3 侍女(エルザ)視点
この章は、大人の女性視点でのヒロインの子供の頃の話です。
もう十七年も前の事になりますかね。あの朝の衝撃は今でもはっきり覚えていますよ。
そう、季節が秋から冬へと変わったある日の早朝、私は自警団の男に叩き起こされました。そして話を聞いて驚嘆しました。
昨夜、私が仕えている男爵トーマス=エドワード様が、奥様のマリエッタ様にナイフで刺されたというではありませんか。
お二人はとても仲睦まじく、結婚して八年も経つというのに、まだ新婚なのかと思えるほどに、互いに愛を囁いていました。
「君が一番好きだよ」
「私も貴方が一番好きよ」
「一生俺には君だけだよ」
「私も一生貴方だけ」
聞いているこちらが恥ずかしくなるような台詞をいつも口にしていました。
旦那様は見目麗しいだけでなく、頭がよく、仕事の出来る紳士でした。人柄も良く、女神様の生誕祭の日には、奥様やお嬢様だけではなく、使用人の私や教会、孤児院にまで贈り物を配られる慈悲深い方でした。
奥様もそれはそれは美しい方でした。輝くような金色の髪に意思の強そうな緑色の瞳。透けるような白い肌をお持ちで、その上大変聡明な方でした。
こう言ってはなんですが、あんな地方の田舎町に住んで良いような女性にはとても見えませんでしたよ。
奥様は結婚当初は、全く家事が出来ませんでした。いえ、家事どころか、ご自分の身の回りの事さえ何一つ。
旦那様は慌てて私以外にもう一人、家事専用の侍女と、奥様専用の護衛の者を雇い入れました。
後で考えればそれも当然の事だったでしょう。奥様は都の公爵家の令嬢だったのですから。
奥様は確かに最初は何一つ出来ない方でしたが、頭が良く、しかもやる気も好奇心も旺盛でしたので、半年ほどで自分の身の回りの世話はもちろん、家の事も大分出来るようになっていました。それは敬服ものでした。旦那様もご自分の為に一生懸命に努力なさる奥様を、より一層愛し大切になさっていました。
そしてそれから間もなくして、奥様は身籠りました。お二人の喜びようは側で見ていても引くくらいでした。
「ああ、君に似た子がいいな。きっと美しく、優しく、頭の良い子になるだろう」
「いいえ。貴方に似た子の方がいいわ。貴方のように明るい茶色の、ふわふわした髪に、貴方のように澄んだ明るい茶色の瞳をした、可愛らしい子がいいわ。きっと優しくて思いやりがあって、たくましい子になるわ」
結局は奥様の望んだようなお子様が生まれました。旦那様に瓜二つの明るい茶色の髪と瞳を持った、それはそれは美しい女の子が。しかし、それが皮肉にも、奥様とお嬢様に不幸をもたらしました。
考えても仕方のない事ですが、もしお嬢様が奥様似だったら、あの悲劇だけは最低限防げたかもしれません。まあ、今更言っても詮無い事ですが。
お嬢様のシェリーメイ様が生まれてから、エドワード男爵家はさらに発展し繁栄していきました。
元々商才に長けた方でしたし、奥様とお嬢様をとにかく愛しておられましたから、お二人の為と一層お仕事に励まれたからです。
しかしその仕事の成功で、旦那様の名声が都まで知れ渡り、あの蛇男の耳にまで入ってしまったのが、エドワード男爵家の破滅の原因でした。
あの悪魔は蛇男であり、その上蜘蛛男でした。執念深く、ジワジワと網を張り、エドワード家を搦め取っていったのです。
あの賢く優しい奥様が旦那様を刺した事は、まさしく青天の霹靂でした。
ご夫妻の八回目の結婚記念日、私はいつもより豪華な晩餐の準備を早めに終えて帰宅しました。遠い町へ嫁に行った娘が生まれたばかりの孫を連れて里帰りをしていたからです。
「明日帰ったら、また久しく会えないのでしょう? 早く帰ってあげて」
ご自分は実家にも帰れない身でありながら、私に優しい言葉をかけて下さった奥様に感謝しながら、私は家路につきました。『赤ちゃんに着せてあげて』とプレゼントして頂いたベビードレスの包みを抱いて。
別れる直前まで、奥様はいつも通り、美しく優しい、穏やかな笑顔をされていました。
それなのに・・・・・
翌日の早朝、私は自警団の男達によって叩き起こされました。
最初のうちは何が起こったのかさっぱり理解が出来ませんでした。ただ、旦那様が奥様に刺されて瀕死の状態だから、残されたお嬢様の面倒を早く見て欲しい旨だけはわかりました。
お屋敷の前まで着くと、門の前には自警団の男が二人立っていました。屋敷の中に入り、ダイニングルームに足を踏み入れて、私は絶句しました。
そこだけまるで嵐が吹き込んだように、足の踏み場のないくらいに家具や食器や夕べの料理がグチャグチャに散らばっていました。
そしてテーブルから床のジュータンにかけて、大量の血の跡がついているのを見て、これが夢などではなく現実に起こった事なのだと思い知りました。
私が呆然と立ち尽くしていると、金属のタライを手にした女性がやってきました。彼女は隣の医院で看護の仕事をしている顔馴染みの女性です。
彼女から旦那様が危険な状態からは脱した事を聞かされ、お嬢様が一睡もしなかったので宜しくお願いします、と頼まれました。
私は急いで旦那様の部屋へ向かいました。
旦那様は酷く青褪めた血の気のない顔でベッドに横たわっておいででした。お声をおかけしましたが反応はありません。ただ呼吸をしているのはわかりましたので、少しだけホッと致しました。
部屋を見回すと、ベッドの足側の壁の隅に蹲り、膝を抱えて座っているシェリーメイ様を見つけました。
「お嬢様!」
私は小さく丸まって震えているシェリーメイ様に駆け寄って抱き締めました。最初は反応が無かったお嬢様ですが、私が強く抱き締め直すと、ようやく悲鳴のような泣き声をあげて私にしがみついてきました。
たった六歳だった幼い少女に修羅場を見せた愚かな大人どもに、私は激しい怒りを覚えました。
大分後になって、あの事件は蛇男と酒場女の仕組んだ罠だとわかりました。
しかし、あの時、奥様が旦那様を信じてさえいたら、あの悲劇は防げたかもしれません。いいえ、旦那様と奥様が浮世離れした少女小説のようなままごとのような生活をしていなければ、夫婦喧嘩程度にすんだのです。
浮気を許せとは言いませんが、旦那の浮気の一つや二つでいちいち旦那を刺していたら子供なんて育てられませんよ。しかも、貴族なら庶民とは違って、愛人や浮気なんて当たり前の方々の筈でしょう?
「君が一番好きだよ」
「私も貴方が一番好きよ」
「一生俺には君だけだよ」
「私も一生貴方だけ」
そんな夢みたいな台詞を毎日言い合っていたから、あり得ない現実を受けとめきれずに現実逃避したんでしょうよ。
普通、恋愛脳なんて三年もすりゃ冷静になるもんなのに、あの夫婦は八年も夢の世界を漂っていたんですよ。ある意味幸せだったのかもしれませんが、結果があれではあまりにも酷すぎますよ。
世の中綺麗な事も汚い事もちゃんと向き合わないといけないんです。
とはいえ、幸せと不幸せは全ての人間に半々にあるべき、というのが私の持論です。
まあ、何を幸せと呼ぶのかは千差万別でしょうが、いくらなんでもシェリーメイ様の場合は、極端に不幸せに傾いています。この数年でようやく機が熟してきたようなので、是非ともこの機会に是正させていただこうと思っております。お嬢様を慕う仲間の皆様と共に。
読んでくださってありがとうございます。