噴水広場の子供心(後)
広場の雑踏をかきわけて彼女を探す。
……なぜ探すんだ?
この前の負けを無しにしてほしいとお願いする見苦しい選択を、俺は本気でする気なのか?
噴水の近くに出ると、そこでも子供たちが鬼ごっこをしていた。
彼らより頭一つ大きいお姉ちゃんがそれに参加している。
のんびりした声をあげながら俺の横を抜けていく。
「待ちなさーい。逮捕でーす。私がみんな逮捕しちゃいますよー」
その服装は暗い紅色のケープの三枚重ね。
同じ色のニーハイブーツを履いている。
鼻垂れ坊主を捕まえたら今度はこちら向きにやってきた。
「わぁー、みんな逃げましょーう。捕まったら死刑になっちゃいますよー。こわいこわーい」
その飄々とした表情も声も知っている。
再会した。
逃れがたい悪夢を終わらせる第一歩か、あるいは崖っぷちに近づく一歩。
どうしようもなく膝が震える。
少女が俺を見つけ、幼なじみに会ったみたいに平然と足を止めた。
明るい栗色の髪を揺らして――笑顔。
「ウキョウさん、ご無沙汰です。私のこと覚えてます?」
忘れるわけあるか。
「新人王、メレアガンのアサ……」
「もうそういう認識なんですねー。構いませんが、他の人には秘密にしてください。私にも事情があるので」
「……で、何してんだ、あんたは」
「えへへー、日常を見られるとなんか恥ずかしいです」
「このお兄ちゃんだれぇー?」
と集まってきたちびっ子たちの頭を彼女は撫でている。
「都会には都会だからこその貧しさがあって、清潔な飲み水にも困る人たちがいるんですが、そんな貧窮のなかでも子供は元気なものです。かわいいでしょう?」
全身の緊張を感じながら言葉を返す。
「いい歳して鬼ごっこは……真似できねえな……」
「『銀や金や宝石よりも子供が勝る』と昔の詩人も言っています。この子たちと遊ぶよりも楽しい趣味があるでしょうか? いや、ない!」
誰だよその詩人と聞く余裕はない。
「しかもこういう人混みは隠れんぼの要素もあって戦略性が増すんです。危ないとかマナーが悪いとか言う人は、この遊びで得られる子供の笑顔をたぶん知りませんね。間違いない!」
それにしても生き生きとよくしゃべる。
だいぶ元気そう。
「……落ち込んでたんじゃねえのか。店長から聞いた話は何だったんだ」
「それについては一つの仮説が考えられます」
「仮説?」
「たとえば、毎朝あなたに会うのが嬉しくてたまらなかったのに、それが十日以上もなくて、世界が終わったみたいに感じ、涙で枕を濡らし、冷え性がさらにひどくなり、子供と遊んでどうにか気持ちを保っていたんですよ、私」
何言ってんだ……?
「でも、こうして再会して普通に話すことができて『ああ、嫌われてなかったんだ』と女心が満たされて一瞬で急速回復、精神高揚、バラ色の愛のミラクルロマンス的なことになっている――という仮説的な推理はできませんか? できるでしょう?」
あ……冗談か。
こいつはそういうやつだった。
チーズ屋のヒリーとしての側面をまだ俺に見せてくれるらしい。
ずいぶん昔のような、決闘者だと知らなかった頃を思い出す。
毎朝のように会ってホラ話を聞いた、客と店員の関係。
今や遠くなってしまった過去に戻ることを彼女は望んでいるんだろうか。
戻れないことはない。
こちらが敗北の因縁を忘れ、何もなかったように振る舞えばいいんだ。
俺がその選択をできるならの話だが。
「おや? 今の説明、信じてませんね。本当に会えてうれしいんですよ?」
……仮説って前置きされて誰が信じるんだ。
「ではもう一つの仮説を教えます」
まだやるのかその芸風。
「あなたに会いたくて私はケンレー卿の屋敷に行ったりもしたわけです」
店長が言ってたな。
「しかし会いたかったなら、なぜ玄関ドアをノックしなかったのか? ここで第二の仮説です。たとえば、私が下宿を訪ねたのを誰かに見られ、女が来ていたと噂になり、もし誇張されてあなたがプレイボーイだってことになってしまったら?」
はあ……?
「本当は清廉潔白なウキョウさんの名誉を考えるとそれはダメです。なので私は遠慮して切ない気持ちで屋敷を素通りしていたというわけです。なんといじらしく思慮深い振る舞いでしょう! そんな推測はできませんか? いいや、できますとも!」
政治演説みたいにフフンと鼻息を吐いて拳を振り上げている。
よくわかった。
彼女はわざと面白おかしくしている。
ぎこちない場の空気を紛らわすためか。
あるいは変貌してしまいそうな俺を繋ぎ止めるためか。
「話を聞いてどう思いました?」
右や左から覗きこんでくる。
「どうってなんだよ」
「照れちゃってー」
「何が」
「男として見られてドキドキしましたよね?」
なわけあるか。
「あれれ? 女の思いを伝えたんですよ。鈍いんですか?」
あんたの冗談はよくわかったよ。
「確かにあなたとはずっとふざけた関係でしたので、冗談に聞こえるでしょうねー」
そうだな。
「やれやれ、本音というのは伝わらないものですねー」
「なんつーか……気を使わせてるよな」
「?」
見上げると、綿雲が風で流されている。
どこへ飛ばされていくのか誰も知らない。
下を向くと、自分の両手が震えている。
何も掴めないかもしれない手の平だ。
「……俺は決めなきゃいけないんだ、『逃れがたい悪夢』をどうするか、二つに一つ。この広場に来てあんたと会って、でもまだ決めてない。どうすりゃいいか誰がわかるんだ? たまたまあんたに会えたからって決断できるわけがない」
「ウキョウさん?」
彼女に伝わっている様子ではないが言い続けた。
「我慢してるとおかしくなりそうで、でも我慢しないのは、応援してくれる人に申し訳ない。あんたが前のように接してくれるのはいいけど、そんなのは無駄って気もする」
「……」
「たぶん俺はとっくに物狂いなんだ。恐怖、動揺、逆恨み、自己嫌悪――悪夢なんて初めてだよ。選べねえよ。神様がくじ引きで決めてくれるならよっぽどそれがいい」
きょとんとしている目に訴えかける。
「メレアガンのアサ。いっそ、あんたに聞きたいくらいだ」
「何を、です?」
「俺が――あんたと――」
――再試合をするべきか。
声にする前に邪魔された。
「わあ~、痴話喧嘩だ! お似合いカップルだ~!」
鬼ごっこをしていたちびっ子たちが周りを囲んで騒ぎ出した。
「喧嘩するほど仲がいいってね!」「ひゅ~ひゅ~!」「お兄ちゃんが彼氏で、ヒリーお姉ちゃんが彼女?」「逆なわけないじゃん」「いつ結婚するの?」「愛し合ってるんですよね?」「わあ、二人とも赤くなった。やっぱり結婚するんだ!」
子供ってのは能天気だ。
男女を見るとすぐに安易な連想をして、色気のなかったはずのシーンをベタベタに脚色してしまう。
「兄貴、つかぬことをお聞きします」
ガキ大将っぽいやつが俺に耳打ちした。
「……なんだお前」
「年下のちびっこい連中は姉貴とけっこうスキンシップを楽しんで、わりと自然に上半身を揉んで『ヒリーお姉ちゃんおっきーい!』とか叫ぶんですが、自分はそんな破廉恥はできないのであります」
「……で、なんだ」
「しかし男として気にならないわけがなく、お尋ねします。アサの姉貴はひっそり服の下で果実を育てていて、兄貴はそれを触って脱がして確認したことがあるのかという疑問にお答えしていただき痛ぁッ! なんで怒るんですっ」
デコピンをかましてやった。
俺が元気ならもっと厳罰に処している。
「うわわっ、みんな、カップルとか結婚とか、何を、い、言うんですかー」
アサは紅潮して口をパクパクさせているが、こんなことで動じるキャラではないはず。
幼稚な彼らを喜ばせようと、図星を指されたような演技をしているんだ、おそらく。
「私がウキョウさんと、け、結婚なんて……いやほんとに、彼氏彼女とか愛し合ってるとか実はしっぽり同棲中だとか、そんな関係じゃないのにっ」
「しっぽり同棲中なんて言ってないよお姉ちゃん」
「あばばばばっ」
「ヒリーお姉ちゃん、付き合ってないの?」
「みんなに嘘はつきません! 付き合ってません!」
俺はこの脱線を喜ばなかった。
子供たちの無邪気さに心を洗われるなんて状況じゃない。
悪夢の解決が先延ばしになっていると感じる。
騒ぎはやがて「なーんだ、付き合ってないんだ。つまんなーい」と収まっていった。
「はぁー、焦って火照っちゃいましたよウキョウさん」
「ほんとかよ」
「愛や結婚の話はいつでもドキッとするものです。女心がわかってませんねー」
「ああそう……」
「ちなみにそろそろ時間ですよ」
「えっ?」
広場に面したボルの屋敷の鐘塔が鳴った。
ガラン、ガラン、ガラン、ガラン、ガラン、ガラン、ガラン……。
「七の刻」だ。
ミッテルダムでは日の出で「三」、南中で「六」、日没で「九」と進んでいく時刻が設定され、それぞれで鐘を鳴らす(夜間は「十二」のみ鳴らす)。
六から七までが俺の昼休みだった。
ケンレー卿は遅刻に厳しくないが早めに屋敷へ戻らなくては。
再戦の決断を急がずに済んだという見方もあるだろう。
でも結局は葛藤の日々が続いてしまうわけで……溜息が出る。
「無駄に話して悪かった。帰るよ」
そのときアサは――鐘塔を睨みつけていた。
積年の敵がそこに住んでいるかのような、珍しく不機嫌っぽい目つき。
チッ……と舌打ちまで聞こえる。
「……? あんたの昼休みもなくなっちまったか? すまん」
「あ、いえっ! ウキョウさんを恨んだりしませんよ、私が恨むのは……いや、この話はやめましょう」
笑顔を即座に取り戻し、
「ウキョウさん、また会いに来てくれますよね?」
「んなことは言ってない」
「だって今日来てくれたんですから次も来てくれるって信じますよ」
「どんな理論だよ」
「とにかくまたお話を聞きたいです」
「ああそう……もう行くぞ。じゃあな」
重い体で歩きだす。
「さよーならー。次はチーズ買ってくださいねー」
明るい声を背中で聞いた。
健気な配慮がかえって胸を突き刺す。
逃れがたい悪夢の問題について全く考えが進んでいないのだ。
一瞬彼女に相談しようとしたのは我ながら狂っていた。
勝ったほうが再試合を望むわけがなく、その上でこっちが無理を言うか言わないかという点を自分で決めなきゃいけないのに。
ああ、頭がおかしくなっている。
アサと駄弁って子供に絡まれて……何してんだ俺、馬鹿じゃないのか。