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共生  作者: もろ羽ゆき
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君と生きるひとつの未来。


 その日、彼がそばにいたのは偶然ではなかった。


 昔、同じ小児病棟の4人部屋に入院していた彼は、心臓を患っていると言っていた。

 先に退院したわたしは、彼の病室に通っていた。ほとんど毎日だ。そのうちに、彼は小児病棟から大人の病棟に移っていた。そうやって時間は過ぎていったのに、彼の病気は良くならなかった。まわりの同級生がぐんぐんと成長して背丈が大きくなっても、彼は同じ歳の男の子よりひと回りもふた回りも小さな身体で。それでも、彼はいつも笑っていた。その笑顔に、何故かわたしが救われていたんだ。

 だから、わたしは医者になることを決意した。彼の笑顔を、彼のように難病で苦しむ人を1人でも多く救いたいと思った。

 そうしてついに、彼の入院している病院への就職が決まり、あと半年で卒業という時だった。

 実習からの帰り道。暗い夜道を歩いていたはずなのに、突然視界が光で真っ白になった。甲高いブレーキ音とプラスチックが割れるような音が耳に痛い。あの光は、車のヘッドライトだったと、気づいた時にはもう遅かった。


 ぼんやりと意識が浮上して、聞き慣れた彼の声がこもりがちに聞こえる。そういえば車に轢かれたんだったと思い出すと同時に、体が全く動かないことに気がついた。焦点の合わない目に映した彼が酷く焦っていることは分かるのに、どこか他人事のようで。

「だいじょうぶだよ」

 漏れるような息が音になったのかも分からないまま、また意識は暗闇に溶けていった。


 次に目を覚ました時には、もうぼんやりとすら物が見えなくなっていた。真っ暗な視界と、こもった声。それが彼のものだという自信も持てなくなってきた。

 それでも意識ははっきりとしていたから、なんとか耳を澄まして言葉を聞き取ろうと努力した。なんとなく、彼がそばにいるような気はしているからここは病院で間違いないのだろう。

 時折、わたしの名前を呼ばれているのが分かる。わたしは声を出して反応したつもりでいるのに、それに対する答えが返ってくることはない。もしかすると、出したつもりの声は出ていないのかもしれない。

 答えてもらえないことに不安になってしまったのか、心臓が勝手にどくどくと脈打つ。今思えば、四肢の感覚はないのに、心臓の音だけは鮮明に聞こえる。これだけが、わたしが生きていると思える最後の砦だった。

 

 日付の感覚など分からないまま暫くの時が過ぎた。特に体に変わりはなく、未だわたしの発する言葉に反応はない。

 今まで勉強した医学から「脳死」の可能性は浮かんだけれど、それならこんな風に思考を巡らせることだって出来ないだろう。

 医者としての知識がわたしにはまだまだだったのかもしれないなんて呑気に繕ってみるが、内心は焦りでいっぱいだった。

 このまま誰にも気づいてもらえずに、孤独に時が過ぎていくのだろうか。彼とは二度と言葉を交わせないのだろうか。わたしはこれからどうなってしまうのだろうか。先が見えないことがこんなにも恐ろしいなんて想像すらしていなかった。暗闇の中、足を踏み出すことすら出来なくなってしまったわたしはここで一人縛られ続けるのだ。

 …そんなの嫌だ。寂しい。辛い。怖い。恐い。


「大丈夫だよ」


 ふいに、降ってきた声が、わたしに向けられたものだと理解するのに少し時間がかかった。本当に声が届いたのか、信じることが出来ずに黙っていると、今度は静かに名前を呼ばれる。つい、いつもの癖で名前を呼び返した。

「うん、ちゃんと、聞こえてるよ」

 しっかりと、こちらを意識して掛けられた言葉だと分かると、途端に心臓の鼓動が早くなる。久しぶりにこちらに向けられた声に何故か緊張してしまう。

「ごめんね」

 紡がれた謝罪の意味が分からず「なにが?」と問いかける。

「君のことには気づいてたんだけど、昨日まで集中治療室にいたから声がかけられなくて」

 理由を告げられた気がするけれど、こちらもイマイチ理解できなかった。今まで会話が出来なかった所為でわたしの思考能力が落ちているのかもしれない。わたしは確かにずっと、彼の気配を感じていたのに。

「それに、僕もちょっと、戸惑っちゃって。なんていうか」

 彼の声色がだんだん不安そうなものに変わっていく。なんだか次に続く言葉が恐ろしくなってきて耳を塞ごうとしたけれど、わたしには塞ぐ手も、耳も、なかったような気がした。


「君がまだ、生きていたなんて」



*****



 その日、僕がそばにいたのは必然だった。


 僕は生まれ落ちた時から出来損ないの心臓を持っていた。物心ついてからも自宅で穏やかに過ごせる時間は少なくて、だいたいは病院のベッドの上で本を読んだりして過ごしていた。

 世間では小学校に入学するくらいの年になった時、同じ4人部屋にひとつ年上の女の子が入ってきた。入院は初めてなのか、夜中に泣き出してしまった彼女を、昔誰かがやってくれたように慰める。僕が笑いかけると、つられるようににひゃりと笑う彼女が僕は好きだった。

 僕が思っていたよりも早く退院していってしまった彼女は、学校帰りに僕の病室に通うようになった。学校であったこと、嬉しかったことも悲しかったことも教えてくれて、単調だったはずの生活は彼女によって彩られていた。

 来年度からこの病院に就職することになった、と一番の笑顔で報告してくれた姿は記憶に新しい。彼女のそんな様子に僕も嬉しくて、自分の寿命のことなど頭から抜けていた。


 力なく横たわる彼女を見た時、今までの幸せの全てが引き裂かれたような感覚に陥った。何度名前を呼んでも答えは返ってこない。柄にもなく声を荒らげた僕に医師が掛けた言葉は冷静で、それでいて酷く悔しそうだった。


 脳死状態だと告げられた彼女の持ち物、財布の中には臓器提供意思表示のカードが大切に仕舞われていた。目の前の、見知った医師がカードを差し出したその意味を理解するのに、時間はかからなかった。

 ずっと待ち続けていた心臓移植。もう治ることはない心臓を健康な心臓と取り替えるしか、僕の生きる道はなかった。


 程なくして、医師とともに僕のもとを訪れた彼女の両親は、いくつかの書類にサインをした。僕に決断の余地はなく、ストレッチャーで手術室へ運ばれる。隣には目を閉じたままの彼女が眠っていた。


 目が覚めると僕の体は大量のチューブと機械に取り囲まれていた。目が覚めてしばらくすると人工呼吸器の管が抜かれて、自発呼吸を促される。まだ安定しない呼吸に、看護師さんとゆっくり吸って吐いてを繰り返していると、ふと、彼女の気配を感じた。

「大丈夫?」

 思わず治療室の中を見回した僕に、看護師さんは不思議そうな顔をしたあと、心配そうに顔を覗き込む。

「すいません、平気です」

 無用な心配をさせる訳にはいかないと思ってとりあえず首を振ったが、先程感じた気配が気になって仕方ない。しかし、ベッドから動くことも出来ず、常に誰かの目が光っているこの場所では、確かめたくとも何も出来ないのが現状だ。

 一旦呼吸と酸素が安定すると看護師さんはこの場を去って、かわりに医師が顔を出す。もう何年も僕の担当をしている医師だ。僕のことはなんでも知っていると言っても過言ではない。

 いつも凛とした表情をしているはずの先生は手術前に会った時のように、悲しそうな、寂しそうな、悔しそうな、なんとも言えない顔をしていた。静かに彼女の名前が呟かれる。

「本当に残念だった。でも君はこれからも彼女の一部を背負って生きていくんだ。これからが踏ん張りどころだよ」

「はい、」

『はい』

 確かな希望を持った言葉に、僕は今出る精一杯の声で返事をする、と。自分の声が木霊したかのように彼女らしき声が続いた。僕は心底驚いて、心臓をモニターしている機械の音の間隔が途端に早くなる。先生も僕の様子に驚いたのか、少し眉を顰めて僕の手を取る。

「大丈夫、ゆっくり深呼吸して」

「いま、なにか、」

「ごめん、こんな話今すべきじゃなかったね。何も考えなくていいから、呼吸に集中しよう」

 弁明しようとした言葉は先生に遮られる。確かに考えてみれば、いなくなってしまったはずの彼女の声が聞こえたなんて、信じてもらえるはずがない。むしろ、僕がおかしくなってしまったと疑われそうだ。

 仕方なく深呼吸をしていると、脈拍も落ち着いてきて、先生もほっとした表情に変わる。

「また来るから。しばらくゆっくりしてるんだよ」

 僕はほとんどうわの空で先生に返事をした。去り際にまた、先生は心配そうな顔をしたけれど、僕はそれどころではない。


 心臓に手を当てる。

 この中で、この心臓で、彼女はまだ、生きているのかもしれない。都市伝説のような話だけれど、僕にはそう感じられた。


 目が覚めてからしばらく。特に大きな問題もなかったらしい僕は、食事が胃に繋がれたチューブからではなく、口から取れるようになった。リハビリも始まって、なかなか思うようにいかない体と格闘する中、僕の中の彼女は幾度となく現れた。

 僕の心の中で、外の会話を聞いているのかもしれない。そう思えるほど、ぴったりのタイミングで彼女の声は響いた。誰かが挨拶をした時、彼女の名を口にした時。その度に僕はなんでもないふりをするのに苦労した。それでも、それは、僕の疑いを確信に変えるには十分だった。


「明日から一般病棟に移れるよ」

 先生はにこりと笑ってみせる。僕も正直、本当に嬉しくて、久しぶりに心から笑顔を見せられた気がする。

 先生や看護師さんには悪いけれど、ここ何日か、逃げ出したくて仕方なかった。どこか一人になれるところへ。何度そう思ったことか。

 彼女の存在は、ただの僕の気のせいなのか。早く確かめたかった。実は試しに、心の中で彼女に話しかけてみたこともあるんだけど、どんな都市伝説のような事実だって、そんな魔法みたいなことは通用しないらしかった。

 ちゃんと、僕の声で、僕の言葉で、話しかけてみたい。

 明日が来るのが、こんなに楽しみなのは初めてだった。


「それじゃ、この荷物はここに置いておくね」

 何人かの看護師さんがベッドのまま僕を個室に移動させたあと、カートに乗せた僕の荷物を整理してくれる。

「はい、あとは自分でやるので、大丈夫です」

「そう? それじゃこのまま置いとくね。分かってると思うけど、何かあったら絶対すぐに呼ぶんだよ」

 念を押す看護師さんに僕はしっかりと頷く。ちゃんと納得してくれた看護師さんはまたお昼に来る、と言って病室を出て行った。

 広い個室。のそりとベッドから足を下ろして、陽の差す窓際の小さなソファへ腰掛けた。

 いざ、話しかけられるとなると、何と言っていいのか分からず緊張する。とりあえず、言いたいことを紙に書き出そうとペンを取った時、なんだか僕のものではないような不安感が襲った。ぐるぐると取り巻く感覚に、思わず胸に手を当てる。

『こわい』

 その不安感が彼女のものだったと気づいた時、僕はかたりとペンを置いた。

「大丈夫だよ」

 目を閉じ、彼女の顔を思い浮かべて声に出す。ふっと先程までの不安感が消えた。それでも、まだ彼女自身に声が届いたのか確かめたくて、ひとつ、彼女の名前を呼ぶ。すると、いつもの木霊のように僕の名前が続いた。

「うん、ちゃんと、聞こえてるよ」

 この感情は僕のものか、彼女のものか。どくどくと心臓の鼓動が早くなる。

「ごめんね」

 どういう理屈で僕に伝わったのかは分からないが、先程の不安な気持ちは間違いなく彼女のものだ。この数日間、怖い思いをさせてしまったのだろう。

『なにが?』

「君のことには気づいてたんだけど、昨日まで集中治療室にいたから声がかけられなくて」

 心做しか震えたような声の問いに、僕は努めて冷静に話す。

「それに、僕もちょっと、戸惑っちゃって。なんていうか」

 言葉を選ばなければと思うのに、気づけば今の気持ちがそのまま言葉になっていた。

「ほんとうに心臓で、君がまだ、生きていたなんて」


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