げた。


「おのれ……! おのれ、おのれ、おのれッ! もはやただでは済まさんぞ。我が究極の秘儀見るがよい! そして未来永劫深淵(しんえん)にてもがき苦しむがよいわ!」


 死霊王に汚染された周囲の魔素と、ナナシから吸い上げられた生命エネルギーが混じりあい、死霊王の周りで渦を巻き始める。異様な気配にナナシたちが上空を仰ぎ見ると、渦の中心で頭蓋骨の眼窩が眩く光る。


「深淵より来たれ! 『使徒召喚』!」


 死霊王バイロンの祈念に呼応し、渦巻くエネルギーが巨大な軟体動物の様にのたうち始めた。それは数百体のスケルトンウォリアーを全て飲み込みバラバラに分解すると、黒紫色の水平な渦となって空中の1点に集約し浮遊する。


 やがてその渦から、無数の骨で構成された巨大な扉が降臨した。


 高さ18メートル、幅7メートルの禍々しい扉が地上に降り立つと、無数にちりばめられた頭蓋骨が一斉に悲鳴を上げる。その大音声を伴奏にして、ゆっくりと扉が両側に開いてゆく。


 扉の奥は、原初のエネルギーが渦巻く果てなき深淵であった。


 常に流動するエネルギーが一瞬異形の影を形作り、またエネルギーの奔流の中へと崩れてゆく。強大なエネルギーがフレアの様に吹き出し、すべてを焼き焦がすような電光がそこかしこで煌めいている。それは人間が見てはいけない光景だった。


 モニカはとっさに知識の女神の加護『深淵を覗く者』を祈念し、ナナシたち全員に祝福を与える。これは未知への探索者の精神を宇宙的恐怖から護る加護であり、精神耐性を大きく引き上げ発狂を防ぐ。


 そして、それはやってきた。


 ぽっかりと開いた扉の枠に触手を束ねたような巨大な手がかかり、蠢く触手の塊を現世へと引きずり出す。扉からぞろりと溢れ出したその触手はのたうち絡み合いながら上へ上へと伸びあがり、ついには触手で出来た身長20メートルの異形へと成る。


 肥大した類人猿のようなその異形は、地面に着くほど長い両腕を持ち、腹部はぼってりと膨らんでいた。ヘソの在るべき位置には巨大な口が縦に裂けており、粘液にまみれた長い舌がちろちろと出入りを繰り返す。


 異形の全身は赤黒い触手で構成された筋肉によって覆われており、鼓動するかのように蠕動(ぜんどう)を繰りかえしていた。触手の塊のような頭部には鼻はなく、巨大な口が一つと、両目にあたる部分には眼球の代わりにひと回り小さな口が並んでいる。


 知識の女神の大司教であるモニカは、その異形を見て正気とも狂気ともつかぬ笑い声をあげた。


「きゃはははは! 混沌浸食とは興味深い! 『虚空録』に書き込みたいィ! きゃはははは!」


 混沌浸食とは一種の神聖干渉であり、発動の原理そのものは同じである。


 しかし神聖干渉と違い、発動さえしてしまえば、その後は術者の存在力とは関係なく混沌による現世への浸食が進んでゆく。この特性により、混沌浸食は混沌の神聖干渉である邪神介入とは区別されている。


 ただし、恐るべき影響力を現世に及ぼす混沌浸食の発動には、本来ならば大司教レベル十数名分の存在力が必要であった。


 死霊王バイロンはナナシから吸い取った膨大な生命エネルギーと数百体のスケルトンウォリアー、そしてそこに宿る呪縛した魂を生贄に捧げる事により自らの存在力を高め、この祈念を成就させる事に成功したのである。


 巨大な異形が長い左手を自分の方へ伸ばすのを見て、死霊王バイロンは感極まったように叫ぶ。


「見よ! これこそが混沌の一柱(ひとはしら)『魂を縛る者』の使徒たる魂喰(たまぐ)らいなるぞ! 貴様らの魂を引きずり出し深淵へと運び去ってくれるわ! ふははははは!」


 高らかに笑う死霊王の後頭部を、粘液にまみれた舌がぬるりと舐め上げる。霊体を直接舐められる感触に怖気を覚えながら死霊王が振り向くと、伸ばされた魂喰らいの手のひらに巨大な口が開いているのが見えた。


 嫌な予感を覚えた死霊王は魂喰らいに対して必死に訴えかける。


「わっ私めは偉大なる『魂を縛る者』の(しもべ)にて、御身をこの世に顕現(けんげん)せしめた敬虔(けいけん)なる信徒にございます。なにとぞお力添えをもってそこな異教徒どもに制裁をふばっ」


 魂喰らいの粘液にまみれた長い舌が頭蓋骨のみの死霊王に巻き付き、その必死の弁舌はあえなくふさがれてしまう。

 一瞬、いやいやをするように死霊王の頭蓋骨が震えるが、無慈悲な舌はそれを全く意に介さず、死霊王をちゅるんと手のひらの口へ運び込む。


「やめてえええ!」


 死霊王の断末魔の叫びは、ごりっという霊体を噛み砕く音によって途切れた。


 死霊王(リッチ)という霊体を粉砕され、ただのバイロン・ベイリーとなった哀れな魂は、魂喰らいの体を通して深淵に送られる。そして未来永劫『魂を縛る者』によってその魂を絞られ続けるのだ。


 前菜代わりに死霊王を飲み込んだ魂喰らいは、両手を高々と掲げると全身の口を開いて周囲の魂を飲み込み始めた。


 鳥獣の矮小な魂はあっという間に吸われ尽くし単なるエネルギーへと変換されてゆく。そして最も近い場所にいたナナシたちにもその影響はすぐに表れた。


 まず最初に、弱り切っていたキーラの魂が肉体から引き剥がされてしまう。エルフの霊体に比べると遥かに薄く透けるキーラの姿が肉体からふわりと抜け、ナナシのすぐ側を魂喰らいに吸われてゆく。


 ナナシはとっさに手を伸ばしキーラの魂の手をしっかりと掴む。薄くぼやけかけたキーラの魂に力が宿り、ナナシと視線を交わしたキーラの魂が安心したような微笑みを見せる。


 その様子を見ながらフリーダが大声で叫ぶ。


「ちょっと! ふたりでいい雰囲気だしてないでなんとかしなさいよ! このままじゃエネルギー生命体の私たちでもヤバいわよ!」


 実際、叫ぶフリーダの体は微妙に2重写しの様にぶれて見える。肉体にしがみついていられるのも時間の問題だろう。


 モニカはと言えば、吸い出された魂が頭だけで体とつながり、風に揺らぐ旗のようにバタバタとはためいている。どうやら『知識の座』に録画をしているおかげで、肉体と魂が頭部のみ分離せずに済んでいるようだ。


 そんな状態のモニカが一見落ち着いた口調で言う。


「混沌の浸食はどんどん広がってゆくから、ほどなく町の人間の魂も吸い出されてここへ飛んでくるわよ。そうなれば増々浸食速度は早まって、たぶん明日中にはイーダスハイムあたりまで広がるでしょう。ああっ! 録画時間が! 足りないィいいいいい! つなぐか! 『虚空録』直接録画いっちゃうかッ! ふひゃははははははははは!」


 危ない。実に危ない。


 ナナシは必死に考えを巡らせる。とにかくこの吹き荒れる混沌の嵐を何とかしなければ。

 ナナシの脳裏に祖父の「お祓いしたい時はな、とりあえず拍手(かしわで)うっとけ!」という大雑把にも程がある言葉が閃いた。同時にレジオナの「ナナシたんの筋力ならイメージ通りに世界の方が追従するから」との言葉も思い出される。


 やるしかない。ナナシはキーラの魂を引き寄せるとフリーダにその魂を託す。


「なんか思いついたのね。こっちは任せといて」


 フリーダはキーラの魂をしっかりと抱きしめた。エネルギー生命体ならではの連携である。


 ナナシは魂喰らいの前に立ちはだかると、大きく息を吸い込み、両手を打ち合わせた。


 ぱあん。

 清涼な音が世界の隅々にまで響き渡る。


 ぱあん。

 夜明けを告げる鐘の音の様に、魔を払う鈴の音の様に、清涼な音が混沌の嵐を打ち払う。


 ぱあん。

 混沌の嵐は打ち払われ、魂はあるべき場所に戻ってゆく。


 ぱあん。

 そしてついに世界は秩序を取り戻す。


 ナナシは両手を合わせた姿勢のまま巨大な魂喰らいを睨みつける。魂喰らいは目のない貌をナナシに向けると鳴き声とも泣き声ともつかぬ声を上げた。それは魂に直接響く言葉となってナナシに問いかける。


「我が浸食を押しとどめるとは、(なんじ)いかなる者ぞ」


 ナナシは直感する。これは答えてはいけない質問であると。真名を知られて魂を支配される類の質問に違いない。


 しかし使徒たる魂喰らいの言の葉は恐るべき圧力をもってナナシを屈服させようとする。フィジカル全振りのナナシは精神耐性が貧弱である。耐える間もなくあっさりと名乗ってしまうナナシ。


「我が名は“剛腕爆裂”ナナシ・オーカイザー!」


 両手を腰に当て若干ドヤ顔である。魂喰らいは20メートルの体を前後に揺すりながら、再び鳴き声・泣き声を上げる。


「そは我が欲する答えにあらず。汝の真名は如何(いか)なるや」


 しかしナナシは答えようがない。なぜなら()()()()()()からだ。ナナシはここに至りなぜ自分が名前を覚えていないのかを悟る。これはつまりこの世界に対するセキュリティなのだ。


 真名を知らなければ利用される事も無い。


 そもそも規格外の力を与えられている転生者にとって、真名など百害あって一利なしといえる。向こうの世界に置いてきた名前ならば、この世の全てを網羅する『虚空録』にすらそれは記録されていない。


 そして転生者は皆自分の死因と名前を忘れて生まれてくる。すなわち転生者とは全てが名無しなのだ。


 魂喰らいは両腕をゆっくりと上げると、鳴き・泣き声で全員に告げる。


「よかろう、ならば全て喰らうまで」


 20メートルの巨体が身長ほどもある腕を振るう。ナナシは横薙ぎに振るわれるその腕を正拳突きで迎撃する。相手が向かってきてくれるのだ、これほど楽なことは無い。


 魂喰らいの巨大な質量も、ナナシの拳の前には何の問題も無い。正拳突きで片方の腕を弾き飛ばしたナナシは、突き込まれる反対側の腕を拳で地面に叩き付けた。


 半ば地面に埋まり動きが止まった魂喰らいの腕に飛び乗り、ナナシは魂喰らいの頭目指して腕を駆け上がる。払い落とそうと迫る魂喰らいの腕をアッパーカットで跳ね上げたナナシは、走り込む勢いのまま魂喰らいの頭部を右拳で粉々に粉砕した。


 だが、魂喰らいの両肩の触手が突然大きく盛り上がると、巨大な口となってナナシの右腕を食いちぎる。格闘技に関して素人のナナシは、突いた拳を引かずにそのまま腕を伸ばしていた。頭部を粉砕した事による油断も相まって、魂喰らいの攻撃に反応しきれなかったのだ。


 エネルギー体の腕ごと食いちぎられたナナシの腕は、『不滅の肉体(アンブレイカブル)』をもってしても再生しない。魂喰らいによって存在そのものを喰われてしまったためである。


 振り落とされたナナシに、魂喰らいの体から無数の触手が伸びた。その先端には口が形成されており、ナナシを残らず食い尽くすつもりである。

 ナナシはとっさに左腕で頭部を庇うものの、触手は容赦なくナナシに食らいつく。


 しかし、触手の動きはそこで止まってしまう。ナナシは無意識のうちに周囲の魔素を使い、自身の耐久力を強化していた。


 ナナシの拍手(かしわで)によって浄化された周囲の魔素はナナシに良く馴染み、通常の肉体強化をはるかに超えた恐るべき耐久力をナナシにもたらしていた。その硬度、実に金剛鋼(アダマンタイト)を凌駕する。


 ナナシが気合と共に全身に力を込めると筋肉が膨張し、噛みついていた触手は全て弾き飛ばされた。


 その隙をついて、ナナシは大地を蹴って跳躍すると魂喰らいの腹部に肉薄する。狙うは人間で言う所の胃から肝臓への浸透するダメージ。破壊するのではなく染み込ませるようなイメージで左拳を魂喰らいに叩き込む。


 世界を震わせるような轟音と共に撃ち込まれた拳は、魂喰らいの20メートルの巨体を宙に浮かせた。その衝撃により魂喰らいの頭部に形成された口から粘液に塗れたナナシの右腕が吐き出される。


 頭上から落ちてくる粘液まみれの右腕に顔をしかめながらも、ナナシはそれをキャッチすると、噛みちぎられた傷口を重ね合わせた。ナナシの恐るべき再生力によって、右腕は瞬時に接合する。


 空間を踏み台にしてさらに上空へと跳躍したナナシは、頭上で両手を組むと魂喰らいの頭部めがけて両拳を思い切り振り下ろす。イメージするのは全てを圧壊する巨大なハンマーの一撃だ。


 魂喰らいの体が地響きと共に大地にめり込み、触手が潰れ不浄な体液が飛び散る。しかし深淵への扉から次々に触手があふれ出し魂喰らいの体は見る見るうちに元の姿へと復元されてゆく。


 その光景を見ながらナナシは考える。あの扉が開いている限り魂喰らいは不滅なのかもしれない。何とかしてあの扉を閉じなければ。


 着地したナナシに再び無数の触手が迫る。今度の触手は大きく開いた口の中で金属製の刃が何十枚も回転している。アレに齧られてはさすがのナナシも無事では済まないだろう。


 ナナシは両手を大きく広げると、空も裂けよと全力で手の平を打ち合わせる。恐るべき破裂音は衝撃波となり迫りくる触手を弾き飛ばす。


 再び跳躍したナナシは反発させるイメージで魂喰らいの頭部に拳を叩き込む。魂喰らいの20メートルの巨体が大きく後ろに仰け反る。


 次に、鳩尾のあたりに落下したナナシは空間を足場に魂喰らいへと飛び膝蹴りを見舞う。魂喰らいは体をくの字に曲げ、深淵へと続く扉へと押し込まれる。


 あふれ出した触手で構成された魂喰らいの体は明らかに扉より大きく、これ以上は押し込めそうにない。ただしそれは通常の手段でならばの話である。ナナシの筋力は151。その剛腕に不可能は無い。


 さらに空間を蹴って魂喰らいへと踏み込んだナナシは、思い切り引き絞った右拳を、世界も砕けよと魂喰らいに(ねじ)り込む。意図せずコークスクリューブローとなったその衝撃は、拳を中心として螺旋状に魂喰らいの体を巻き込んでゆき、魂喰らいは回転しながら扉の中へと叩き込まれた。


 その瞬間、ナナシの体が巨大化する。キーラが最後の力を振り絞り、神聖干渉『巨大化』を祈念したのだ。短期間での再使用に加え、生命力をほとんど奪われてしまったキーラの祈念により(たまわ)った奇蹟の時間は、わずか0.3秒。


 だが、それで充分だった。


「いけえええーっ!」


 キーラの叫びと同時に、ナナシは扉にかけた両腕を力の限り閉じる。高さ18メートル、幅7メートルの禍々しい扉は、大地を揺るがす轟音と共に閉まり、扉にちりばめられた無数の頭蓋骨が断末魔の悲鳴を上げた。


 やがて悲鳴が途切れると、扉を構成する数百体分の骨が力を失ったように崩れ始める。骨は落下と共に風化し塵となって風に消えてゆく。もはや混沌の気配は微塵も感じられない。


 ナナシは崩れ行く扉を尻目にキーラへと駆け寄る。


 モニカとフリーダがキーラに回復魔法をかけているが、失われた存在力と生命力は魔法では回復できない。その事が分かっているモニカは『並列思考』を使って崩れる扉の録画の片手間である。これでも本気で心配してはいるのだ。何とも残念な女である。


 ぐったりと横たわるキーラを、ナナシはそっと抱き上げた。赤子のように優しく抱かれたキーラはうっすらと目を開けナナシを見る。


「やったなナナシ。1日で2回も世界を救うとはすげえヤローだぜ。さすがウチら自慢の皇帝だ」


 ナナシは、はにかむように微笑む。


「最後に扉を閉められたのはキーラのおかげだよ。お手柄は半分こだ」

「へっ、なに言ってやがる。あたいは助けられてばっかりだな……あの時、あたいの手を掴んでくれてありがとな……」


 キーラはそう言って左手を伸ばし、ナナシの頬に触れる。ナナシは小さくうなずくとその手にそっと自分の手を重ねた。

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