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遥かなる幸福の都  作者: 叶 響希
11/14

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 毎日を、窮屈だと思っていた。

 周囲にあるすべてのものが色褪せて見えたし、細かく世話を焼きたがる教育係や教師が疎ましかった。自分よりずっと物分りのいい姉達は別世界の人間に見えたし、貼り付けたような微笑を浮かべる美しい母や、ほとんど口をきくこともない父のことは、その存在自体を意識しないように心掛けていたような気がする。

 そういう自分が嫌で――用意されたままの人生を歩くことが我慢ならず、ラティフィーネは家を飛び出した。

 四人の姉達のうち、上の二人が病死したことを知ったのは、一年半くらい前だったと記憶している。偶然食堂で隣に座った旅人が、東方で流行り病が猛威を振るっていることを教えてくれたのだ。

 記憶のかぎり、実家のことを占ったのは、その一度きりのことだった。そして、姉達の死や実家の衰退を知った。

 薄情なことに、ほとんど感慨らしいものは浮かばなかった。多くの客の依頼を受けて占うときと同じように、淡々と水鏡の映す現実を見ていたのだ。

 空がとても青く澄んだ日のことだった。

 こんなときは泣くものかしら、と少しだけ悩んだことを、ラティフィーネは覚えている。なぜなら、とくに一番上の姉は彼女に優しかったから。

 今日が雨の日だったらいいのに、と。そう思ったことも覚えている。

「雨ならば……雨に紛れて泣けたもの」

 椅子に腰掛けたまま窓を見上げて、呟く。その後で、ラティフィーネは小さく笑った。

 以前、ルカートに同じようなことを言った事実を思い出したからだ。実際に雨の中を歩いてきた彼のほうが、当時の自分よりもいくらか前向きのようにも思える。

 外から聞こえるのは、ここ数日変わらない雨音だ。窓から降り注ぐ朝陽はぼんやりと白濁しているようで、柔らかいくせに陰湿でもある。

 振り返ってみれば、こんなふうに物思いに耽るのは、初めてかもしれない。

 ラティフィーネは、これまで常に前を向いていたつもりだった。自分の意思で貴族の娘であることを捨て、ファルドを道連れに選び、占いで生計を立て、旅をしてきた。

 どこにあるのかわからない、幸福の都を求めて。

 幸福は、どこかに存在するものだと信じて。

 だから、自分が捨て去ったものに対する執着はないほうがいいと思ったし、実際、窮屈な生活への未練はなかった。そしてそれと同時に、自分に向けられる他人の想いを思い遣ることも、やめてしまったのかもしれなかった。

 カスタント家の人々が、占師に育てられた末娘と明確に距離を置いていたことを、今でもラティフィーネは認めている。彼等が自分を疎ましく思っていた部分があっただろうことも、きっと事実だろう。

 しかし、一番上の姉がそうであったように、ときどき彼等は優しかった。彼等は貴族社会に馴染めないラティフィーネを持て余してはいたが、決して悪魔ほどに冷酷ではなかった。

 戸惑いはきっと、双方に存在したのだ。

 歩み寄ることをしなかったのは、双方の責任だったかもしれない。それでも、一切を切り捨てて顧みることをせず、勝手に飛び出したことを咎があるとすれば、それはラティフィーネが負うべきものだ。

 もちろん、だからといって、家を出たことに後悔などしていない。それでも、現状から抜け出すために漠然とした幸福の姿を追うことと、自分の捨てたものの姿を見据えたうえでなお自身の道を歩むこととは、違う――違うのかもしれない。

 雨音に耳を傾けながら、ラティフィーネは感じていた。

 姉達の死を知ったのが今ならば、泣いたかもしれない。今ならば、彼女等を本当は好きだった事実を、そして本当は愛されたかった事実さえも、受け入れられる気がするから。

 そして、そんな自分自身の変化に、少し戸惑っていた。

「……毎朝、ご苦労様だわね」

 近づいてくる足音に気づいたラティフィーネは、無感動にドアを見据える。

 今晩、ヨアールと親交のある人々がこの屋敷に集まるはずだ。そこで自分が占師として披露されることを、知っていた。壁の鏡と耳飾りの反射が水鏡の代用になると知ってから、部屋の中に居ながら外の様子を知る術を得たのである。

 あの女中頭だと思っていた老婆こそ、この屋敷の先代の占師であり、ラティフィーネが裏町にいることを偶然に突き止めた人物だということも。議会で出納長を務めるヨアールが、実はこの都の領主との関係がうまくいっておらず、そのご機嫌取りとして、ゆくゆくは自分を差し出すつもりであることも。

「今朝のお目覚めはいかがでしたかな?」

 顔を出したヨアールは、今日は一段と機嫌がいいようだ。

 ラティフィーネは、そんな男に悠然と応じるのだった。

「――そうね。今日こそは、いい日になる予感がしているところだわ」



* * * * *



 都の議会で出納長を務める要人――ヨアールの屋敷に、表町でもっとも有名な装飾品店の一人息子が訪れたのは、裏町から赤い髪の占師が消えてから三日目の午後だった。

 小雨の降る中、馬車は滑り込むようにして門をくぐる。

 馬車には、ルカートとファルドとが乗っていた。最初の頃は馬車に揺られることに興奮していたファルドも、今では慣れたようで大人しく座席に収まっている。そうしているととてもお利口に見えるよ、とルカートがおだてたせいもあるだろうが、実際は緊張しているのかもしれなかった。

 玄関の前に到着し、馬車が止まる。

 ルカートは出迎えの執事に礼を述べ、上品な笑みを浮かべつつ、屋敷内に足を踏み入れた。その後を、大きな四角い鞄を抱いたファルドが続く。

「奥様、本日は快く迎えてくださって感謝します」

「ちょうどよかったのよ。昨日こちらから使いを送る前にあなたのほうから申し出てくれて、あたくしがどんなに嬉しかったことか」

「では奥様、ここ数日の間、僕がどんなにか奥様にお会いしたかったかご存知ですか?」

「相変わらずお上手ね」

 夫人は機嫌よさそうに、ルカートとファルドを居間に招き入れた。家の中にいるときでも自身を飾り立てていなければ気が済まないという、無類の派手好き女である。顔の造作は整ったほうで肌艶も実年齢よりは若いのに、華美な演出が彼女自身を安っぽい女に仕立てていることに当人は気づいていないのだった。――ルカートにしてみれば、上顧客を手放してまで品性を説いてやるほどお人好しでもないので、自分と合わない感性については考えないことにしている。

 居間に入るとまず、ルカートはファルドのことを紹介した。夫人の視線がちらちらと、タークル人奴隷に対する蔑みを発していることへの、多少の防壁でもある。

「これは、僕の店で下働きに雇った子です。最近では、僕専用の使用人なのですが」

「あらそうなの。でも、こんな子供が役に立つかしら?」

「これでも、将来は僕の片腕になる人材ですよ」

 にっこり笑いつつ、ルカートは応じる。ちらりと視線で促すと、ファルドは緊張した動作で使用人らしく深々とお辞儀をした。

 夫人はそれを一瞥すると、以降はファルドへの関心を失ったようだ。早く持参した品を見せてくれと、雨天でも明るい窓辺のソファに誘う。

「あなたのところは最新の流行を取り入れた品が揃っているから、いつも楽しみだわ。身に着ける宝石だけではなくて、居間を飾る小物や置物の類も趣味がいいと評判よ」

「ありがとうございます、奥様。父も喜ぶでしょう」

 夫人の手を取って座らせた後、ルカートは敢えて床に片膝を着いた姿勢のまま一礼する。そしてファルドに合図して鞄を持ってこさせると、脇のテーブルの上で開いて見せた。

「今日はとくに、奥様に相応しい宝石を数点お持ちしました」

「……まあ」

 素直な感嘆とも演技とも思える声を発して、夫人はじっと宝石に魅入る。

「これは素敵な色だこと。……でもこちらのものは、議長夫人がしていたものと似ているわ。あたくしは、あの女を見返してやりたいのよ。同じものでは我慢ならないわ」

「奥様、僕は人を選ばずに誰にでも同じものをお勧めするほど薄情ではありませんよ。ご覧ください。ほら、こちらのほうがずっと色もいいし、作りも精巧です。奥様の好きな花模様の隠し彫りも、この通り」

 ルカートが笑みを浮かべて説明すると、夫人は簡単に気をよくして口元を扇子で覆う。

「もちろん、まったく斬新な造りのものもご用意しております。こちらなど、奥様の白い肌にはすばらしく映えますよ」

 次にルカートが示した首飾りは、しているだけで肩が凝りそうな宝石を散りばめたものだった。店で扱う商品の中でも、もっとも高価なものに挙げられるもののひとつだ。

 目を輝かせている夫人の目の前で、ルカートはそれを両手に取り、断りを述べてから夫人の背後に回った。

「奥様、これが最高級の宝石を身に着けることの重みです」

 囁くような声は、意識してやっているものだ。

 部屋の隅にいるファルドが大きな目を瞬かせながらこちらを見ていることに気がついて、ルカートは内心で苦笑した。無垢な少年には少々毒らしいが、この際仕方ない。ただし、無愛想な赤毛のお姫様へ悪意無く告げ口されることを考えたら、口止めは必要かもしれないが。

「ねえ奥様、今日はこれからここに旦那様と親しい方々がお集まりなのでしょう?」

「ええそうよ。議長夫人もね。だからこそ見せつけてやらなくては」

 応じる夫人の声は、うっとりとして、視線はまるで空中を滑っているようだ。

「それにしてもこの首飾りの美しいこと……ええ、なんて素敵なんでしょう。ああでも……これはとても高価なのでしょうね……本当に、あたくしのものにできるならいいのに」

「よろしければ奥様、今宵一夜、こちらをお貸ししましょう。そのうえで、本当に気に入って下さったら購入してくださればいいし、お返しくださっても結構です。明日、またお伺いしますから」

 この夫人を罠に落とすことは、蜜に酔った蝶を捕まえるより容易い。最上級の笑みを浮かべたルカートは、とどめとばかりに耳元で囁いた。

「もちろん、こんなことは他の方には致しません。奥様だからこそ……僕は信用するんです」

 派手好きで気位の高いところがあったとしても、育ちのよいこの夫人は、結局のところは甘い誘惑に弱い。

 ルカートは、ちらりとファルドに目配せした。間違っても、これから先の話題に使用人が露骨に反応してはならない。口が裂けても、「ラティだ」などと口走ってもらっては困るのだ。

 ファルドもちゃんと理解しているらしく、きゅっと口元を引き締める。

「その代わり……奥様、ひとつだけお願いがあるんです。今夜の席に、僕も出席させていただけませんか? なんでも、面白い余興があると、親しい方々に声をお掛けだとか」

「あら珍しいこと。あなたはこれまで、誘ったって来ないと評判だったのに。饗宴には興味がないと言っていたのではなくて?」

「お酒やお喋りに興味があるわけじゃあありませんよ」

 甘い誘惑を吐くときと同じくらい柔らかく、ルカートは言葉を紡ぐ。

「僕、知っているんです。このお屋敷に新しく占師が来たってこと。今日あたり、彼女をお披露目するつもりなんじゃないかと思って。彼女、少し前まで裏町にいた娘でしょう? 僕、ちょっと興味があるんですよ」

「……相変わらず抜け目のないこと。でも、あんな娘のどこに興味があると言うの?」

「嫌だな、奥様。僕は、彼女の占いに興味があるだけですよ。彼女の占いはよく当たると評判だったそうじゃないですか。まあ……彼女がなかなかの美人だという噂も、聞くには聞いたけれど」

 冗談めかして言うルカートに、夫人は悦に入ったような、かつ高慢な笑みを作った。

「あたくしに宝石で恩を売っておいて、その口で簡単に他の女への興味を語るなんて。なんて軽薄で恥知らずな人なのかしら」

「こんな僕では、奥様に嫌われてしまいますか?」

 背中から覗き込むルカートに、夫人は扇子を揺らし、声を立てて笑う。

「困った子だこと。……よくてよ、主人にはあたくしから伝えておきますから」

「ありがとうございます、奥様」

 にこりと笑ってみせてから、ルカートはするりと身を翻し、宝石の入った鞄を閉じた。

「では奥様、僕は一度出直して参ります」

「お茶を飲んで行く時間もないのかしら?」

「その時間、奥様がさらに美しく着飾るために捧げますよ。……今宵を楽しみにしながらね」

 からかうような夫人の誘いをあっさり受け流し、ルカートはさり気なく訊ねる。

「そうだ奥様、今夜の会場は二階の広間ですか? 広いバルコニーがご自慢の?」

「ええそうよ。でも、この時期は雨だから駄目ね。夜風に当たることもできないのだから」

「僕には雨でありがたいな。晴れていたら、旦那様を差し置いて奥様を誘い出すところですから」

 自分の発言に呆れるとは、こういうことだろう。それでも、上流階級向けの外面を崩すことなく、ルカートはその場を辞した。

 小走りに後をついてくるファルドは、まるで恐ろしいものでも見た後のように強張った顔をしている。素直に育ち過ぎた少年には異世界に迷い込んだほどの衝撃だったのかもしれず、そんな嘘臭い世界を渡り歩く自分を、少しばかり嫌悪するルカートだった。

 再び馬車に乗り込み、二人は屋敷を後にする。

 門を抜けるとき、ファルドが堪えきれずに振り返るのを、ルカートは止めなかった。

「……ラティ」

「夜になれば会えるさ……必ず。僕もうまくやるから、ファルド君もしっかり頼むよ」

 わざわざファルドを連れて来たのは、夜に動きやすくするためだ。少なくとも執事や夫人にファルドの存在を知らせておけば、ルカートが少年を連れていても不審とは思わないだろう。ファルドが夜の闇にまぎれて屋敷の庭をうろついていても、せいぜい叱られる程度で済む。

 ルカートは御者に屋敷の脇を通る道を指示し、わざと遠回りをさせた。

「ご覧、あれがバルコニーだよ。場所を覚えておくんだ」

「門を入ったら、右側だね。僕、少しくらい怖くても、ラティに会うためなら頑張るよ」

 真顔のファルドに、ルカートは笑って頷く。そして、情報をくれたエルミナの親切と支払い証明書を持ち出した宿の主人の機転に感謝した。それらが一点で合致しなければ、こんなきっかけすら得られなかっただろう。幸運だった、と言ってもいい。

 ただ、こんなことが他人に知れたらただでは済まないことも確かだ。

 奇妙な緊張感と不思議な興奮を、ルカートは吐息することで誤魔化した。




 ――夕刻過ぎ。

 再びヨアールの屋敷を訪れたルカートは、ファルドの言葉をそのまま借りるなら「いつもよりしゃんとして」いて、「まるでお話の中の王子様みたい」なのだった。

 僕は王子様の柄じゃないよ、と笑ったルカートだが、髪を整えていつもより上等で身綺麗な格好をしている彼は、いかにも良家の子息といった所作も忘れない。

 広間――とは言っても、部屋全体を楽に見渡せるほどには狭い部屋は、中央のテーブルの上に等間隔で配置された燭台と、暖炉の炎があれば十分に明るい。昼間のように明るいというオイルランプのシャンデリアが裕福な貴族の間で流行っている事実をルカートは知っていたが、ヨアールが妻の宝石好きほどに室内の装飾に凝らないことが、今夜は有難い。

 室内には、既に来客が揃っている。男女比はほぼ半々で、全員を合わせてもせいぜい二、三十人程度だ。その中には、エルミナの父親の姿もある。

 娘の新しい婚約者は将来有望な議員の卵だと、たっぷりの皮肉と自慢を体面とやらに上手に丸め込んで告げた彼に、ルカートは心からの祝福を述べた。ルカートは、彼がここに来ることを知っていた。そもそも、この催しがあることを示唆したのはエルミナの手を介して渡された彼自身の交友録なのだ。最初から、たとえ罵倒されても当然だと覚悟していた。

「ようこそ、皆さん。今宵はさぞ、楽しんでいただけましょうぞ」

 口髭を撫で回しながら登場したヨアールは、機嫌よく客達を見回す。

 その恰幅のいい体躯の後ろに続いて、宝石に埋もれた彼の夫人が、そして多くの客にとっては見知らぬ令嬢が現れた。彼女が新しい占師だと紹介された途端、広間に疎らに広がっていた人々が、環を狭めながら中央のテーブルに集まっていく。

「驚いたな……本物のお姫様だ」

 深緑のドレスに身を包んだラティフィーネは、いつもは無造作に背中に流している赤毛を結い上げていた。金環の耳飾りはいつもと変わらず、それにむしろ安堵する。

 ラティフィーネは落ち着いた様子で、周囲に視線を走らせた。そして、壁際に陣取っていたルカートを見て、一瞬だけ、しかし確かに薄く笑ったのだ。

「……さすがだね」

 笑い出したい気分になって、ルカートは唇の先だけで呟いた。

 どうやらお姫様は、自分を救出しようと試みる者の存在を、ちゃんと知っていたらしい。

 口元の笑みを誤魔化すために、好みでもない酒を口に運ぶ。そうして表情を消してから、ルカートはまるで他の客達と変わらぬ顔をして、テーブルを囲む輪の中に加わった。

 真っ白なテーブルクロスの上には、銀の燭台が置かれ、その周囲には様々な料理や飲み物が置かれている。そして、テーブルの一端だけが異質な領域だった。

 そこだけ正方形の黒い布が敷かれ、その上には銀盆の水鏡が用意されていたのだ。ラティフィーネは椅子に腰を下ろし、既に何やら占いを始めている。

「……西の町に、親戚がいるでしょう。近いうち、嬉しい便りが来るはずよ」

 それは、ルカートの知らない初老の男性に対するものだ。

「雨期が明けるまで、新しい宝石を手に入れるのはよしたほうがいいわ。不幸を招くと出ているから」

 これは、議長夫人に向けたもの。そして、娘の結婚を案じるエルミナの父親に対し、ラティフィーネは無表情で告げた。

「二人の相性は、いいはずだわ。将来子供が生まれたら、きっと幸せな家庭になるわね」

 決して多弁でなく、しかも媚びることなく淡々と、占師は告げていく。

 初めは疑わしそうに見ていた人でさえ、しばらくすれば身を乗り出して何事かを訊ねる始末だった。結局、生活を保証された金持ち連中は、楽しみに餓えている。彼等にとっては、贅沢な食事や酒よりも、一風変わった占師の存在のほうが有り難いのだ。彼女がいかにも本物めいた言葉を口にすることが、彼等にとっては重要なのだろう。裏を返せば、占いの真偽は二の次だということにもなる。

 ルカートは、片手に持ったままのグラスを傾けて、口に馴染まない酒を飲み干した。そうして、この会の主催者であるヨアールの魂胆を、漠然と理解する。

 若く美しい、しかも巷でも評判だった占師を手元に置いていることを、ヨアールはこの場で見せつけたいのだ。当然、この事実は噂となって、都の上流階級の人々に間に流れるだろう。いずれ――そう遠くないうちに、領主の耳にも入るに違いない。それこそが、この男の狙いではないのか。

 金持ちという人種の中には有能な占師を囲いたがる者がいるが、この都の領主はその代表とも言える人物だという。ヨアールと領主の関係が最近よくないという噂が事実なら、この珍しい占師を差し出すことで、その修繕を図ろうとしているのかもしれなかった。加えて、ラティフィーネが実は貴族出身の娘であることを明らかにすれば、彼女の価値はもっと上がるというものだ。

 自分で想像しておきながら、ルカートは呆れてしまった。しかし次の瞬間、意図せずしてラティフィーネと目が合い、浮かべた苦笑を慌てて消し去る。

「次は、あなたの番よ」

「え、僕?」

 驚いたような声になったのは、演技ではなく、本当に驚いたからだった。

「あなたは、何か心配事を抱えている顔をしているもの」

「……光栄だな。ご指名いただけるなんて」

 素知らぬふりで応じながら、ルカートはラティフィーネの大胆さに舌を巻いた。しかしすぐに、これが彼女の側から差し出された好機だと判断する。

「実は……大事な猫の行方を捜しているんだ。……急にいなくなってしまって、僕はここ数日行方を捜している」

 神妙な面持ちを繕ったルカートは、無難にラティフィーネに近寄ることにも成功した。

 ラティフィーネは心得たように頷き、水鏡に手をかざす。

「あなたの探している猫は、迷子になってしまったみたいね。でも、心配しなくてもよさそうだわ」

 そう言ったラティフィーネは、共犯者のような目をして、僅かに唇の端を持ち上げる。

「猫だからって何も考えないわけじゃないの。どうすれば元の場所に帰れるだろうか、考えているはずよ」

「その猫が、かい?」

「そうよ。だから機会を窺っているはずだわ。今にきっと行動を起こすから、あなたはそのとき、怒ったり驚いたりしては駄目よ」

 当然のように告げ、ラティフィーネはそれ以上何も言わない。

 周囲の客達は、この占師を変わり者だと判断したことだろう。しかし、ルカートはいたって真面目な顔をして頷くと、まるで貴婦人を相手にするように丁寧な礼の言葉を口にして、その場から外れた。

 猫の行方を真剣に心配する心優しい青年――もとい、その猫をこれから攫ってやろうと目論んでいるルカートは、ゆったりとバルコニーのほうへ足を向ける。

 降り続く雨を見ているふりをして、窓に映った室内を見ると、ヨアールを含め客達の全員はテーブルの周囲に集まっている。それを確認しながら、ルカートは外へ出るために取っ手に触れた。

 ゆっくりとガラス扉を開くと、雨音と夜の空気が同時に入り込んでくる。バルコニーの床は斜めに降り注ぐ雨のせいですっかり濡れていたが、自慢できる広さは十分にあり、手摺も凝った造りだ。しかしもちろん、ルカートはそんなことに感心するために外へ出たのではない。

「……ファルド君」

 眼下に囁くと、暗闇の降りた植え込みの側で、応じるように小さな影が動く。雨よけのコートをすっぽりと被ったファルドである。

 ルカートは無言で手招きすると、上着の内側に隠し持っていた細いロープの束を解き、一番近くの手摺を跨がせて、両端が階下に落ちるようにして垂らした。

 気配で、ファルドが下に駆け寄ってくるのがわかる。それを確認して、ルカートは部屋に戻った。

「雨だというのに濡れてしまうわ」

 笑みを含んだ声の主は、出納長夫人である。

 内心どきりとしたルカートは、こちらに歩み寄ってくる夫人とその取り巻き女性数人に対して、照れくさそうな笑みを浮かべることで誤魔化した。

「屋根があるから平気だと思ったんですけど……今日は少し風があるので駄目ですね」

 女性達は、ほほ、と声を立てて笑う。この女性達は皆、ルカートにとっては店の顧客でもあった。

「奥様方がこんなに並んでいらっしゃると、僕はどなたのお相手をすべきか迷いますよ」

 肩を竦めて、にっこり笑う。そうして、視線だけをちらりとテーブルのほうへ向けると、ラティフィーネはまるでその瞬間を待っていたかのように、突然、椅子から立ち上がった。

「……気持ちが乱れてしまったわ」

 言いながら、彼女は水面から水晶の欠片を摘み上げると、いかにもそれが何かの意味のある動作のように、水鏡の水を空いたグラスに注いだのだった。

 次に、ラティフィーネは商売道具を小脇に抱えたかと思うと、テーブルクロスに手を掛けた。そして突如、それを引き剥がそうとするように、渾身の力で引っ張りながらテーブルの端からルカートの居る窓側に向かって走ったのだ。

 唖然としたのは、ルカートも他の客達も同様である。

 悲鳴をあげたのは、誰が最初だっただろうか。

 グラスが割れ、皿の落ちるけたたましい音が響く。燭台が次々と倒れ、床に転がった。

「火だ、火を消せ!」

 誰かが怒鳴る。倒れたろうそくの炎の幾つかは、まだ生きている。その上に真っ白なテーブルクロスが落ち、不気味な明るさが布の下に生まれていた。

 ルカートは、悲鳴をあげる女性達を押し退けるようにして壁際の花瓶を取り上げると、一気に床にぶちまけた。ついでに、足元のろうそくは足で踏みにじる。

 直後、部屋には暗闇が降りた。

「――なんてことを」

 ルカートは、本気で困惑した。慌てふためくヨアールや客達ほどでないにしろ十分に驚かされて、思わずラティフィーネの心理状態を疑ったほどだ。

「早く!」

 暗闇の中、鋭い小声と共に腕を引かれ、ルカートは我に返る。それがラティフィーネだとわかると、咄嗟に声を上げた。

「占師がいない! そっちへ逃げたぞ!」

「灯りを持ってきなさい!」

 呼応して叫んだのは、ヨアールのようだった。

 室内は騒然としている。誰かが廊下に飛び出したらしく、それを別の誰かが、占師が逃げたのだと叫ぶ。

 ルカートはラティフィーネの腕を引くと、バルコニーに出た。

 先ほど垂らしておいたロープを引き上げ、ファルドがちゃんと仕事をこなしていることを確認する。ロープの両端はきつく結ばれて、手摺を通した巨大な輪状になっており、その先端には馬具のあぶみのように、鉄輪が取り付けられているのだった。

 ルカートはまず自分が手摺を越えてから小さな輪に利き足を掛け、ラティフィーネが手摺を越えるのを手助けした。このときばかりは、ラティフィーネがルカートに抱きつくようにしなければならないが、お互いそんなことを気にしている余裕もない。

「行くよ。しっかり捕まって」

 右腕でラティフィーネの身体を抱き、左手で輪の両側――二本のロープを掴んだルカートは、バルコニーの床を蹴った。

 二人の身体は落下し、振り子のように大きく揺れる。

「……っ!」

 ルカートの左手が二本のロープの摩擦に強い痛みを訴え、ロープ自体も二人分の体重と落下の勢いに大きく軋む。

 ラティフィーネが悲鳴をあげたりしなかったことは、褒められることだっただろう。

 ルカートはラティフィーネを先に地面に降ろすと、自分も飛び降り、ポケットから取り出したナイフでロープの一端を切った。そうして片方を引くと、すべてのロープが落下して証拠はなくなるという計算だ。

 茂みから飛び出したファルドは、落下したロープを急いで拾い集め、持参した鞄に押し込む。

「大丈夫かい? ラティフィーネ」

「平気よ。あなたこそ、手に怪我をしたんじゃない?」

「いいさ、これくらい。……でも、きみって案外、無茶苦茶なことをするんだね」

「忠告してあげたじゃない。怒ったり驚いたりしてはいけないって。あなたがきっかけを探すのに困らないように、わたしから動いてあげただけだわ」

 あっさりと言ってのけたラティフィーネは、続いてとんでもないことを口にした。

「それよりも、このドレスを脱がせてくれない?」

「ええっ?」

「いいから、早く。わたし、慣れていないからうまく脱げないの」

 言うなり、ラティフィーネは背を向ける。

「いいこと? 占師は煙のように消えてしまうの。ドレスだけが残されるなんて奇怪な事件が広まれば、あの男はわたしの行方になんて興味をなくすわ。だから、急いで」

「……同じ脱がせるなら、もっと雰囲気のある状況がありがたいけれど」

 軽口を叩きながらも、ルカートはほとんど手探りで、背中のリボンに手を掛ける。やがて下着姿になったラティフィーネは、ファルドが差し出した雨よけのコートを羽織った。

「さあファルド君、ここからはきみがお姫様を守るんだよ」

「うん!」

 頷いたファルドは、ラティフィーネの手を取る。しかしラティフィーネのほうは、一旦その手を解いて、突然ルカートの首に抱きついたのだった。

 頬に何かが触れ――それが、軽く押し当てられた唇だとルカートが判断するより前に、ラティフィーネは何事もなかったかのように身体を翻す。そして彼女は、飛び降りる前に放り投げていた占い道具を拾い上げると、そのままファルドと駆け出した。

 素っ気ないほどのそれが彼女なりの感謝の証だと、たっぷり数秒経過して気づく。

「……まったく……暗闇だったことを感謝しなくちゃね」

 二人の背中を見送ったルカートは、片手を頬に当てたまま、雨を仰いで苦笑した。

「僕がこれしきのことで動揺するなんて……参ったよ」




 ファルドは、片手に鞄を持ち、片手でラティフィーネの手を引いて走った。

 ルカートに何度も言われている。馬車に乗るまでは成功とは言えないのだから、絶対に気を抜いてはいけない、と。それから、馬車まではきみがラティフィーネを守るんだよ、と。

 馬車は、門を抜けた木陰に待たせてある。それはルカートが別途用意したものだ。

「鞄はわたしが持ったほうがいいんじゃない?」

 途中、ラティフィーネはそう言ったが、ファルドは大丈夫だと応えた。

「じゃあ……手を離したほうがいいわ。両手が塞がっていたら暗くて危ないもの」

「いいの!」

 心配するラティフィーネに、ファルドはきっぱりと言い切る。

「僕は男の子だもん。ラティは女の子でしょう? 僕が頑張らないといけないんだよ。ルカートがそう言ってたんだ」

「そ……そう」

 人の気配に、ファルドは慌てて立ち止まる。茂みの中にしゃがみ込んで、ラティフィーネを振り向いた。

「それに、ラティは僕の手を離さなかったでしょう?」

「え?」

「ラティは最初に会ったとき……絶対に、僕の手を離さなかったでしょう? 僕、ちゃんと覚えているんだ。とても安心したんだよ。すごく、嬉しかったんだ」

「……ファルド、あんた……」

 顔にかかる雨の雫を手の甲で拭って、ファルドは茂みを飛び出した。――もちろん、ラティフィーネの手をしっかり握り締めたまま。

 素早く門を抜けると、馬車はひっそりと待っていた。御者台の男は、ルカートの家の使用人である。

 臆病者だが信用がおけるとルカートに称されるこの男は、二人が馬車に乗り込むなり、慌てたようにして馬に鞭を打った。

 馬車は、雨降る夜の闇に溶けていく。大通りに紛れてしまえば、中に乗っているのがどこの誰かなど気に留められることもない。

「……ありがとう、ファルド」

 馬車が走り始めると、ラティフィーネはそう言ってファルドの頭を抱き寄せた。

「うん」

 にっこり笑って、ファルドはラティフィーネに抱きつく。

 本当はとっても怖かったということ、まだ心臓がどきどきしていること、ラティフィーネがいなくなってとても悲しかったこと、でもルカートが居てくれてよかったということ、話したいことは沢山あるのに、どれから話せばいいのかちっともわからない。

「僕……ラティのこと、大好きだよ!」

 ただ、それだけは間違えようがなくて――全部まとめたら、きっとそういうことになりそうで、ファルドは自信満々に宣言する。

 ラティフィーネは、何も答えなかった。

 それでもファルドはわかっている。ラティフィーネは、恥ずかしがり屋なのだ。確かなものが言葉だけではないと、ファルドは知っている。

 なぜなら、黙ってぎゅっと抱きしめてくれる腕も、本物だと知っているから。




 ヨアールの屋敷では、ドレスを手に立ち尽くすルカートが発見されていた。

 後の噂では、放心して雨に濡れる彼は何かに取り憑かれたようでもあり、ある夫人によれば、室内に連れ戻された彼の整った顔は色を失い、唇は怯えたように震えていたという。

「……消えてしまったんです。僕は……彼女を見つけて、確かに、この腕で捕まえたと思ったのに……煙のように、消えてしまったんです……」



 真実は、夜の雨に溶けたまま――。

 やがて雨期が明ける頃、噂は青空に吸い込まれ、都は華やかな祭りの季節を迎える。

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