03.接近
【文字数】4462字 【推定読了時間】約9分
はやり真夜中だった。
目黒の友人こと赤坂は、目黒のベッドの横で、ついさっき買ったばかりの寝袋に入ってうとうととして、しばらく沈黙していたが、ふと声を落として言った。
「どっかで、なんか、……音してない?」
「……いや?」
目黒が否定しても、赤坂に意見を変える気配はなかった。
「ずっとだよ。もう一分くらい。……『コ、コ、』ってさ。」
その擬音語を聞いて、目黒はやっとあの音のことではないかと思い当たった。だが伝えなかった。「そうか? どっかの部屋の生活音だろ、気にするなよ。」などと言って答えをうやむやにした。
赤坂が目黒の部屋に泊まって四日目の、真夜中のことだ。
今夜も赤坂は目黒のベッドの横、寝袋の上に仰向けになっている。
ただし彼は完全に覚醒していた。
明かりの消えたシーリングライトをひたすら真っ直ぐに見上げていたが、ついに口を開いた。
「あの音。『コ、コ、』って音、だんだん大きくなってる。前よりはっきり聞こえる。」
「……そう?」
「うん。ほら、……。」
赤坂は黙って、目黒に音を聞くよう促した。
「な?」
そう言われても困った。
目黒は素直に聞き耳を立ててはみたが、しかしなにも聞こえないのだ。
「ずっと鳴ってる。隣……か?」
普段は鈍感で、楽観的で、細かいことを気にしない赤坂にしては珍しく深刻な様子だったから、目黒は幾分か優しい声を出す。
「気にしてるからはっきり聞こえるだけじゃない?」
赤坂は思案顔でしばらく黙ったあと、また口を開く。
「メグ、オレがここに来た最初の日にさ、『幽霊が出るかも』って言っただろ?」
それを言った口が苦いばかりのビールの味だったことさえ、憶えている。
そんな言葉で口火を切って、こんな話を始めたのだ。
『二ヶ月くらい前かな、×××号室の人が亡くなった。
――そう同じ階の、六つ向こうの部屋の人だよ。
――ああでも、亡くなったのは別の場所、東京タワーの足を登って、そこから落ちたんだって。自殺らしい。
ちょっとニュースにもなってさ、俺は全然知らなかったんだけど、たまたまエレベーターに乗りあわせた人が言ってきて。
その人、……六十代くらいかな、まぁ、おじさんだったんだけど、……そのおじさんは×××号室の人とは仕事の関係で知り合いだったんだって。歳も近くて、それで飲みに行くようなこともあったらしい。
×××号室の人が自殺するちょっと前にもね、飲みに行った。それで、近くの居酒屋から二人でマンションに帰ってきたんだけど……。
このマンション、エントランスにモニターがついてるだろ。
防犯カメラが入口とかオートロックあたりを写してて、その映像が映ってる。
×××号室の人がオートロックを開けているあいだ、おじさんは何気なくモニターを見上げた。もちろん、二人の姿が映ってた。
でもね、その背後。入口の向こうの道路が、夜だから真っ黒に映ってるんだけど。そこにね、白い靄みたいなのがあったんだって。
おじさんは振り返って見たんだけど、何もない。で、またモニターを見上げると、やっぱり白い靄がある。
なんだろうと見ているうちに、オートロックが開いて、おじさんは何も言えないまま、二人で帰ったらしい。
その数日後に×××号室の人は亡くなってしまった。
それを知ったおじさんは、そういえば居酒屋で妙なことを言ってたなって思い出したんだ。変な音が聞こえる、とかなんとか。もしかして何かの病気を患っていたのかもしれない、もしあのとき病院を勧めていれば、自殺を止められたんじゃないかなんて思いながら、幻聴を聞くような病気ってどんなのかネットで調べてみたんだ。
で、病気じゃなくて、ある都市伝説を知ることになった。
知ってる?
『東京タワーの四本足のうちの一本が、かつて墓地だったところに建っている。』
それをラジオで聞くと“障り”があるって。
だから多分×××号室の人はそれを聞いたんだろうって、おじさんは言ってた。
そこまで話を聞いたときにはエレベーターはとっくに一階に着いてて、でも話の途中で別れるわけにもいかないし、仕方なくエントランスで立ち話みたいになってたんだけど、正直俺は早く仕事に行きたかったから、これで一段落ついたなよかった、って、そんなことを考えてた。でもおじさんはまだ話をやめなかった。
おじさんは、自分も変な音を聞きはじめた、って言うんだ。
水滴が落ちるような音だって。
あなたはどうですか? 最近、このマンションでそんな生活音を聞きますか? って。もしかして、あの白い靄が自分のところに移ってきたのかも……って。
それ以来おじさんは見てない。上の階で引っ越しがあったのは、もしかしたらそのおじさんかもしれない。
おじさんはそんな話をして、俺になすりつけたかったのかもね。』
赤坂はそれを聞いて『×××号室の人って、……てか、もしかしたらそのおじさんも、その白い靄?に連れて行かれたかも……って話? その音、メグには聞こえてんの?』と尋ねた。『いや、俺には聞こえないよ。でも赤坂にはわかんないだろ?』と、冗談めかして目黒は答えた。
そのときは笑い話にしたが、いまの赤坂にはそうもいかなくなったようだ。
「水の音じゃないんだよ。ノックの音なんだよ。『コ、コ、』って。」
たしかにそう言われれば、そんな気もする。
『コ』という音は壁や床を挿んだ向こう側で鳴っているようにくぐもっていて、低く鈍く響いている、重みを感じさせない軽い音だった。
それは水滴が落ちる音にも、ノックの音にも聞こえる。
だがドアのわきにインターホンがあるのに、なぜノックするのだろうか?
そう思うとノックの音というのは合理的ではないが、赤坂はその考えに固執していた。
「最初に聞こえたノックの音は、そのとき叩かれてたのは、×××号室のドアだったんだよ。それが、だんだん近づいてきてるんだよ。こっちに来てるんだよ。」
「そんなわけないだろ。いい加減にしろよ。そういうの信じる性質じゃないだろ。」
目黒はすこし強い口調で説得するように言い、赤坂は不服そうだったが結局なにも言い返さなかった。
その二日後、つまり赤坂が目黒の部屋に泊って六日目の夜。
「この部屋のドアだ。」
と彼は言った。
ついにこの部屋までやってきて、ドアが延々ノックされていると。
「もうそこまで来てる。すぐそこにいるんだよ……!」
ドアを見つめたまま赤坂は小声で言った。
彼は心底怯えた様子で、その目には妙に熱がこもっていた。
目黒はベッドからすくと立つと、玄関まで行く。
足取りに躊躇はなく、赤坂の「ぁ、…おいちょっと、」という震えた声を背中に浴びても振り返らなかった。
玄関のスニーカーを踏んで、腕を伸ばし、錠もチェーンも外して、出勤時と同じ勢いでドアを開けた。
赤坂は座位からやや腰を浮かした格好で、息を飲んで見守ったが、ドアの向こうにとりたてておかしなところはなかった。
仄暗い吹きさらしの廊下の向こうに、隣接する別のマンションの外階段が見え、そこは天井に設置された棒状の蛍光灯に照らされて、いやに黄色に輝いていた。
それだけだった。
目黒はさして表情もなく振り返って、赤坂を見る。
赤坂も玄関へやってきて、廊下にまで出て左右を見渡した。
やがて赤坂は深刻な顔のまま静かに部屋に戻った。目黒も施錠して戻り、ベッドに座る。
赤坂は寝袋の上にゆるく膝を抱えて座って、硬い表情のまま、まだ玄関を見ていた。
そんな彼の頭に、目黒はささやかなゴミをポイと捨てるように言った。
「嘘なんだよ。」
赤坂はドアから目線を引きはがすように目黒を向く。
「作り話なんだよ全部。」
「…………なんで?」
赤坂の声は弱々しくかすれていた。
「高い給料貰ってタワマンに住んでる奴が、嫁さん裏切って浮気して追い出されて……、それを、こんな部屋に住んでるうだつが上がらない独身男に向かってさ、オレは不幸だ、可哀想だ、って……。そんなの聞かされたら……」
目黒は浅笑いを浮かべながら怒りを隠しきらない低い声で話し、赤坂が困惑しているのを見た。
そんな顔をするのもわかる。彼らが親しくしていた頃とは打って変わって、こういう口を利けるのが意外だったのだろう。
俺だってこんな人間には成りたくなかった。バカ正直の優しい人のままでいたかったよ。
そういう思いが湧いて、目黒は言葉を継げなくなる。感情に任せてまくし立ててやりたい気持ちもあったのだが、結局、一言だけ選んだ。
「……ムカついたんだよ。」
赤坂が呆然としたままだったから、目黒は簡潔に言いなおす。
「出てってほしくて怪談話をでっちあげたの。」
赤坂ははっとすると、途端に気まずそうに口を開いた。
「ごめん…違う…そんなつもりは…メグがそんなふうに感じるなんて思ってなくて、」
彼のたどたどしい謝罪の言葉を、長々聞くつもりは目黒にはなく、言葉を被せる。
「あぁわかってるよ。赤坂がそういう奴だってこと。」
目黒の言葉は、許しではなく諦めだった。
自分を善人だと信じている悪人に改悛の見込みはない。
ほとんどの人がそうであるように、赤坂もまた完全な悪人ではないが、完全な善人でもありえなかった。
この声のニュアンスにも、目黒が赤坂に対して持っているわだかまりにも、赤坂はきっと気づいていないだろう。そもそも目黒の心情を思いやることさえないのだから。
「なら、……なんだったんだよ。さっきまでずっと聞こえてた、……あんなにはっきり聞こえてたあの音は。」
赤坂は爪先に落ちていた視線を目黒へ上げた。
すがるような目つきだった。
「メグにはほんとに聞えてなかったのか?」
目黒は頷く。
「……これ…なに? ……幻聴?」
自分自身に問いかけるように赤坂が呟く。
目黒は初めて彼に同情できた。可哀想だと思った。
「疲れてるんだよ。」
目黒は優しい声を出す。
「俺にも経験あるよ。前にちょっと産業医にお世話になったことがあって……。心が参っちゃうと、そういう症状が出る人もいるんだって。」
赤坂は強張った顔のまま黙っている。
「ここに来たときから、なんとなくわかってたよ。大学時代、正直、俺たちそんなに仲良くなかっただろ。なのにここに来るなんて、もうほかに宛てがなかったってことだよな? 嫁さんからも浮気相手からも拒絶されて、それでこんなとこに来るしかなかった……。赤坂、昔から女にも男にも好かれてたから、こんな孤独知らないよな。応えてるんだよ精神が。」
「ちがう、そんな……、」
「もう帰れよ。帰ってスミちゃんに誠心誠意謝って、これからは真面目にやっていけばいいよ。」
赤坂がなにかを察したように、目黒をじっと見上げる。
「メグ、まだあいつのこと……」
目黒は、そうはしたくなかったのだが、思わず視線をそらしてしまう。顔はわずかに歪んだ。
赤坂は眉間にしわを寄せて俯き、しばらく考え込んでいたが、やがて弱い声で言った。
「ごめん、今夜まで、泊まらせて。」
赤坂は翌朝にこの部屋を出て行って、戻ってこなかった。
さらにその翌日に、赤坂は彼の家にも帰らなかったのだと聞いた。
赤坂のスマホから電話をかけてきた、彼の妻に教えられた。
トラックに轢かれたそうだ。
彼は病院で息を引き取っていた。