7 師匠(メアリーナ)視点
話のキーポイントになる女性の登場です。彼女がトーマス父娘の中心的なサポーターになります。
私があの男に初めて会ったのは、名残り雪が舞う、まだ肌寒い春先だった。教会の中庭のジューンベリーの木の下で、小さな白い花なのか、それとも雪なのか、耀きのない暗い瞳で見上げていた。
そしてその男の腕の中にはおくるみに包まれた赤ん坊がいた。このままでは赤ん坊が凍えてしまう。私は教会の中へ彼を誘い、暖房の効いた応接室へ通した。
中庭で何を見ていたのかと尋ねると、男は花を、ジューンベリーの可愛らしい白い花を見ていたと言った。妻が好きな花だったからだと。
窶れてはいるが身なりのきちんとした、三十路前のまだ若い紳士だ。この年で赤ん坊だけ残されて、妻に先立たれたのだろうか。と私は考えたが、彼が名を名乗った時、それは間違いだとわかった。
教会に仕える身ではあるが、世間の噂話は嫌でも耳に入ってくる。小さな事も大きな事も。そして五か月前に起こった隣の町のスキャンダルは、口うるさい雀達にとって格好の美味しすぎる餌であった。
彼は若くして一代限りの男爵となり、隣町の教会には昔から多額の寄付金を納め、奉仕活動にも積極的に関わっていたと聞き及んでいる。それなのに、彼が真に苦しい時に助けないとは。同じ聖職につく身として申し訳なく思うと同時に、所詮同じ人間であり、人など救えるわけがないと改めて皮肉めいた感情に襲われた。
赤ん坊の事で相談したい事があってここを訪れたのだと彼はそう言った。しかし言いにくいのだろう。なかなか話を始めない。だから助け舟を出そうとしてこちらから話しかけた。
「赤ん坊のお名前は何というのですか?」
「アマンドと言います。間もなく三ヶ月です」
「今まで赤ん坊のお世話は誰がなさっていたのですか?」
「妹がしてくれていました。妹にも同じくらいの赤ん坊がおりますので、一緒に乳を与えてくれています。しかし、間もなく夫の領地に戻ってしまいます」
「それでは新たな乳母が必要ですね」
「はい。その乳母の目処はついています。ただ、この赤ん坊をどう育てていけば良いのか悩んでいます」
「それは自分では育てられないから、養子に出したいという事ですか?」
私がそう尋ねると、意外にも男は首を横に振った。そして私の目をしっかりと捉えると、声のトーンを下げてこう言った。
「誠に失礼ですが、シスター、貴女様は以前は王宮の聖堂にいらしたメアリーナ様でいらっしゃいますよね?」
私は瞠目した。動揺を隠せないとは、まだまだ修行が足りないようだ。
唯一前王妃の秘密を知る私は、命の危機を感じて王宮から逃走して、国中を逃げ回り、国境近くのこの小さくて古い教会にようやく居着いたのが五年前だ。
また、急いでここから逃げ出さなければ、とため息をつきたくなるのをぐっとこらえると、彼はぎこちなく笑みを浮かべた。
「ご安心下さい、メアリーナ様。貴女様の事は絶対に他所へは漏らしません。私に情報をくれた方も同様です。天に誓います」
「誰が私の情報を貴方へ与えたのですか? それがわからねば、信用出来ません」
私が疑惑の目で彼を見ると、彼は上着のポケットからオーバル型のロケットペンダントを取り出した。そのシルバーの本体には、ピンク色のゼラニウムの花の絵が描かれていた。
私はそれを凝視した。そして彼からそれを受け取ると、ロケットを開いた。中には私と親友アリスの姿絵が小さく描かれていた。間違いなく私がアリスに贈った物だった。
「どうやってこれを?」
「王都にいらっしゃるアリス様とは、以前から親しくさせて頂いております。アマンドの事を手紙でご相談したら、『貴方の隣町に親友の聖女がいるから相談してご覧なさい。ただ諸事情により身元を隠しているので、本心で語ってもらえない恐れもあるので、このペンダントを見せなさい。そうすれば信用してもらえるでしょう』と梟便で手紙と共に送って下さいました」
梟便とは、主が使い魔である梟と契約し、主からの依頼ならば何処へでも安全かつ、素早く手紙を届けてくれる郵便制度である。
彼はアリスからの手紙を私に見せた。確かにその手紙はアリスの筆跡であり、私達二人しか知らない暗号が何か所か記されていた。これは本物で間違いない。
アリスは王都の同じ教会で育った姉妹であり、唯一心許せる友であった。私が王宮から逃げ出すのを助けてくれたのも彼女だ。彼女からの依頼ならばどんな事でも叶えなければなるまい。そして私はその手紙を読んでその決心を強くした。
赤ん坊が突然泣き出した。
「おむつが汚れたんだと思います」
そう男が言って立ち上がると、今まで自分が座っていたソファの上に赤ん坊を寝かせ、おくるみを広げた。私は思わず目を大きく見開いた。手紙には確かに書いてはあったが、実際にこの目で見て、思わずギョッとした。こんな辺鄙な田舎で、こんな高貴な血を引く赤ん坊を見ようとは。
もっとも、この赤ん坊の本当の父親は血統主義のクズ野郎のようだが。高貴な血統の血だからといって、それ持つ人間までが素晴らしいとは私は少しも思ってはいないのだ。
赤ん坊のオムツを手際良く替えていたその男の名前は、トーマス=エドワードといった。
彼は五か月前に場末の酒場女を妊娠させ、その女に乗り込まれた挙げ句、嫉妬に狂った女房に刺された哀れな男。その後、妻は正気に戻らず、一人娘とともに実家に帰った。そしてその浮気女には赤ん坊だけ押し付けられて逃げられた、情けない男。それが専らの噂だった。
しかし、アリスからの手紙を読まずとも、その噂話が出鱈目である事は明らかだった。赤ん坊を見れば、父親がトーマス=エドワードでは無い事が一目瞭然だったからだ。
その赤ん坊は雪のような白い肌をし、金色の瞳を持ち、一部が金色というメッシュの銀髪をしていた。
金銀メッシュヘアーに金色の瞳とは王家の血筋を示している。そして、王家の血筋を引く公爵家などにもたまに誕生する。そう、例えばリリースリー公爵家の現当主のように。
母親の血筋の可能性も当然ながらあるのだが、その生みの母親は赤毛に紺色の瞳をしていたという。その上、酒場女が王家に繋がる人間だとはどうしても思えないし、考えられない。という事は、赤ん坊はトーマスの子ではないという事だ。
まあ、そんな事はすぐにわかる。私は血筋の分かる魔術が使えるのだから。だからアリスは彼を私の所に寄越したのだろう。しかしその前に、トーマスをその女の働いてた酒場へ連れて行ったという、知人の男から話を聴かねばならないだろう。
トーマスは事件前にその女と会ったのはたった一回だという。しかもその知人におごられたたった一杯の酒で酔っ払って、彼は意識を無くしたというのだからね。
赤ん坊の身の安全のためにも、私がアマンドを育てる事にした。そして、トーマスには名前を変え、別の人生を生きるようにと勧めた。
彼は何も悪くない。しかし、真偽に関係なく人は自分にとって都合のよい、面白い解釈を真に受けるのだ。そんな奴等の為に、無実の者が意味なく傷付けられて良い訳がないのだ。実の名を隠す事は逃げではない。甘んじて現実を受け入れ、不幸になる事こそが逃げである。
私はトーマスに関わった事により、今まで目を逸らしてきた事柄に改めて向き合う事となった。アリスもそれを望んだからこそ、王家絡みの相談事を持ち込んできたのだろう。
こうして私はトーマスや、その娘とも深く関わる事になった。しかもその結果、彼女とは師弟関係まで結ぶ事になったのだ。これも不思議な縁だ。
私は彼女に、私の持つ魔術を全て教え込んだ。そしてシェリーメイはただ逃げた私とは違い、あの秘法である『コンシネ魔術』(血筋のわかる、いや、暴く魔術)を上手く使い、悪に立ち向かったのだった。
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