番外編・再会の直前(数年後)
街道の分かれ道には、大きな樫の木が枝葉を茂らせている。
木陰に入り、目深に被っていたフードを頭の後ろに払いながら、ラティフィーネは大きく息を吸った。
ここまで乗せてくれた親切な商人の荷馬車は、もう一方の道をどんどん遠ざかっていく。道の真ん中に立って両手を大きく振りながら、ありがとうとさようならを示したファルドが、くるりと向きを変えてこちらに駆け戻ってきた。
「今から歩けば、きっと夕方には着くと思うよ。僕、ここから先の道は覚えている自信があるんだ」
最後にこの道を通ってから、丸二年と数ヶ月が過ぎた。ファルドはもうすぐ、十四歳になる。大人とは言えないまでも、体も大きくなったし、声も昔ほどには高くない。
再会のとき、あの軽薄な男はファルドの変化を驚くに決まっている。ファルド君はもう立派な若者だねえ、などと大袈裟に驚いてみせるに違いないのだ。
なんだか不公平だと、ラティフィーネは思う。雨期と真夏を過ぎて旅にはいい季節だというのに、気分が晴れないのはそのせいだ。
この数年の間にラティフィーネが変わったことといえば、寂しいという感情を認められるようになった、ということくらいだというのに。この厄介な感情はいつも不意打ちで、大抵の場合、ファルドを誇らしく頼もしく思う気持ちと表裏一体で顔を出す。
「大丈夫だよ。僕にまかせて」
荷物を背負ったファルドが、元気よく歩き始める。にっこり笑う表情は幼いくらいなのに、成長過程の両手長足は、瑞々しい若枝のようにしなやかで力強い。
ラティフィーネはその姿に目を細め、仕方なく歩き始めた。
ここ数日の天気がいいせいで、道は少し埃っぽい。それでも、頬をかすめるそよ風の心地よさが救いだ。風はそのまま道の両側に広がる麦畑を滑り、耳触りのよい音をたてている。
「ねえラティ、あそこの小川、覚えてる? もっと大きい川だったと思っていたんだけどなあ」
「あんたの体が大きくなったからよ」
「僕、そんなに大きくなった?」
「前にここを通ったときには、わたしの肩に届かないくらいだったわ」
これくらい、という当時の身長を手の高さで示してやると、ファルドは誇らしそうに背伸びした。
「すぐに、これくらいになるよ」
「でしょうね。都に着いたら、新しい服を手に入れたほうがいいわ。裾がまた短くなったみたい」
「きっとルカートがお古をくれると思うな」
なんの臆面もなく、ファルドはその名前を口にする。戦争の傷跡を消し去った都でも、まだ復興とは遠い貧しい村でも、ラティフィーネの故郷でも――まるで三人で旅をしているかのように、ファルドの口からその名前が飛び出さないことは一日もないほどだった。
この二年間を、ラティフィーネは後悔していない。
とくに、故郷で両親と再会したことは、意味のあることだったと思っている。
彼等は家出した娘との再会を表立って喜ぶことはけっしてなかったが、相容れない生き方を認めてくれるほどには寛容だった。だから、短い滞在期間、ラティフィーネは彼等のためにできるかぎりのことをした。ファルドも手伝ってくれた。
二度と会うことはないかもしれないが――これでいい。きっと、幸福の都にたどり着くために足りなかったものは、揃ったはずだから。
「さっきから、難しい顔ばかりしてるね」
麦畑を抜けて牧草の広がるなだらかな丘陵に差し掛かった頃、半歩先を歩いていたファルドが振り返った。荷物を背中で跳ねさせるようにして背負い直し、後ろ向きに歩きながら首を傾げる。
「ラティは、ルカートに会えるのが楽しみじゃないの?」
不意に顔を覗き込まれて、ラティフィーネは思わず足を止めてしまった。
「この顔は生まれつきよ」
「もしかして、緊張しているの?」
「――お黙り」
最近のファルドは、ときどき憎たらしい。二年前まで、その灰褐色の瞳は無邪気で純真そのものだったのに、ここのところ、どこかの誰かを彷彿とさせる悪戯っぽい目をすることがある。
ファルドをひと睨みして歩き始めたラティフィーネは、すぐに、前方遠くからこちらに向かってくる二頭立ての箱馬車に気がついた。荷車ならともかく、こんな田舎道にはまるで似つかわしくない乗り物だ。
どきり、と心臓が跳ねる。
占師としての直感が、感情をこれでもかと蹴飛ばした。
「ファルド、あんたまさか――」
「先に知らせを出しておいたんだ」
悪びれもせず、ファルドが笑う。
「だって、僕に手紙の書き方を教えてくれたのはラティだよ」
「こんなことは頼んでいないわ」
「このほうが手間を省けると思ったんだよ。ラティは素直じゃないし、そのことは僕もルカートも知っているんだからね!」
生意気な台詞を口にするファルドは、大きな仕事をやり遂げたかのように満足そうな顔をしている。それを頭ごなしに叱ることもできず、ラティフィーネは思わず、空を仰いだ。
認めたくはないが――たぶん、ファルドの言い分が正しい。
雲雀が二羽、もつれあうようにして飛び去っていく。近くに巣があるのかもしれない。
視線を戻したとき、もったいぶるようにいくらか距離を保って、馬車が停止した。
御者台の使用人が急いで降りて、主人のために扉を開ける。
すらりと長い足が地面に着地するより先に、ファルドが嬉しそうな笑い声をあげて駆けだした。
「……相変わらずね」
やることが気障で、どこか面白がっているようなところがあって、嫌味なくらいにそれが似合う。
ラティフィーネはわざとゆっくり、ファルドの後を追った。
歩きながら、長い髪をなびかせるように肩の上で払う。その指先が、赤い髪の中で揺れる金環に触れた瞬間、思わず笑いだしたくなった。
本当は、わかっている。
ルカートはきっと、ラティフィーネが一番見たかった笑みを浮かべてくれるに違いない。
耳飾りの半分を――その手の中に隠して。
―了―
いまさらながら発掘したので、掲載します。
以前、自サイトでやっていた小説の一括DLのおまけエピソードとして書いたものでした。
どうせなら、再会して会話するくらいまでのエピソードを書けばよかったのに……寸止めですみません(笑)。