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遥かなる幸福の都  作者: 叶 響希
8/14

 雨期において、晴れ間はとても貴重なものとなる。この日は六日ぶりに太陽が顔を出し、地面を照らしていた。

 往来では人々が挨拶を交わし、子供達が走り回っている。

「今日はいい天気だね」

 誰に対するでもなく笑うファルドは、元気だった。

 相変わらず洗濯屋には出入りしているし、おじさん、おばさんと呼ぶ宿の夫婦にも可愛がられている。ラティフィーネのことは大好きだし、ルカートはいろいろなことを教えてくれる。

 優しい人達に恵まれて、ファルドはこの都での毎日がとても好きだった。ファルドの目に映る都の景色は、いつでも明るい。

 だから――ウルカおばさんの死を悲しむのは、やめにした。

 それは忘れてしまうのではなく、大事にしまっておくということだ。悲しみに捕らわれているばかりでは、おばさんのことを大好きな気持ちも、おばさんの優しい顔も、ほんわりとした胸の温かさも、薄れてしまう。

 ファルドは、誰に教えられるわけでもなく、気づいたのだ。

 別れの瞬間を想い出すと、胸が痛くなる。本当は、辛くなる。でもそれは、おばさんを大好きだったという証であるのだと。そして、覚えておかなくてはならないのは死別の悲しみではなく、その証のほうなのだと。

 だから、笑っていようと思った。そうすれば、いつまでもその証は消えないと思ったから。いつまでも、おばさんを好きでいたかったから。

 それに、ファルドが泣いてばかりいると、ラティフィーネも困るに違いない。ただ黙って頭を抱き寄せてくれたラティフィーネが、本当は慰めようとして必死だったことを、ファルドは知っていた。

「ええと……野菜の注文はこれで全部でしょ、あとは……」

 久しぶりに市場を歩き回りながら、ファルドは指折り呟く。雨のせいで品薄な市場は、それでも人出は賑やかだ。器用に人の流れの間を縫って歩くファルドは、すっかりこの市場にも慣れている。

「やあ、ファルド君」

 耳慣れた呼びかけに周囲を見渡すと、道の脇にルカートが立っていた。いつでも先回りするように、彼はどこへでも姿を現す。

「ルカートっ」

 思わず声を上げ、ファルドはそのほうへ駆け寄った。

「おつかい、終わったのかい?」

「あと、石鹸でしょ、それから金物屋さんに寄って、お鍋の修理に来てもらうように頼むの」

 にこりと笑うルカートに、同じく満面の笑みで、ファルドは答える。

「きみって働き者だねえ、本当に」

「僕、お手伝いするの、好きなんだ。ルカートは? 何か買い物?」

「僕? 僕は……ほら、暇人だからさ」

 毎度の同じような返答を繰り返してから、ルカートはちらりと真顔になった。

「珍しく天気もいいから……ちょっとね、おばさんのお墓のほうに行ってきた。僕は、ちゃんとお別れをしていないから」

「……うん」

 ファルドも、笑顔を消して頷いた。

 ルカートの『いろいろ』のことを、ファルドは知らない。しかしファルドにとっては、あんなに嫌がっていたルカートが、一度だけファルドのいないときにウルカを訪ねていたという事実がすべてだった。温かい毛布を贈って医者を紹介した彼の真意をファルドは知らないが、そういうことは無闇に訊ねるものではないと、なんとなくわかっている。

 なにより、おばさんはルカートの訪問を喜んでいたのだから。

 それにファルドは、ルカートが冗談を言っているときとそうでないときの違いを、なんとなくわかるようになっていた。

 少なくともはっきりしていることは、ルカートはおばさんを嫌いなのではないということで、何かの事情があったにせよ、結局はおばさんに優しくしてくれたということなのである。

「付き合うよ、きみのお手伝いに」

 ルカートはそう言うと、ファルドの腕から荷物を取り上げる。

「じゃあね、あのお話をして。海賊船のお話の続きがいいな」

 ファルドは、待ってましたとばかりに飛び跳ねた。

 実は、ルカートの特技は裁縫やお菓子作りだけではない――と、少なくともファルドは思っている。彼はファルドから見ると随分経験豊富で、それだけに多くの物語や、都での事件について知っている。そして、そうした物語や事件を話してくれるときのルカートが、ファルドは一番好きだった。

 もっとも、彼の場合は非常に気紛れなので、ねだった通りの話をしてくれるとはかぎらない。そして、何が出てくるかわからない宝箱のような楽しみ方で、その気紛れにもしっかり順応してしまっているファルドだった。

「今日は久しぶりのいい天気だから、空の話にしよう」

 案の定、にこりと笑いながら、ルカートはまったく違うことを口にする。

 ファルドは頭の中の想像をすぐさま切り替えて、空をぐるりと仰いだ。

 雨上がりの空は、とても青い。

 青く乾いた空は、そこら中の水溜りや軒下の雫に分身を創り出していて、そういうことにふと気づくと、見慣れた通りがやけに楽しく思えてくる。

「うん、空の話にしよう」

 ルカートの口振りを真似て、ファルドはにっこり笑った。




 晴天に恵まれて、ラティフィーネのもとには朝から客が訪れた。久しぶりの盛況である。

 雨の所為で足止めを食らっていた宿の泊り客の幸先を出発前に占ってやり、その後は近所の常連客や、噂を聞いてやってきたのだと言う一見客を立て続けに十人ばかり占ったところで、ようやく一息つく。

 そろそろ昼前である。真っ当な職を持つ男達は仕事に出払い、女達も久しぶりの晴れ間を有効に活用して家事をこなさない手はない。このあと陽が高い間は、案外と客は少ないかもしれない、などとラティフィーネは予想する。

 ――代わりに、必ず現れそうな人物なら心当たりがあるのだが。

 ラティフィーネは、珍しく落ち着かない素振りで爪を噛んだ。不機嫌そうに顔を歪め、あらぬ方向を睨む。

「ただいま、ラティ」

 そこへ、まるで狙いすましたかのように、無邪気な声が駆け寄ってくる。

 反射的にそのほうを見たラティフィーネは、ファルドの後ろからにこやかに登場した青年を見た瞬間、盛大な溜息をついた。

 対する青年のほうはというと、まったくもって悪びれもせず、いつものように愛想のよい笑みを振り撒いているのだ。

「こんにちは、ラティフィーネ」

 当然のように声をかけられて、ラティフィーネは憮然としたまま黙り込む。

「ねえラティ、外はとても天気がよかったよ。それに、ルカートがまた新しいお話を聞かせてくれたんだ。今晩、ラティにも教えてあげる」

 上機嫌なファルドの声は、とても明るい。それを無視するほどには不機嫌に徹しきれず、ラティフィーネはご苦労様、と応じて黒い髪を指先で撫でてやった。

「荷物、調理場に持っていくね」

 撫でられた頭を両手で誇らしそうに擦ってから、ファルドは麻袋をふたつ、上手に抱え上げる。そして、今度は奥に向かってただいまと告げながら、調理場へ姿を消してしまった。

 ファルドは、台所仕事を見ているのも好きである。この時間の調理場では食事客のための料理の仕込みが佳境に入っている頃で、ラティフィーネの予測が正しければ、ファルドは調理場の隅の樽の上に腰掛けて、さっそく魅入ってしまうに違いない。

 つまり、ラティフィーネにとって最も遭遇したくない状況下に、あっさり置かれてしまったというわけだ。

 実は、数日前の雨の日以来、二人が顔を合わせるのは初めてのことだった。

「その様子だと……まだ怒っているのかい?」

 まるで拗ねた子供を宥めるような口調で、ルカートはラティフィーネの顔を覗き込む。

「怒ってなんかいないわ」

 突っぱねるように言い返したラティフィーネの目の前に置かれたのは、かなり個性的な組み合わせの花束だった。

「僕はね、きみには白いこの花がよく似合うと思ったんだけど、ファルド君が言うにはこっちの紅い花のほうがいいらしくて。結局、優柔不断な僕等は花屋の前で悩みに悩んだ挙句、どういうわけか店の人に気に入られてしまって、おまけしてもらったのが、この黄色い花」

 いちいち長い指で指し示しながら、ルカートは流れるような説明を展開する。

「それで僕の気がかりはというと、きみがどの花を好きかということなんだけど」

 どうしてこの男はいつも突拍子もないのだろうかと、ラティフィーネはしげしげと花束を見つめるばかりだ。

 ルカートは少しばかり間を置いて、それから彼にしては少々素っ気ない口調で告げた。

「……この間のお礼とお詫び」

 この間、とはどの部分を指すのだろうかと、即座にラティフィーネは考える。

 話を聞いてやったということに対してだろうか――それとも。

 なんといっても腹立たしいのは、あのとき、この傍若無人な気紛れ男との会話にある種の心地好さを覚えていたという事実と、不覚にも見惚れてしまった挙句、いくら虚を突かれたとはいえ、抗う余裕もなく唇を許してしまったということなのだ。

 ラティフィーネは、ルカートへの憤りもさることながら、自分自身の間抜けさ加減にも腹を立てているのだった。それは、彼女が他人にあまり深入りしないことを心がけているせいでもある。もっと単純に言えば、ラティフィーネはルカートのことを嫌ってこそいないが、親密な関係を望んでもいないということだ。

「受け取ってはもらえないのかな?」

 ルカートが困ったように、ラティフィーネの顔を覗き込む。

「わたし、あなたに贈り物をしてもらう筋合いはないもの。ましてや花束なんて」

「これは親愛の証さ」

「ご機嫌取りのつもりなら、よして欲しいわね」

「……やっぱり怒っているじゃないか」

 大仰に溜息をついて、ルカートは向いの椅子に腰掛けた。その、わずかに苦笑を混ぜ込んだような顔つきが、演技なのか自然体なのか、ラティフィーネには判断がつかない。

「悪かったよ、ラティフィーネ。つまり……その、驚かせたことに関しては謝る。でもね、これだけは確かだよ。僕はきみに言われるまでもなく軽薄な部類の人間だけど――あの瞬間は、少なくとも僕は本気だった」

 しゃあしゃあとこういう台詞を吐くルカートは、なまじ顔立ちが整っているだけに性質が悪い。

 ラティフィーネは、無言で眉根を寄せる。

「それに……僕達が喧嘩なんかすると、ファルド君はきっと悲しむと思うんだけどね?」

「ファルドを手懐けたからっていい気にならないで。親愛と愛情を履き違えると、きっと痛い目を見るわよ」

「まったく……僕にそういう遠慮の無いことを言うのは、きみくらいのものだよ」

 吐息混じりに苦笑して、ルカートは降参するように小さく肩を竦めた。

 ちっとも褒められた気分ではないラティフィーネは、テーブルの傷を指でなぞりながら、単調に告げる。

「わたしは、この間のことであなたにどうこう言うつもりはないわ。気にしてもらわなくて結構よ。わたしも忘れるわ」

 そもそも、気にしてもらったところで、済んだことは仕方がない。犬に噛まれたとでも思って忘れてしまえばいいことなのだ。遅くても、きっと――あとひと月も経たないうちに、別れの日はやってくるのだから。

「……もしかしてきみ、そろそろこの都を離れようなんて考えているのかい?」

 そんな唐突な質問は、まるでラティフィーネの心の中を見透かしたものだった。思わず顔を上げたラティフィーネは、ルカートが先日と同じように微笑むのを見た。

「やっぱり、ね。きみって人は、無愛想な割には意外とわかりやすくて助かるよ。まあ、僕ときみの捻くれ具合が、ときどき一致するからかもしれないけれど」

 失礼なことを紳士的な口調で言いながら、ルカートはすぐに、いつもの調子を取り戻す。

「他人と距離を置いて接するというのは、旅暮らしを続けるにはむしろ必要なことなんだろうけどね。とくにうら若い乙女と少年の旅路において、人付き合いには慎重にならざるを得ないというのも認めるよ。まあ――もちろん、きみ自身の性格が一番の要因だとは思うけど」

「……何が言いたいの?」

「きみは慎重で賢くて、おまけに美人で、ときどき酷く辛口なのも僕にはとても刺激的なんだけどね。でも、僕としてはきみがそうまでして旅する理由がわからない。つまり……きみの探す幸福の都の正体がさ」

「そんなこと、あなたに関係ないでしょう」

 ラティフィーネは突き放したが、ルカートはそれくらい承知していたらしい。あっさりと諦めたように席を立った彼は、そっとテーブルに手をついてラティフィーネを見下ろした。

「僕がこんなことを言う資格がないのは重々承知しているけど……ラティフィーネ、きみは幸せかい? 旅を続けていれば幸せになれると、本気で信じているのかい?」

「放っておいて」

 ルカートのほうを見ないまま、ラティフィーネはほとんどぶっきら棒に応じる。内面の動揺は、幸いなことに顔には出難い。

「出直すよ」

 言い残して、ルカートは背を向けた。真っ直ぐに戸口に向かって歩く足取りは、先日のおぼつかない足取りとはまるで違っている。

「きみのおかげで、僕は少しだけわかった気がするんだ。……幸福の都の正体が、さ。感謝してるよ」

 ドアの手前で振り向いたルカートは、柔らかく微笑んでいた。

 黙って見送るラティフィーネの心が、ずきりと痛むほどの優しさで。

「あれえ、ルカートったら、帰っちゃったの?」

 場違いなまでに明るい声は、ファルドのものだ。片手にジャガイモを持ったまま、ラティフィーネのもとに駆け寄ってくる。

 その灰褐色の瞳が驚きと心配を孕むのに、時間はかからなかった。

「どうしたの、ラティ?」

 テーブルの上にジャガイモを置き、土の付いた手を払ってから、ファルドはラティフィーネの顔をじっと覗き込む。

「ルカートと喧嘩したの?」

「……そうじゃないわ。あんたは心配しなくてもいいの」

 黒髪を引き寄せて、ラティフィーネは応えた。

「どこか痛いの? おじさんを呼んで来る? おばさんのほうがいい? それとも……」

「ねえ、ファルド」

 腕の中であれこれと心配する言葉を遮って、ラティフィーネは極力自然な口振りを取り繕った。

「この都の次には、どこへ行きたいと思う?」

「……え?」

「だって……いつまでもここにいるわけにもいかないのよ。ここはわたし達の家ではないし、早く本物の幸福の都を見つけないといけないわ」

「うん。……そうだね」

 ファルドはいつも、物分りがいい。いつも、次の場所に旅立つことを言い出すのはラティフィーネのほうで、一度でもファルドから言い出したことはなかった。

 ファルドはいつでも、一瞬だけ寂しそうな顔をして、それを慌てて打ち消すように明るく笑うのだ。――いつだってそうなのだ。

「僕、どこでもいいよ。ラティと一緒なら、僕はどこでもいいんだ」

 ファルドはそう言って、にこりと笑う。

「ラティは、僕を置いて行ったりしないでしょう? 僕、ラティの行くところなら、どこだって一緒に行くよ」

 その優しさが、またしてもラティフィーネには痛かった。




 翌日は、雨だった。

 霧のような細かな雨が、風に煽られて滑らかに揺らぐ。世界全体に半透明の膜がかかってしまったかのように視界をぼんやりと遮断して、それが見慣れた景色をどこか幻想的なものに見せている。

 ラティフィーネは、いつもの最奥のテーブルではなく、食堂の外にいた。出入り口となるドアの外は三段ばかりの階段になっていて、そこが軒下になっているのだ。階段の一番上に腰掛けていれば、全身に雨を浴びることもない。ほんの時折霧状の雨粒が頬を掠めるのは、むしろ心地よかった。

 夜明けの頃からそこに座るラティフィーネは、薄暗い世界が白く変わる様の中にいた。晴れている日よりも外が明るくなるのは遅く、時間もゆっくりと流れていくようだ。

 ――昨夜はほとんど眠れなかった。

 そんな繊細な神経など持ち合わせていないと思っていたのはラティフィーネ自身で、これはちょっとした事件ほど珍しいことである。

 心を占めていることの発端は、ルカートの言葉にあった。

 旅を続けていれば幸せになれると本当に信じているのか、と。

 それは、ラティフィーネ自身が見つけ出せないでいる疑問そのものなのだ。本当に、このままでいいのかと――本当は、思わなくもない。

 そして今、迷っている。

 理由のひとつには、ファルドのことがあった。ひと言で言ってしまえば、ファルドがこの都に馴染み過ぎている、ということだ。

 長く旅をしている間、ファルドは大抵ラティフィーネのそばから離れることはなかったし、仮に友達ができたとしても、ラティフィーネの視界の範疇で遊んでいることのほうが多かった。

 しかし、ファルドは確実に、ラティフィーネのそばよりも、より外の世界に興味を持つようになっている。この都では、とくにそれが顕著だ。

 もしかしたら、ファルドはここに残りたいのではないだろうかと、そんな風に思う。

「……幸福の都」

 呟いて、ラティフィーネは吐息した。

 揃えた両膝に顔を乗せ、首を傾げながら下から上を仰ぐ。

 屋根の端っこに引っかかった小さな雨粒が、やがて大きな雫になり、ぽつりぽつりと落下していく。繰り返し繰り返し、同じようにして落ちていく。

 まるで、ただ平穏に過ぎ去っていく、毎日のようだと思った。

 ――そう。平穏なのだ。

 ラティフィーネの毎日は、細々としたことを除けば総じて平穏で、波もない。旅の暮らしを不便だとも思わないし、家出したことを悔いてもいなければ寂しいとも感じない。

 ファルドは相変わらずいい子だし、占いの商売はどこへ行ってもそれなりには繁盛するし、食事も寝床も、贅沢さえしなければ当たり前に得ることができる。

 そういうことに気づいてしまうと、幸福の都の正体はいよいよ薄らぼんやりとして、それはちょうど今の霧雨のように、綺麗だけれど掴みどころがないのだ。

 どれくらい、そうしていただろう。

 ぼんやりと雨を眺めていると、どこからか庶民には馴染みの薄い音が近づいてくることに気づいた。それは確実に、こちらに向かっている。

「……馬車?」

 ラティフィーネは思わず、立ち上がる。

 やがて、二頭引きの馬車が雨の向うから姿を現した。馬車はラティフィーネの目の前で止まる。

 二頭の栗毛馬のたてがみは、しっとり濡れて、しゃんと伸ばした首筋がとても凛々しい。御者の男は、ラティフィーネを見て会釈した。続いて彼は御者台から下りると、恭しいまでの礼をとった。帽子を取ると、濃い髭の割に頭の薄い、中年で痩せ型の男である。

「占師、ラティフィーネ様でいらっしゃいますか?」

「……そうだけど」

 素っ気なく、ラティフィーネは応じた。

 御者の男は確認するように頷いて、幾分しゃがれた声で告げる。

「我が主人、ヨアール様があなた様をぜひ当家にお招きしたいと。ぜひ、ご準備を」

「その人、偉い人なの?」

「この都の議員の要職にあられます」

「……自分ではここへ来られない用事でも?」

「ぜひ当家にお連れするように、仰せつかっております」

 面白くもない返答をして、御者は操り人形のような動作で、お辞儀した。

「権力を笠に着て裏町の占師を呼びつけるなんて、そういうのは好きじゃないわ」

「いえ……実は、奥様が長いこと病気を患っておいでで、その奥様にぜひ何か新しい楽しみを、と……そういう次第でして」

 男は雨に濡れるのも構わず、帽子を両手で握り締める。小さな目をしょぼしょぼさせながらじっと立ち尽くしているその様子は、まるで大きな子供のようだ。

「――いいわ。少し待っていて。道具を取ってくるから」

 少し考えてから応じると、ラティフィーネは踵を返した。もしかしたら、多少の気分転換というやつにはなるかもしれない、と思う。

「せめて帽子をかぶるか、中に入れば? 濡れるわよ」

 まったく無愛想な勧めに、御者は小声で返事をして帽子をかぶる。それを横目で見てから、ラティフィーネは部屋に戻った。

 階段を上り、廊下の突き当たりの部屋に入ると、ファルドはちょうど着替えを終えたところのようだった。

「おはよう、ラティ。いつから起きてたの? 僕のこと、起こしてくれればよかったのに」

 まだ少し眠そうな声で、ファルドは口を尖らせる。

 ラティフィーネは寝癖だらけの黒髪を、いつもより素早く撫でつけてやった。

「あんたはまだよく寝ていたから、起こしては悪いと思ったの」

「朝ご飯、食べた?」

「まだよ。でも、わたしは今から出掛けなくちゃいけないの。だから今日は、一人で食べなさいね」

 言い聞かせるように言うと、ファルドは驚いたように声を上げた。

「ええっ? 今から出掛けるの? どこに?」

「なんとかっていう議員のところ。仕事の依頼なのよ」

「……そうなんだ」

 随分と残念そうに、ファルドは肩を落とす。そんな様子を見ると、依頼なんて断ってやろうかと思うラティフィーネだったが、雨の中待っている御者のことを思えば、今更嫌とも言えない。

「なるべく早く帰ってくるわ」

 もう一度ファルドの髪を撫でてから、ラティフィーネは急いで商売道具を取り上げると、部屋を出た。

 御者の男はラティフィーネの姿を見ると、馬車のドアをさっと開いて軽く頭を下げる。

 なるべく濡れないよう急いで飛び乗ったラティフィーネは、馬車に乗るなどということを、少しだけ懐かしいと感じた。家出して以来、馬車には縁のない生活をしている。けれど実家では――カスタント伯爵家では、当然ながら立派な馬車はあったし、父親専用の豪奢なものや母親専用の華やかなものもあった。ラティフィーネは数人の姉達と、あるいは両親と、何度か馬車に揺られたことがある。残念なことに、それは楽しいという記憶とはあまり結びついてはいなかったが。

「行ってらっしゃい!」

 ラティフィーネの後を追ってきたファルドが、食堂の軒下から、にこにこと手を振る。

 こんな無邪気な笑顔で見送られるなら馬車も悪くない、とラティフィーネは思った。少なくとも――小さく手を振り返してやったときに、突然の、直感的な違和感を覚えるまでは。

「ちょっと待って」

 制止の声は、御者には届かなかった。

 霧雨の中、馬車は走り出す。

 ファルドが大きく手を振る姿に、どういうわけかラティフィーネの胸は痛んだ。




「……行っちゃった」

 呟いて、ファルドは階段に座り込む。

「雨の日はお客さんが少ないから、いっぱい話ができると思ったのになあ」

 両足をばたつかせながら、馬車の車輪の跡を目で追う。

「今日はルカートも来ないだろうし……」

 確か今日は、家族の人達が集まって話し合いをする、お茶会というのがあると言っていた。僕にもひとつくらい義務ってものがあるんだよね、などと笑っていたルカートだが、そういう大事な日は、雨の中をわざわざ遊びに来たりはしないだろう。

 雨の日は洗濯屋もお休みだから、ファルドがどこかに遊びに行くということもできないのだ。

「つまんない」

 歌うように呟いて、ファルドは立ち上がった。

「お留守番なんて、つまんない。でも僕、お腹も空いちゃった」

 勝手に節をつけて歌いながら、美味しそうな匂いを昇らせている調理場へ回れ右する。

 ラティフィーネはすぐに帰ってくるだろうと思った。もしかしたらお昼くらいにはなるかもしれないが、そうしたら昼下がりは一緒に過ごせそうだ。

 次に目指す都のことも、きっと相談に乗ってあげたほうがいいし、ルカートから聞いた楽しい話も、まだ全部話し終えていない。

 馬車に乗っていくなんて、きっとラティフィーネはお金持ちの家に呼ばれたのだろう。馬車の小窓から覗くラティフィーネは、なんだかお姫様みたいだとファルドは思った。ルカートからもらった本に出てくる、お姫様だ。正確に言えば、本を読んで勝手に想像力を働かせているファルドの空想の中での、お姫様像である。

 本の中では、そのお姫様は悪い魔法使いに攫われてしまうのだった。

 ――それはある日、姫が森へ遊びに行ったときのことでした。

 ほとんど暗記してしまった物語が、ファルドの脳裏に浮かび上がる。

 ――空は見る見るうちに黒い雲で覆われ、強い風と共に恐ろしい形相の魔法使いが現れたのです。魔法使いは、姫が逃げ込んだ馬車ごと煙で包み込み、一瞬のうちに連れ去ってしまいました。

「……嫌だなあ」

 下唇を突き出し眉根を寄せて、ファルドは自分の想像を追いやる。

 物語は物語で、それは現実のお話ではない。

「ラティ、早く帰ってこないかな」

 つい先ほど出て行ったばかりのラティフィーネが、途端に恋しくなるファルドである。

 調理場のほうへ行きかけた身体をもう一度反転させてドアに駆け寄り、そこから顔だけ外に出す。

 まるで煙がかかったような白っぽい世界が、馬車の車輪の跡までも溶かしてしまうようだった。

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