今夜はいい月ですね
「良い月の晩ですね」
いつの間にか眠っていたらしい。
声で初めて彼がそこに居る事を知った。
彼は月光で明るくなった猫の額程の庭に、姿勢良く立っていた。黄金色の瞳が真っ直ぐこちらを捉える。
意外にも私は彼に驚きはしなかった。
月色のシルクハットに同色の燕尾服、その袖から伸びた手は銀色の体毛に覆われ、樺で拵えた杖のグリップを握っていた。
「今晩わ。お邪魔致しましたか」
「…こんばんは」
挨拶に応えて、彼の視線を辿れば私が座る縁側に置いた盆に行き当たる。盆に載っているのはコンビニで買ってき来た串団子がパックに入ったままなのと、伏せた杯が一つ。
「あっ!…これは、違いまして……そういうのではなく」
慌てて言い訳しようとする自分が奇妙に恥ずかしくなった。訳があるのに、誰かに知られるたくないなんて。
だが、私の慌てぶりに気付かぬ振りをしてくれたのか、彼はそうですかと目を細めただけだった。
「では。ご相伴に預かっても宜しいですかな」
「ああ。…どうぞどうぞ」
では。と言って、シルクハットを取って脇に抱える。どうやってあの帽子の中に納めていたのだろうか。こちらも銀色の毛に覆われた長い耳がぴょんと立ち現れる。
そして音もなく縁側に近付くと、盆を挟むようにして私の隣に座った。
私が伏せたままの杯を取って彼に渡す。受け取った彼は黄金色の目を細め、長い耳が仲良く左右に揺れ出した。
杯に注ぐ日本酒は、有名酒造メーカーの安価な一本だ。中秋の名月だからと言って、私は銘柄に拘る質ではない。どうせ今夜は一人酒だし。そう思っていたのだから、突然の来客に対して躊躇いはあったが彼は「構わない」と、とっておきの酒を出そうかと腰を浮かした私を押し止めた。
杯の水面に映った満月はゆらゆら形を定めない。
「本当に、今晩は良い月ですね」
「ええ。……中秋に綺麗な満月が見られるのは、とても珍しいそうですよ」
昼のニュースで若い女性アナウンサーがスタジオのパーソナリティに説明していたのを、そのまま口にしていた。
「そうですか…なら、なおのこと今晩の月は素晴らしい」
嬉しそうに杯を傾ける。更に目を細めて、彼は嗚呼美味しいと感嘆の声を漏らす。
お互いにとりとめもない話をした。話を終える度に杯を酌み交わし、また次のとりとめもない話をする。時には身振り手振りで説明に忙しくなる。
誰かとこんなに沢山話をするのは、本当に久し振りだ。
月が雲に隠れたか、不意に庭が薄暗くなる。本来の夜の闇が姿を現した。その闇が私の奥をざわつかせる。
饒舌だった私が黙り込んでしまったので、彼は口に近付けていた杯を下ろした。
「どうされました?」
「あ……いえ。ちょっと…」
応えて手元の杯に目を落とす。月は映らない。真っ黒い液体に変わってしまった酒を見つめたまま、無言の時間が続く。彼は黙って、私の言葉を待っているようだ。私は、漸く口にした。
「…先日、人間ドッグを受けましてね、その結果が今朝…封書で届いたんです。ちょっと数値が異常な箇所が見つかって、胃の精密検査を受けるように、とあったんです。…まあ、五十も半ばになれば、何処かしらガタが来るだろうとは思ってたんですけどね。流石に、こう…はっきりと書かれちゃうとね……堪えまして」
『要検査』
たった三文字で私は不安に駆られている。もし、深刻な病気が見つかったら?癌、だったら?それが悪性腫瘍だったら?手術しても助からない程進行していたら?私も余命宣告を受けてしまったら?
夜闇に惹かれて、私の中に押し込めていた黒いものが這い出してくる。そして私に張り付き纏わりついて来る。じわりじわり。私を飲み込もうとする。
私は、やはり死を恐れている。未だに生に縋り付いていたのだと驚かされる。
つい顔を上げれば、隣に彼の目があった。
この暗がりの中でも、彼の黄金色は輝いていた。ただ、じっと私を見ているだけだ。
それだけで纏わりついていた黒いものが、霧が晴れるように消えていなくなった。
暗かった庭に一筋の光が差し込んだ。黒い雲の破れ目から月が顔を覗かせている。
明るい庭に戻った様子を眺めて、私はほうっと息を付いた。
「庭も、良く手入れされてますね」
何事もなかったように彼が言う。私はそれを彼なりの配慮と受け止め、
「元々は妻がガーデニングを始めて、庭のあちこちをいじってましたが今は…私が。放っておくと、あっという間に草ぼうぼう、で大変ですよ!」
彼はそうですかと応えた。
またとりとめもない話が続いた。
パックの串団子も勧めた。コンビニで一パック三本入りで百円程しかしないと伝えると、彼は大変驚いていた。
みたらし団子を選んで良かった。口に頬張った彼の黄金色が一番大きく広がったと思えば、次に最も細くなった。長い耳がずっと小刻みに揺れている。
いつの間にか、月が大分西に去っていた。
「おや。もうこんな時間ですか。随分とお邪魔致したようですね。……お団子、美味しかったです。そろそろお暇致しましょう」
言われて私は急に寂しい気持ちになった。然し、一方で私は引き留めてはいけない、とも判っていた。
立ち上がった彼は杖を左脇に抱え、空いた手に月色のシルクハットを携える。二歩、庭に近寄り私に背中を向けた。
「あっ…あの!」
シルクハットを被りかけた姿勢のまま、こちらを振り返る。私は、叶うとは思えなかったがそれでも口にしたくて堪らなくなった。
「また…来年もっ、一緒にやりませんか?!…今度はいい酒を用意しておきますから。団子も、みたらし団子をいっぱい」
彼は嬉しそうに目を細めた。そして彼の口が開いたが、何を言ったのか何を告げたのか。今も思い出せない。
「……た」
ただ、私は失礼な事に余所の事を考えていた。
(ああ彼の杖が、どうして一目見て樺の木だと思ったか解ったぞ。そうだ、あの杖は)
「あ……た」
「あなた!」
妻の大声で目が覚めた。
「あなた起きてくださいな!もう…こんな所でうたた寝だなんて、風邪を引きますよ!…昼間は暑さが続いてますけどね、夜は急に冷えたりするんですから。全く…だからお酒はほどほどにして下さいって言ってるじゃありませんか」
相も変わらず、妻は良く喋る。
右手に掴んでいた杯は、傾けて溢したかそれとも飲み切ってしまっていたのか、空になっていた。
杯の中にはもう、月はいない。
「あら」
妻が盆の上に伏せ置いた筈の杯を見つけた。
「いやだ、お客様がいらっしゃったのなら一声掛けて下さいな、何のお饗応もせずに帰してしまったなんて……まあ!これ、そこのコンビニで買ってきたんでしょう?いやだわあ、パックのままお出しするなんて…せめてお皿に移し替えるぐらいはしないと!」
もう!もう!
妻の、一人でも十分賑やかな声が懐かしく感じる。
「あ、それから!」
妻の説教はまだ続くらしい。
「何ですかっ、あれは。新聞紙の間に挟んでありましたけど、健康診断の結果!再検査ですって?…もう、あれほど健康管理を徹底して下さいとお願いしてたのに!お酒の飲み過ぎなんですよ!…全くもう!………いいですか、あなた。病院に今すぐ連絡して、検査の予約を入れて下さいね!…注射が恐いからイヤだ~、なんて言って逃げないで下さいね!」
思わず苦笑いした。白い杯の底に再び月が現れる事はないだろう。
空の杯から漸く目を離した私は
「おー、お前も一緒にどうだ?呑まないか…」
と言いながら家の奥へと振り返ってみたが、もう妻はいなくなってしまっていた。
完―
今夜(2022年9月10日)の中秋の名月は、お天道様の御機嫌により拝謁叶わないと予想し、十数年前に思い付いて丹念に寝かし込んでいた話のネタを、大慌ててで形にした次第です。(最初はもうちょっとファンタジックだったのになあ…)
誤字脱字、表現の「んん~?」な所がありましょうが、ご愛嬌と言う事で(笑)ここは一つ、穏便に願いますm(_ _)m