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02.異音

【文字数】2124字 【推定読了時間】約5分




 最初の異変は音だった。


 布団に入って眠りに落ちるまでのあいだのことだ。


 なにをするわけでもない、ぼんやりとした時間に、かすかに音が聞こえた。


――コ……コ……コ……コ……――


 ここは都市部にある単身者向けマンションの一室だ。

 日中であれば、外からの喧噪や、上下左右からの生活音でかき消されて、きっとそんな小さな音は聞こえなかっただろう。

 夜中に周辺が静まって、住人自身もあとは眠るだけとなって、頭のなかの考えも落ち着いた寝入り(ばな)だったから、やっと聞こえたような音だった。


――コ……コ……コ……コ……――


 この部屋を借りている彼――目黒(メグロ)は、聞くともなしにそれを聞いた。

 

 くぐもっていて、鈍く、軽い音だ。


 鳴るのが短時間であれば捨て置くこともできたが、それは延々、等間隔で鳴りつづけるものだから、目黒はなんの気なく音の出所を耳で探す。


 音の遠さからしてすぐ隣ではないだろう。方角はわからないが、隣のさらに隣か、もし廊下で鳴っているならもっと離れたところからのはずだ。


 どこかで水漏れでもしているのか。

 雫が床を叩いて、その振動が壁を伝って、こうして聞こえているのだろうか。


 ――あるいは、幻聴か。


 その可能性に、目黒はすぐに思い当たった。

 以前ひどく悩まされていたせいだ。


 もう五年以上も前、目黒が新卒で入社した会社がいわゆるブラック企業で、そこで三年も踏ん張ってしまったせいで脳の動きに悪い癖ができてしまった。

 平日も休日も昼夜を問わず上司から罵倒の電話が掛かってきていたから、電話の着信音の幻聴は目黒にとって珍しいものではなかった。怒鳴り声を悪夢に見て飛び起きるというのも、よくあることだった。


 そういえば、当時の上司は電話をしている最中にデスクに当たる癖があった。苛立って拳の関節で『コンコンコンコン――』と小突きつづけることもあれば、罵声に合わせて手の平が赤くなるほど『バンッ! バンッ!』と叩くこともあった。

 あくまで素人考えに過ぎないが、そのフラッシュバックが聴覚に限定して起こっているのかもしれない。


 幻聴を含め、体の不調はその会社を辞めたあとも続いている。

 睡眠障害や急な眩暈などは減ってきてはいたが、しかしかつての怒号が突如として頭のなかに鳴り響くことは完全にはなくならず、ありもしない着信音を聞くことも時折あった。

 無職の期間や短期の仕事をいくつか経て、自分を犠牲にしない働き方を徐々に身につけていき、最近ではようやく自分の給金に見合うだけの責任を取ることを覚えてきた。

 いまは収入はそこそことしても、休暇をあたりまえに取得できる会社で働いている。

 一日一日を生き延びている自分を労わりながら、丁寧に、懸命に生活している。


 そういう生き方をしているのは、自分の精神がともすれば患ってしまうような不安定なものだと了解しているからであり、だからこそ幻聴を聞いている可能性を抵抗なく受け入れられるのだった。


 とはいえ、悲惨な過去を思い出してしまった彼はすっかり気が滅入る。


 異音をかき消し、気分を変えるためにイヤホンを耳に挿した。


 気が滅入ることもよくあって、そうなると今度は幻聴よりも不安の妄想のほうが酷くなる。そんなときは、これは自分の本当の声ではない、病気の声なのだと思って、音楽でもラジオでもいい、頭のなかの声から耳をふさぐのが、彼が親しんだ逃げ道だった。


 今夜はラジオにする。


 彼はベッドわきの棚に、手の平(だい)のポータブルラジオを置いている。

 非常時に必要だからという言い訳で以て購入したが、それは持ち出し袋に仕舞われることなく常用されていた。


 ラジオを胸の上に置き、右手をかける。


 ノイズに耳を傾けながら、人差指でゆっくりとチューニングして、声を探す。

 この作業が醍醐味なのだと感じている。頭であれこれ考えるのではなく、一つのことに集中して、実際に動き、物に触るということが、彼には必要なのだ。

 そして声を探り当てる。

 そのあとの彼は、まるで幽霊になった。

 暗いワンルームから抜け出して、ラジオパーソナリティのそばへ行く。

 そこで語られるのがユーモアのある独り言であれ、放送コードを守った愉快な喧嘩であれ、すぐ隣で聞いているような感覚で、しかし決して話しかけられはしない。決して気づかれはしない。

 こと繊細になっている夜の彼にはそれが心地良い。自分の存在を知られるのは恐ろしいが、人の温かみはすこしだけ欲しい。そういう彼の願いにラジオはうってつけなのだった。

 時折、きっとどこかで誰かも暗い部屋でひとり、こうして聞いているのだろうかと想像する。

 逆にいえば、ラジオ放送局のスタジオには、孤独な幽霊たちが身を寄せ合っているのだろう。互いの存在を感知できないまま、しかしほのかに信じながら。

 ある周波数に同調(チューニング)することで、孤独さえも共感する。

 いくら時代遅れと(そし)られても、夜に孤独が溜まる限り、深夜ラジオはきっと滅びないだろうと彼は思う。

 そして孤独は――毛布に包まれたぬるい寂しさはやがて、パーソナリティの声と言葉の力によってさらわれる。

 そうやって彼は眠るのだ。




 『コ、コ、コ、コ……』という音は数日続く。


 半ば幻聴だと決めつけて気にしないよう努めていたので、彼の部屋に泊まりに来た友人が『聞こえる』と言ったとき、ゾッとした。




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