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遥かなる幸福の都  作者: 叶 響希
6/14

 食堂が賑やかになる夕食時を見計らって、ラティフィーネは商売道具を片付ける。酒が入ると冗長する男どもに構うのも構われるのも好きではないし、喧しい環境では集中力も失せるからだ。

「ラティフィーネさん、あんたにお客さんだよ」

 調理場から顔を覗かせて主人が告げたのは、その日もそろそろ商売を終えようとしていた頃だった。

 その声に周囲を見回すが、既に幾つかのテーブルで食事をしている数人以外、新しい客は入っていない。怪訝な顔をしたラティフィーネに、主人は身振りだけで、裏口だと告げた。

 裏口は、調理場を抜けた所にある。わざわざそんな所から訪れる者がいるとすれば、余程の物好きか、何か事情があるかのどちらかしかない。

 前者であればルカートあたりの新手の悪戯か何かだろうか、と一瞬考えたラティフィーネだったが、とりあえず裏口のほうへ足を向け、そしてその客は後者であると悟った。

 背中を丸めるようにしてそこに居たのは、痩せた女だった。夕焼けのせいで多少明るく映る髪は、しかし間違いなくタークル人の黒髪である。一見すると年齢は五十に近いくらいだが、顔色がよければもっと若く見えるのかもしれなかった。

 彼女はラティフィーネを見ると、窪んだ目の奥で笑った。その灰褐色の瞳は穏やかで、それはファルドの好奇心に輝くものとは明らかに異なっていたが、好感を誘うものだ。

 ラティフィーネは、この女性が誰であるのかすぐに察することができた。

「ウルカおばさん、というのはあなたのこと?」

「驚いた。さすがは占師さんだ」

「ファルドがいつも話しているから。こんなのは占いではないわ」

 他の誰に対する態度と変わらず、ラティフィーネは素っ気ない。

 ウルカはそれを気にする様子もなく、穏やかな笑みを浮かべた。笑うと目じりの皺が濃くなり、もっと歳を食ったように見えるが、優しそうな印象はかえって強調される。

「占いだったら、店の中でしているけど……」

 ラティフィーネが中に入るように勧めると、ウルカは荒れた両手で胸元を握り締め、首を振った。

「あたしみたいな卑しい女が表から堂々と出入りしては、迷惑になるから」

「そう。じゃあ、道具を持ってくるわ」

 にこりともせず、ラティフィーネは即断した。道具と集中できる環境さえ整えば、基本的に場所は選ばないものなのだ。

 すぐさま食堂まで往復したラティフィーネは、調理場にあった丸椅子をひとつ拝借して地面に置き、その上に水鏡を乗せる。

 少し離れたところでは、子供がもっと小さな弟か妹をあやしていて、さらに遠くからは荷車が忙しなく走り去っていく音が響く。

 そんな夕暮れの裏通り、若い娘とその母親ほどの女が木製の丸椅子を挟んでしゃがみこんでいる様子は、少しばかり間抜けな構図ではあるが、当人達はいたって真面目であった。

「何を占えばいいの?」

 ラティフィーネが単調に問い掛けると、ウルカは周囲をぐるりと見渡して、声を落とす。

「あたしがここで占ってもらった内容を、あの子には黙っていてくれるかい?」

「わたしは占師だもの。たとえ助手にだって、客の秘密は漏らさないわ」

「それなら……」

 肩をすぼめて、ウルカは慎重な小声で告げる。

「あたしの息子は、どうしているだろうかと思ってね」

「息子?」

「……昔、ね。事情があって、ほんの小さな頃に生き別れになってしまったんだけれど、あたしはずっと若い頃に一度だけ、子供を産んだことがあるの。……この都に来て、すぐのことだった」

 遠い目をしたウルカは、ひび割れた唇で微笑んだ。

「こんなことを言ったら……気を悪くするかもしれないけれど、あの子を見ていると、見ることのできなかった息子の成長を見ているような気がしてね」

「息子さんは今どこに?」

「……さあ。ずっと遠くかもしれないし、案外近くかもしれないし。あたしはそれさえ知らないのさ。元気で生きていれば……もう、二十歳を超えているはずだけどね。それじゃあ、占えないかい?」

「やってみるわ」

 ラティフィーネは、水鏡に両手をかざした。

 水鏡の底の水晶が、ほんのりと光を放つ。水面が、わずかに揺れる。

 ――見えたのは、ただの暗闇だった。

 つまり、それは失敗を意味する。ラティフィーネにはウルカの息子を知る術がないし、ウルカ自身がほとんど知らないのだから、これは難しい占いだった。

 ラティフィーネは、一度呼吸を整えて、再度意識を集中する。

 今度は、誰かの後ろ姿が見えた。

 青年らしい。顔は見えないが――ぼんやりと見える彼には、生命の光が見える。

「きっと、息子さんは元気よ。場所ははっきりしないけれど……ここよりも南のどこかで生きているわ。ずっと南だと思う。それ以上のことは……わたしには、わからない」

「……そう。でも、よかった」

 ウルカは頷いて、それから突然咳き込んだ。胸と口元を押さえ、背中を丸めて何度も咳を繰り返す。

「身体……そんなによくないの?」

 思わず痩せた背中を撫でてやりながら、ラティフィーネは問い掛ける。

「あたしは若い頃から丈夫じゃなくてね。ああ……ありがとう、もう大丈夫」

 そう応えたものの、咳はしばらく治まらない。

 ラティフィーネは直感していた。もしかしたら、彼女の身体は、もう随分悪いのかもしれないと。

「あたしは、長生きはできそうもないから……あんた達がこの都にいるうちに、一度くらい占ってもらおうと思ってね」

 ありがとうと繰り返し、彼女が取り出した硬貨は、手垢で真っ黒に汚れていた。

 周囲には、すっかり黄昏が降りている。調理場から路地に美味しそうな匂いが広がり、先ほどまで響いていた子供の声も消えてしまった。

 ラティフィーネは、帰路に着こうとするウルカを呼び止めた。

「あなたがいなくなれば、ファルドは深く悲しむわ。あの子は……あなたを自分のお母さんみたいに想っているの」

 ウルカは、窪んだ目の奥で微笑む。

「わたしは、ファルドの姉にはなれても母親にはなれないわ。いつもファルドがお世話になっているから……だから、これはお礼よ」

 決して代金を返すわけではないのだと滲ませて、ラティフィーネはウルカの荒れた手を取り、そこへ硬貨を戻した。

「少しでも滋養のつくものを食べて、もっと厚着をしたほうがいいわ」

 言いたいことだけを言い、ラティフィーネはさっさと踵を返す。

 無言で水鏡と椅子を片付け始めたラティフィーネの耳に、もう一度、ありがとうという声が届いた。

 完全に彼女が見えなくなった後で、ラティフィーネは溜息をつく。

 なんだか嫌だった。

 彼女のことが、ではない。ファルドがあの女性に惹かれる理由に嫌でも気づかされて、それが自分にはない穏やかさや優しい笑顔であることに、少々の恨めしさと諦めを覚えずにはいられなかったのだ。




 商売道具を全て片付け終えた頃、宿の手伝いで買い物に出ていたファルドが戻ってきた。

「ウルカおばさんがここへ来たって本当?」

 早速、聞きつけたのだろう。調理場に荷物を届けた後、ファルドは目を輝かせてラティフィーネのもとまで駆け寄ってくる。

「洗濯物を届けて、その後、ラティと会ったんでしょう?」

「ええ、会ったわよ」

 足を組んだままテーブルに頬杖をついていたラティフィーネは、何事もないように応じた。

「おばさんのこと、占ったの?」

「占ったわ」

「僕、占って欲しいことがあるならラティに洗濯屋さんに来てもらうって話、ちゃんとしたのになあ。僕に内緒でここへ来るなんて変だよねえ?」

 ファルドはラティフィーネの腕に縋るようにして、すり寄ってくる。

 ラティフィーネは、頬杖を外して身体を起こした。

「そんなこと、おばさんの自由でしょ。たまたまここへ来る用事があったから、ついでに占って欲しかったのかもしれないし」

「どんなこと? おばさん、どんなことを占ったの?」

「それは言えないわね。わたしは占師だもの。お客の占いの内容を、簡単に他の人に言い広めるわけにはいかないわ」

「そうか……うん、そうだね。でも、悪い結果ではなかったでしょう? おばさん、喜んでた? 笑ってた?」

 ファルドは立て続けに短い質問を口にして、返事をねだる。その無邪気すぎる様子に、ラティフィーネはささやかな苛立ちのようなものを感じたが、それを認めるのも癪で、素知らぬふりを決め込んだ。

「おばさん、とてもいい人だったでしょう? ねえラティ、きっとラティもおばさんのことを好きになるよ」

 ファルドはまるで楽しい想像をしているかのように、にこにこと笑顔を振り撒いている。

「……ねえファルド、あんた、お母さんが欲しいと思う?」

 ついつい声に出して訊いてしまった後で、ラティフィーネは後悔した。欲しいと言われてもどうすることもできないし、いらないと言われても素直に喜べるとは思えない。

 ファルドは笑顔をおさめ、なにやら考え込むような顔をして、返事とは別のことを口にした。

「ラティは、お父さんやお母さんに会いたいと思わないの?」

 それは、まったく単純な質問のようでもある。しかし、これは予想外の切り返しで、ラティフィーネは数秒の沈黙の後、思わない、とだけ答えた。

「どうして?」

「どうしてもよ」

 長い赤毛を肩越しに払って、ラティフィーネは吐息する。

「いいこと? 両親に会いたいなんていうのは、あんたみたいに両親というものはきっと温かくて優しい存在なんだっていう幻想を持っているか、たまたま偶然にも善良な両親に恵まれた幸運な人間の吐く台詞だわ。わたしは、そのどっちでもないもの」

「ラティは、お父さんやお母さんを、嫌いなの?」

「……嫌いじゃないわよ。ただ、好きじゃないだけ。憐れな人達だとは思うけど、それだって同情じゃないのよ。今は苦労しているみたいだけど、いい気味だと思わない代わりに可哀想だとも思わないわ」

 それは、本心だった。ただ、改めて口に出すのは初めてというだけで。

「ラティも……『いろいろ』だったの?」

 何もわかっていないような――もしかしたら、わかっているからこそなのかもしれないが、ファルドの灰褐色の瞳はどこまでも澄んでいて、ラティフィーネは内心で少し、うろたえる。

「誰にだって、いろいろあるのよ。わたしもあんたも、ウルカおばさんも、多分あのルカートにもね」

 なんだか八つ当たりをしている気分になって、ラティフィーネはこの話題を早々に切り上げるべきだと思った。

「――わたし、お腹が空いたわ。食事にしましょう」

「うん。僕もお腹ぺこぺこだよ」

 即座に笑みを浮かべるファルドは、一方的に話を打ち切られたことなど、まるで気にした様子もない。

 ラティフィーネは、だからまた、自己嫌悪で胸の奥が気持ち悪くなる。

 ファルドは単純で素直だが、ウルカを母親のように慕っても、彼女を自分の母親だと錯覚するようなことはないはずだ。きっと純粋に、穏やかで優しい彼女のことを好きなのだろう。そしてそれは、ラティフィーネが口出しする範疇の問題ではないのだ。

「ねえ、ラティ」

 不機嫌に黙り込むラティフィーネの顔を、ファルドは下から覗き込む。

「僕、お母さんは欲しいけど……いたらどんなだろうって思うことあるけど、でも、僕にはラティがいるもの。僕、寂しいとか思わないし……ええと……だから、僕、やっぱり今は、お母さんはいらないよ」

「そんなこと……無理して言わなくてもいいことだわ」

「僕、無理なんかしてない」

「……わかってるわよ」

 ファルドの目を見る勇気はなくて、ラティフィーネは視野に入った黒髪を、くしゃくしゃに撫でた。

「わたしもあんたがいてくれるお陰で、ちっとも寂しくないもの」

「よかったぁ」

 ファルドは嬉しそうに声を上げ、じゃれるようにしてラティフィーネに抱きついてくる。

 抵抗もしないまま、ラティフィーネは数日前のルカートの台詞を思い出していた。

『きっと……「僕達」には、ああいう子が必要なんだ。違うかい?』

 どうしようもなく捻くれて、自分から誰かを信用できないような人間には、恥ずかしいくらいに堂々と好意を示してくれる存在が必要なのだ。そうでないと、自分がここにいるという現実すら、空々しく思えてくるから。

 ああいうことをさらりと口に出すルカートは、口と尻の軽い素振りはしていても、意外に侮り難い。

 ひょっとしたら、何もわかっていないのは自分だけなのではないだろうか――仮にも占師のくせして。

 頭の端で自分自身に毒づきながら、ラティフィーネはまったく違うことを口にする。

「わたし……本当にお腹が空いたわ」

 ファルドは、そんなラティフィーネの肩に顎を乗せたまま、くすくすと笑うのだった。




 裏町の中でも最も貧しい人々の暮らす地区を、表町の人間は奴隷街と呼ぶ。つまり、人間の住む場所ではない、と。そこには文字通り、もとは奴隷だった人々が多く暮らし、過去に罪を犯した者や売春婦崩れの女達、先の戦争ですべてをなくした世捨て人、その他様々な理由で陽のあたる場所から追いやられた人々が混ざり合って、ひとつの集落を形成している。

 ルカートは、こういった場所に足を踏み入れるのは初めてではなかった。都中、どこへだって一度は足を運んだことのある彼である。

 ただ、ここへ来たのは数年前に一度きりのことだった。

 表町で育ちながら、どうしてもその中に居心地のよさを感じられない苛立ちを持て余して、どうせなら正反対の領域になら何かを見出せるかもしれないと、淡い期待を抱いて足を向けたのだ。もっとも――そんな期待など、すぐに崩れ去ってしまったが。

 この界隈に暮らす人々がルカートに向けたのは、胡乱な者を見るような目つきであり、同時に猜疑心の塊であるようにも見えた。皮肉にも、ルカートが自分の家族やその親戚達に向けるものと、ほとんど同じものだった。

 人々は今にも倒壊しそうな粗末な小屋に住み、そこでの生活だけに縋って生きている。甘い菓子も暖かいスープも、肌の上を滑るような上等な衣服も、柔らかいベッドも知らずに。

 これが、表面上では幸福の都と呼ばれている都の正体なのだ。人々は――とりわけ表町に暮らす人間は誰も、追いやられた者達の素顔を見ようとしない。そうして、この都を幸福の都だと呼ぶ。

「……救いようがないのはどっちなんだろうね」

 やれやれと吐息して、ルカートは視線だけを斜め右下に移した。

 ファルドはルカートの独り言など耳に入っていない様子で、黙々と前を向いて歩いている。その子供らしい頬は期待に膨らんでいて、悲観的とか後ろ向きなどという描写はことごとく似合わない。

 ファルドは異質なのだ、とルカートは思った。

 たまたまラティフィーネが助手だと言い張っているだけで、この少年は間違い無く奴隷の身の上である。本人も、それをどうやら理解していて、そのくせに、明るさを失わない。つまり、この界隈で暮らす人々に常に付きまとっている暗い影が、ファルドにはまるで感じられないのだ。

「きみって不思議だね」

 まあ、ラティフィーネの教育に因る部分も皆無ではないのだろうが、とは心の中で付け加える。

 しかし、今度の呟きも、ファルドは聞いていないらしい。

 ルカートは少しだけ意地悪な気分になって、わざと大きな声を出した。

「ファルド君は、僕のことなんてちっとも構ってくれないんだ」

「え、なに?」

「だからさ、さっきから僕のことを置き去りにして、きみは何を考えているのだろうっていうことだよ。きみがこれから行く家って、そんなに大事な人がいるの?」

「ウルカおばさん、だよ」

 口の端を尖らせて、ファルドは言う。

「おばさんの家にお見舞いに行くんだ。おばさん、ここのところずっと体調がよくないっていうから」

「ああ……そうだっけ」

 鼻の頭を掻きながら、ルカートは視線を空へ泳がせた。ただなんとなくついてきた暇人にとってはどうでもいい事だったが、確かにファルドはそんなようなことを言っていたような気がする。洗濯屋で働いているおばさんの中の一人なのだと。

「それって、まだ遠いのかい?」

「ええと、そろそろこの辺りだと思うんだけど。僕も、来るのは初めてなんだ」

 きょろきょろと周囲を見渡し、ファルドは首をかしげる。

 ルカートも一応それに習ってみたが、その女性に心当たりすらないのだから、見当がつくはずもない。表町の馬小屋よりも粗末な家屋が密集して建ち並び、どこからどこまでが一軒なのかすら、わからないような有様だった。

「あ、多分あの家だよ!」

 突然、ファルドが声を上げて駆け出す。

 その軒下付近には、一人の老人が座り込んでいた。薄い頭髪も伸び放題の髭もほとんど白く、そして薄汚れている。昼間だというのに酔っ払っているのか、ぶつぶつと独り言めいたことを呟いていて――そして、その老人の右足は、膝から下が無かった。

 先の戦争の生き残りだと、ルカートにはわかった。貧困層の男達は、ほとんど根こそぎ危険な戦場に送り込まれたのだと、知識として知っている。そして、最も安全な場所で利益を貪り安穏としていたのが、大半の貴族や自分の父親のような一握りの豪商であったと。

 ルカートとは違い、ファルドはなんら気後れすることもなく老人の前にしゃがみこむと、明るく声をかけた。

「お爺さん、こんにちは。ここは、ウルカおばさんの家だよね?」

「……ああ?」

 老人は、剣呑とした目つきのまま顔を上げる。そうして、目の前のファルドと、遅れてやってきたルカートを見比べた。

「あ……あんたは……」

 瞬間、老人の顔色が変わる。彼は、垢と皺に埋もれた顔を驚愕に強直させ、濁った両眼を見開きながら、腰を浮かせた。そして、杖を手にしながらもほとんど這うようにして戸口へ急ぎ、中に向かって早口で喚いた。

「ウルカ、ウルカよう……!」

 老人の行動は、まるで常軌を逸した者のようである。

「お前さんの息子が……坊が帰ってきたぞ!」

 その言葉に、ファルドとルカートは、思わず顔を見合わせた。

「……おばさん、子供がいたのかな」

 神妙な顔つきで、ファルドが呟く。

 ルカートは素っ気なく、肩を竦めた。気のせいでなかったとしたら、老人がじっと見つめていたのはファルドではなくて自分のほうだ。厄介なことにならなければいいと、今回ばかりは、簡単にファルドについて来た我が身の軽率さを呪う。

「おばさん、こんにちは」

 しかし、ファルドはいつもの笑顔を瞬時に取り戻して、家の中に入ってしまった。しかも、ルカートの腕を引いて、である。

 仕方なく廃屋のような家の中に足を踏み入れたルカートの目に飛び込んできたのは、粗末なベッドと、その上で半身を起こした痩せた女の姿だった。

「おばさん、僕、心配で来ちゃった」

「おやおや……こんなところまで。嬉しいお客さんだこと」

 ウルカは駆け寄ってきたファルドに目を細め、それからルカートを見て会釈した。

 美しくはない女だと、ルカートは思った。なにより痩せすぎだし、顔色も悪い。明り取りの窓だけでは薄暗い部屋の、その灰色のような空間と同化して、女は瀕死の老女のようにも見える。

 それなのに、わずかに笑みを刻んだその目の奥は、とても穏やかな光を湛えていて――ルカートは目が合った瞬間、呼吸を止めた。彼女の眼差しは弱々しいほどなのに温かく、荒んだ生活を長く続けた者の目つきとは思えない。

 それは、不意打ちに違いなかった。

 こんなに棘のない、かといって媚びるでもない、優しくて温かい視線を誰かに向けられることに、ルカートはまったくもって慣れていなかったのだ。

 ――期待することなど、とっくにやめてしまったから。

 それは、蔑みや拒絶の視線よりもあっさりと、ルカートの心を傷つけた。

「息子だ、お前さんの息子が帰ってきたんだ……!」

 先ほどの老人は、同じ言葉を繰り返しながら、狭い部屋の中で座り込んでいる。

 ウルカは咳き込み、ファルドが痩せた背中を撫でた。

「おばさん、大丈夫?」

「ああ……大丈夫、ありがとう」

「ねえおばさん、おばさんには子供がいるの? さっきからお爺さん、同じことばかり言ってる」

 ファルドは、子供らしい率直さで疑問を口にする。

 ウルカは困ったように微笑んだ。

「……ずっと昔にね、おばさんには息子がいたんだよ。このお爺さんは、若い頃はとてもしっかりした人だったんだけど……今は、おばさんの息子と他の人との区別がつかなくなってしまったの」

「……そうなの」

「だから気にしないで。あの……気になさらないでくださいな」

 後半は、ルカートに向けたものだった。直後、ウルカは再び激しく咳き込んで、薄い布団に顔を埋める。

「おばさんっ、おばさん大丈夫っ?」

 ファルドは顔色を変え、身体をさすったり水を探したり、ともかく動き回って看病する。

 懸命なファルドと、無理にでも笑みを浮かべるウルカの様子を、ルカートは立ち尽くしたまま、ただ見ていた。

 そうして、薄汚れたこの部屋で、傍観者になっていた。相変わらず喚き続けている老人よりも、この場所で異質なのは自分なのだと思えて、そうすると急速に心も冷めていく。

「……くだらない」

 誰にも聞こえないほどの掠れ声で、ルカートは呟いた。

 こんなことは、実にくらだないことに分類されるべきものだ。他人の領域にいちいちなにかしらの感情を抱くなど、そうするだけ無駄なことだというのに。

 ルカートの価値観において、このような戸惑いを覚えることは、同時に不快を意味する。だから、ささやかな胸のつかえを不愉快ゆえのものだと判断し、お得意の気紛れな気質の所為にして、軽やかな口調を取り繕った。

「僕は先に帰るよ、ファルド君」

「え? だって、まだちゃんとおばさんに紹介もしてないのに」

「でも、僕ってここにいても暇なだけだし。つまらないのは嫌いだし」

「こんな汚いところで……本当に、もうしわけありませんね」

 ウルカは痩せた手に力を込めて身体を起こし、弱々しく微笑んだ。

 ルカートは、それを一瞥するなり背を向ける。

「ルカートってば!」

 ファルドがなにやら非難していたが、一切の無視を決め込む。ルカートは、この場所へ来たことを心から後悔していた。

 独り、均されてもいない土の道を歩けば、雨期の近い空気が抱く独特の湿気が、余計に苛立ちを煽る。

 奴隷街では、毎日のように人が死ぬ。餓えや病気など、ありふれた日常なのだ。そんなことをいちいち気に掛けていては、表町では暮らせない。

 どこで泣き喚く子供の声を頭の中で打ち消しながら、路地からこちらを上目遣いに見ている老婆には気づかないふりをする。

「……来るんじゃなかったよ、本当に」

 ルカートは、苛々と呟いた。

 これはファルドを怒らせただろうということも、あの病弱そうな女性に酷く気を遣わせてしまったことも、すべて後になってから気づいたことだった。

 苛立ちの原因は、ルカートの心の中にある。

 子供の頃に憧れた、幸福の都――決して手に入らないその世界は、いつでも自分を隔離した向こう側にあった。

 そんなものは実在しないのだと、ルカートは誰よりも知っている。

 しかし、怒りにも似た苛立ちは、幼い頃に感じた温かな世界への嫉妬に似ていた。

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