06.遺物
【文字数】2378字 【推定読了時間】約5分
赤坂の葬儀から一日を空けた今日、目黒は午前のうちから赤坂のマンションを訪れていた。
告別式で赤坂の妻に再会した折、遺品整理の手伝いを頼まれたのだ。今日は土曜で、目黒は休日で都合がついたから、二つ返事で引き受けていた。
目黒と赤坂と彼女とは、大学時代の友人である。
「スミちゃん、これはこっちの段ボール?」
なにげなく言ったあと、目黒ははっとした。
「ごめん。」
彼女の旧姓は墨田だ。
そこから綽名をとって、大学時代は「スミちゃん」と呼んでいた。
彼らの結婚披露宴を最後に交流はなく、名前を呼ぶ機会がなかったから新たな呼称は決めていなかった。その必要がなかった。
しかしだからといって、つい先日夫を亡くした女性を旧姓で呼ぶのはあまりに無礼だろう。
目黒としては、いまさら彼女の名前に「さん」を付けて呼ぶのも、あるいは「奥さん」と呼ぶのも、どうもしっくりこないから、彼女を呼ぶのをうまく避けていたのだが、彼女が気落ちした姿を見せないことや、以前と変わらない打ち解けた雰囲気に、目黒は気が緩んでいて、うっかりとそう呼んでしまったのだった。
「えっと、なんて呼んだらいいのか……」
二度と会うつもりはなかったから、新たな呼称など必要がないはずだった。
再会できるとは思っていなかった。
よもや、こんな形では。
「いいよ『スミちゃん』で。姓は戻すの。離婚もするし。死後離婚ってやつね。」
墨田はあっさりと答えた。
『赤坂』の苗字に執着はないらしい。
「そうなんだ……。」
この部屋にはいま二人きりだから、互いに黙ると静寂が際立つ。
目黒は、手元は作業に戻りながら、頭では言葉を探していた。
つい一昨日に夫を荼毘に付したとは思えないほどテキパキと動いていた墨田は手を止めて、気まずそうな目黒の横顔を見つめる。
これまでは思い出話や互いの近況報告をしていたが、彼女はやっと、避けるでもなく避けていた話題――葬式の前後について話しはじめた。
「わたしお葬式ではそれらしい顔してたでしょ? でもね、全然どうでもいいの、気にしてないの。わたしってこんなに、あの人のことなんでもなかったんだってやっと気づいた。あの人の家族も含めてね。
通夜でね、赤坂の両親にことの経緯を話したんだけど、……まぁ、喧嘩して家を出てたことも話したわけよ。そしたら酷い女なんて言われてさ、喚きたてられて。わたししかつめらしくしてるの耐えられなくなっちゃって。あいつを追い出したのは、あいつが浮気したからだって言ってやったら、わたしに魅力がないせいだって。あいつが死んだのはわたしのせいだって言うの。離婚はその場で決まった。葬式で疲れ切ってたのは通夜で一睡もしてなかったから。敵だらけのなかで眠れないからね。
斎場に浮気相手が来てたから、あの女の腹のなかにはお孫さんがいるかもよって母親に教えてあげたら、二人仲良く話してた。倫理観がどうかしてんのよあいつら。
あいつらと縁を切るためだもん、わたし手続きだってなんだって徹底的にやってやるつもり。」
彼女は話しつづけた。
家族葬で済ませなかったのもあってそれなりに手間も金もかかった。死因が死因だから警察とのやりとりもあったし、この先にも損害賠償だとか生命保険だとか細々した手続きが待っている。加えて死後離婚――姻族関係を終了することになったから、赤坂側の姻族にこのマンションを含めて財産分与を求められてしまった。墨田と赤坂の母親とは折り合いが悪く、すぐにでも赤坂の遺品をすべて『返せ』と言われ、それで今日の遺品整理という運びになったのだ。
彼女は突然に降りかかった災難を、しかし面白おかしく、大袈裟なくらい情感豊かに喋る。
もう笑い話にでもするしかないのだ。
墨田はすでに相当に疲れているのだろうと、目黒は察する。
しかしまだ先は長い。
彼女を奮い立たせているのは怒りだ。
もしひとりになって、ソファーに沈みでもしてしまえば、きっとその気持ちが途切れてしまうだろう。だから今日、話し相手が必要で、それで目黒を呼んだのだろうと、目黒は彼女の声を聞きながら思った。
赤坂の遺品をすべて――使いかけの歯ブラシさえも梱包して、運送業者が引き取りに来たときには、空の青色の弱々しい、夕暮れになっていた。
寝室からキングサイズのベッドが運ばれ、キッチンからは四人掛けのテーブルが運ばれていく。
きっとここで家族が生れ、育っていくはずだったのだろう。
そう思うと、他人であった目黒さえすこし切なくなる。
他方、現実的なことも考える。
墨田は今夜、どこで食事をし、どこで眠るのだろう。
そんな横顔を墨田は見ていて、業者を見送ったあとに説明した。
「別にシングルベッドがあるの。仕事から先に帰って来たほうが大きいほう。遅いほうがシングルベッドを使うって決めてた。シングルベッドはほとんどわたしが使ってたの。一緒に寝てたのは最初の一年くらいだけ。」
「でも、せっかくなら、大きいほうを残したって良かったんじゃない?」
うーん、と苦笑して考えてから、彼女は口を開いた。
「あっちのベッドでね、してたのよ。可愛い子だった。会社の部下らしい。」
「見たの?」
「うん。」
「……ごめん。」
「いいのいいの。浮気はね、許してたから。家でしてたのは許すつもりないけど。けど、ほんとに嫌だったのはそのあと。たぶん上司と電話で話してたんだけど、『女のくせに』ってあいつ言った。話の脈絡はわからない。でも許せなくてね。わたしほとんどパニックみたいにまくし立ててた。泣きながら怒った。出てって、って叫んでた。」
それまでの舞台女優のような話し振りとは違い、ただの報告のように淡々と言ったから、かえって悲しく聞こえた。
目黒も悲しい。
赤坂の浅ましさに、心底憤りを感じた。
そんな人間が数年間も彼女の隣を独占していたことに、激しい怒りを覚えた。
墨田と知り合ったのも、好きになったのも、目黒が先だった。